豊に入れば、劉家での婚礼が待っていた。
劉邦と呂雉は、劉家の祖先の前で、厳粛に結婚の儀式を取り交わした。
劉家はかなり裕福な農家であると言っても、しょせんは庶民である。宗廟として特別の建物がしつらえられているわけでは、ない。単に、家長の常住する間の奥に一角があって、祖先の位牌が置かれているだけのものであった。両家の者が儀式のために集まったら、立錐の余地もなくなってしまった。
こうして、呂雉は劉邦の正式な妻となった。後に呂太后と呼ばれる女である。彼女を娶ったことは、まれに見る幸運ずくめの一生であった劉邦にとって、唯一の凶事であったのかもしれない。しかし、この時の呂雉は、あくまでも一人の新婦であった。運命は運命として受け入れながら、しかし心は運命に立ち向かって行こうとする、独特の魂を持った女性であった。そのような独特な女だからこそ、同じく独特な男の劉邦は、こうして心動かされたのであった。
婚礼の日の晩は、新郎新婦が二人の部屋で過ごす。新婚夫婦のための部屋を、洞房(とうぼう)と言う。
劉邦は、結婚を機会として、豊に新居を持った。その新居で、妻の呂雉と一晩を迎えるのである。
劉邦は、明日行なわれる喜酒の前祝いだと称して、一同と夜までしこたま飲んだ。夜遅くなってから、新居に戻って来た。
「― お帰りなさいませ。」
呂雉が、待っていた。
「うむ。」
劉邦は、答えた。呂雉が、燭台の灯りを灯して、奥の部屋に導いた。そこが、今夜の洞房であった。ほのかな灯りに、新妻の横顔が照らされていた。劉邦はそれを見ながら、結婚もなかなか悪くないな、と思った。
洞房の床に、二人で座った。
劉邦は、妻と向かい合って、言った。
「俺は、まさか結婚するとは、思わなかった。結婚したからといって、何か態度を変えようという気も、正直言って湧いて来ない― 仕方のないことだ。」
呂雉は、無言で夫を見つめた。
「家の中のことは、全部お前に任せる。俺の顔を立てろ。ただ、それだけだ。」
「はい。」
「― 一つだけ、言ってやる。」
劉邦は、妻に言った。
「世の中には、にこにこ顔の君子が、いっぱいいる。だが、俺は知っている。そう言う奴ほど、家の中では暴君なんだ。家の外で作り笑いをしなければならない分だけ、自分の領域だと思っている家の中では無茶苦茶に暴力を振う。男っていうのは、そんなもんなんだよ。俺が稀な男なのは、外に出ても家の中でも、変わらないことだ。滅多にいないぞ、こんな男は!」
劉邦は、そう言ってにこりと笑った。呂雉も、微笑んだ。素晴らしく美しい、微笑みであった。
外から、プーッ!という吹き出す声が聞こえてきた。
釣られて、数人がぶわはははは!と笑い出した。
初夜の際の、恒例の行事である。一同が、洞房の外から見物しているのであった。
「― もそっと、明るくしてくれよ、見えないじゃないか。劉季!」
こんな声まで、中に掛ける輩までいた。
「曹参、お前まで!、、、」
劉邦は、あきれて中から叫んだ。見物に来ていた曹参も、今日は思い切りよく酔っていた。もともと酒の好きな男であった。
翌日は、喜酒の宴会が行なわれた。
劉家ではとても入り切れないので、豊の裏手の社を使うことにした。
寒い最中であるので、山のように薪を用意した。社の前の広場に高く幕を張って中で火を盛んに焚けば、みるみるうちに温かくなった。これらの用意も、呂家が用意したものであった。
ここぞとばかりに、肉と酒がふるまわれた。庶民にとって婚礼の楽しみは、後で付いて来る宴会に尽きる。楽しみは、多くあるに越したことはない。だが多くを楽しめない貧しい庶民の生活の中でも、こうして一生の節目にたまに楽しむことができれば、その記憶は生涯残ることであろう。昔から人が冠婚葬祭を大事にしてきたのは、ゆえなきことではなかった。そこには、連日飽きるほど宴会をこなしている王侯貴族たちとは違った、生き生きとした楽しみの世界があったのである。
劉邦は、飲んだ。
周勃たちも、飲んだ。
曹参も、昨日から続けて飲んでいた。彼が人前でこれほど飲むのは、珍しかった。
蕭何も、あまり飲めないながらも列席していた。彼は、阿瑾のことが気に掛かって、宴会どころではなかった。これから後に行われる自分自身の婚礼のことも、ほとんど頭の中になかった。今日の宴会の規模は、蕭家のものをはるかに越えているだろう。叔父上はきっと悔しがるだろうが、それも今はどうでもよかった。
そのとき、入り口の方から、もみ合いの問答が聞こえてきた。
「― あんたは、呼ばれてないだろうが!」
今日の宴会を取り仕切っている、廬綰の声であった。
「離せい!今日は言祝ぎに来たのじゃわい、婿どのに会わせなされい!」
女のわめき声が、聞こえてきた。
ついに、廬綰たちの手を振り切って、一人の女が乱入してきた。
巫女の礼装をした、奇矯な老女、、、、孔巫女であった。
「おめでとうござりまする、蛟龍の子よ。」
そう言って、ひ、ひ、ひ、と笑いながら、孔巫女は宴席の真っ只中に乱入した。
劉邦は、彼女を見据えた。
彼女も、劉邦を見据えた。
「何ですか、あの巫女は?」
横の呂公は、婿の劉邦に問うた。
劉邦は、答えた。
「この豊に住み着いた、巫女ですよ、、、孔巫女よ、何をしに来た?」
孔巫女は、平伏して言った。
「― 蛟龍の子よ。ご結婚、おめでとうござりまする。つきましては、お前さまの人生の新たなる門出を言祝ぐために、それがしが巫祝の賦(うた)をば、歌って聞かせましょうぞ、、、!」
そう言って、面を上げた。
劉邦は、呂公に言った。
「― 以前の半両銭は、この巫女からもらったのです。」
「何と!」
驚く呂公の方に、孔巫女は顔を向けた。それから、にたりと笑った。すっかり老いた顔が、怪奇にして底知れぬ謎を秘めていた。
呂公は、劉邦に言った。
「― どうか、この老女の申すとおりにさせてあげて、いただけませんか?婿どの、、、」



