蕭何は、劉邦が親迎の儀を行なう日に合わせて、豊に戻って来た。これから自分自身の婚礼が行なわれるまで、しばらくの間は滞在する予定であった。
実家では、一族全体が婚礼に向けて大張り切りであった。すでに寒い最中であったが、叔父たちは蕭何の実家に頻繁に出入りしては、当日の宴会の段取りなどを父母と熱っぽくやり合っていた。その口論は、横から見ているとほとんど喧嘩をしているかのようであった。
「だめだだめだ。兄上、そのような吝嗇(けち)の度合では、何の顔をつぶしまずぞ!」
「そうは言うものの、、、ちと出しすぎではないか?」
「いや!劉家の方は、きっと恐ろしく盛大に行なうに違いない。相手の呂家は、話によると相当金を持っているらしい。それでこちらがあんまり質素だと、蕭家はいい笑いものだ。今後豊で、劉家に頭が上がらなくなりますぞ!」
古来から、婚礼と葬儀に関しては家財を傾けてでも豪華に行なおうとするのが、中国の人々であった。それは、家の威信を賭けて行なうとでも言うべき熱意であった。墨家あたりが無駄な冠婚葬祭の豪華さを批判したところで、それはどうにもなるものではなかった。
小さないとこなどは、久しぶりに美味いものが食べられそうだと喜んでいた。
「うーん、でも表兄(にいさん)が終わったら、その次は結婚しそうな人がいなくなるなあ、、、僕が早く婚礼すればいいのかな?」
いとこは、少々背伸びした言葉を吐いて見せたつもりで、けたけた笑っていた。蕭何は、苦笑した。大人の彼の目から見れば、婚礼などは家財を傾けかねない行事であった。小さないとこは、その辺の大人の事情までは、見ようとするはずもない。
新月の、夜になった。
蕭何は、阿瑾が書いてよこした通りに、深更の時刻に邑の門のところに行った。
空気は冷たかったが、風はそよとも吹かなかった。
物音一つしない、夜であった。
新月なので、建物の影すらよく見えなかった。蕭何は、夜目を利かせて周囲を見回した。誰も、いなかった。
一件だけ、遠くに灯りが点いている家があった。
「劉季は、また宴会か、、、」
この数日、劉邦は沛に行ったりこの豊に戻って来たりしながら、連日連夜飲み暮らしていた。周勃や灌嬰などの面々が付き添っては、豪勢な宴会を続けていた。話によると、王媼(ばあ)さんと武おばさんの店で飲んで、それぞれに大銭の祝儀を払っていったという。銭の出どころは、結局呂家なのであった。
今日も、昼間から周勃に夏候嬰、樊噲などが集まって宴会であった。蕭何も、誘われたので仕様がないから顔を出した。しかし酒があまり飲めない彼であったので、夜が更けると共に一人で退散してきたところであった。
小半刻ほど、経った。
劉家の灯りも、ついに消えた。
蕭何は、一人寒空の中に立っていた。
やがて、夜目にかすかに動く影を捉えた。
彼女が、やって来た。
「鄒氏、、、」
蕭何は、小声で話し掛けた。まだ彼は、間もなく新婦となる彼女のことを、「阿瑾」などと愛称で呼ぶことはしなかった。
彼女は、音も立てなかった。まっすぐ、蕭何の前に近づいた。
「鄒氏、私に何を、、、」
蕭何が言いかけたとき、彼女はそれを遮って言った。
「― 私は、孕んでいます。」
そのとき、蕭何がどのような表情をしたのかを、観察する者はいなかった。
目の前の阿瑾は、彼の表情には注意を払っていなかった。
彼女は、続けて言った。
「― 劉邦の子よ。」
そう言った後、にたりと笑ったように、蕭何には見えた。しかし、真っ暗であったので、笑ったように見えただけであったのかもしれない。とにかく、彼女の言葉は衝撃以上の何ものでもなかった。
蕭何は、寒い空気の中で、体が恐ろしく熱くなっていた。
まさか?
いや、そうだったのか?
なんということだ、、、!
蕭何を阿瑾は、じっと見据えていた。それは、女が自分を破壊することを覚悟したときに見せる、不動の姿勢であった。彼女らの知るところではないが、それは三十数年前に劉家の媼が取った態度と、同じものであった。
(本当ならば、彼女は、この阿瑾は、、、)
婚礼が破棄となるのは、当たり前のことであった。家にかつてない恥をかかせた鄒家の家長は、彼女をおそらく殺すであろう。このような事態であれば、秦の法においても家長による成敗は、罪に問われることはない。たとえ殺さなかったとしても、もはやこの豊に留まることは許されない。生涯、郷里の平穏な世界に戻ることはできないに違いない。
蕭何は、目の前の娘をじっと見た。
夜目が利いてきたので、あろうか。彼女の顔は、不思議なほどに白かった。蕭何は、彼女の目を見つめた。彼は、他人の目を正面から見据えることなど、これが本当に初めてであった。覚悟しているので、あろうか。だが、彼は女の目に、かすかなおびえを見て取ったような気がした。きっと、直感であった。やがて二人の目は、互いに見つめ合っていた。彼女の目を見つめているうちに、蕭何の心は次第に静まってきた。
彼は、懐から白布の包みを出した。
中を開けた。中には、花があった。
蕭何は、言った。
「― これは、葛。」
それから彼は、むかし彼女に教えてあげたときのように、言葉を続けた。
「この辺なら、どこにでも見かける花だけれどな、、、この草の根を、取りにいったことはなかったかい?」
阿瑾は、無言であった。
「― 阿瑾。」
蕭何は、彼女を愛称で呼んだ。
「― 今のことは、誰にも言ってはならない。私と、あなただけの秘密だ。あなたの命を守るために、そうしようよ。」
蕭何は、手に持った花を、彼女の手に渡した。それから、彼女の手を握り締めた。
彼女は、ついに蕭何に話し掛けた。
「― それは、同情?」
蕭何は、答えた。
「そうじゃない。あなたの命が、大切なんだ。あなたが、私にとって大切なんだよ、、、」
蕭何は、にこりと笑った。
阿瑾は、肩を震わせて泣き始めた。蕭何は、彼女の肩を力強く持った。
「大丈夫だ、大丈夫だ、、、私を信じなさい、、、」
豊で二件の親迎の儀が盛大に行なわれるのは、もう間近のことであった。



