「― これからどうするか、だが、、、」
呂家の長男の、澤が言った。
「沛県は、重大な秘密を持った。今、楚の各地で反秦の活動が政府の目を盗んで行なわれている。沛県もまた、今後は反秦活動の一つとして動いていかざるをえない。劉邦を、何としてでも守るのだ。」
ここに集まった者たちは、みな劉邦に同心した者たちであった。
今、劉邦は罪人である。しかし、事は罪人一人をかくまう問題ではなかった。沛県の地下に、反秦の組織を結成する盟約であった。楚が秦に滅ぼされてから、十二年経った。今、楚の北辺の沛県でも、ついに反秦活動の伏流が、地下から水位を上げようとしていた。
次男の、釋之が言った。
「劉邦は、廬綰や樊噲らと共に、地下活動に入っている。連絡は、我ら呂家の手で行なっている。郡県の目から逃れるために、居場所は極秘にしておきたい。」
釋之の後ろには、見慣れない顔の老人が控えていた。
不気味なほどに白い肌の老人は、まさしく姜痴に外ならなかった。
彼と孔巫女は、劉邦の婚礼があった頃から後、再びこの辺で見かけなくなっていた。
それが、いつの間にか潜伏する劉邦との連絡役として、呂家に出入りしていたのであった。亡き父の呂公が、孔巫女たちと密かに連絡を取り合っていたようであった。しかし彼女らがこの二、三年の間に何を行なっていたのかは、呂家の兄弟たちも知るところがなかった。
澤と釋之の隣に、呂雉がいた。
彼女は、まだ産まれて間もない息子を抱いていた。
名を、盈(えい)と言う。異母兄がいるが、彼がもちろん劉邦の嫡男である。
後に、漢の二代孝恵帝となる。だが成長した後にこの子は、今抱きかかえられている母の恐るべき所業を目のあたりにすることになる。そうして彼は自らの心を殺してしまうのであるが、このときにはそのような運命などは、まだ知るよしもない。
劉邦との間に産まれたこの赤子を、彼女はこの席に連れていた。この集まりの首座であるべき夫の、身代わりとしての乳飲み子であった。それを抱える母は、この場にいない劉邦の代理として、太い覚悟を持って座っていた。
呂雉は、居並ぶ男どもを見回した。
(男が、いないねえ、、、)
やはり、沛の中で男と言えるのは、夫の劉邦だけであった。
彼女は、残された者たちの顔に、不安を見て取った。
本来この座の者たちをまとめるべきなのは、自分の二人の兄であった。だが、呂雉は彼らにも、どこか決然としない弱さを感じ取った。結局、彼らは父の見立て通りに、乱世を単独で泳ぎ切れる器ではなかった。
他の者たちは、なおさらであった。始皇帝は、まだ健在で現在巡幸を行なっている。この恐るべき君主に逆らって、この先どのような結末が待っているのか。乗り出しはしたものの、楽観している者など一人もいなかった。
(秦が、怖いのかい、、、男のくせに。)
彼女は、男たちを突き放した思いで見た。男たちの弱さを見て取った彼女は、夫に代わってこの芋の子どもを劉邦の配下として固めなければならないと、思った。
彼女は、兄たちに言った。
「兄者、、、まず、手始めにやっておくべきけじめが、ありますよ。」
釋之が、聞いた。
「けじめとは、何だ?」
彼女は、座の全体に向き直った。そうして胸に乳飲み子を抱えながら、言葉を切った。
「獄で、この我を打ち据えた男であるが―」
獄で彼女を訊問した、官吏たちであった。彼らは、夏候嬰らに同心することを強要されていた。それで、一人を除いて、この場に強いて立ち会わされていた。除かれた一人とは、獄で呂雉を打ち据えた官吏であった。彼は、どうしても夏候嬰らに同心することに同意しなかった。それで、現在この呂家に軟禁されたままとなっていた。
彼女は、きりりと冷たい声で申し渡した。
「仮にも、首領である劉邦の妻を打ち据えるなどは、許しがたい。」
全体が、沈黙して彼女の言葉を聞いた。
「― どうすれば、、、」
周勃が、恐る恐る尋ねた。
「殺めよ。」
一座全体に、戦慄が走った。獄で彼女を訊問した官吏たちが、下を向いて小刻みに震え始めた。
すでに、彼女はこの座の空気を支配していた。
呂雉は、家の者に命じた。
「酒を一椀、持ってこよ。」
しばらくして、木の椀に並々と注がれた酒が持ってこられた。
彼女は、横の兄たちに言った。
「この座に集まった者どもは、我が夫劉邦を首領と仰ぐことを誓った、いわば劉邦党です。本日は、この劉邦党の結盟の誓いをいたしとう、ございます。どうか、お許しくださいませ。」
彼女は、にこやかに笑った。
それは、普通の若い母親の笑みであった。とても、先ほど人を殺める命を下した女とは、思えなかった。兄の澤も釋之も、妹の言うがままにさせるより他はなかった。
彼女は、乳飲み子の頭を優しくなぜながら、ゆるりと胸から離した。
子が泣かないように、母はにこりと微笑みかけた。
子の口が離れた先には、あらわな片胸が見えた。先には、うっすらと乳がにじみ出ていた。
全員は、ぞくりとした。
彼女は、木の椀に注がれた酒に、自分の乳をかざした。
手を添えて力を加えると、ぽとりと一滴の乳がしたたり落ちた。
「女が肌を見せる男は、生涯でただ二つの酒類だけ―」
彼女は、椀をわずかに揺らしながら、つぶやいた。
「一つは、夫。そして、もう一つは、産んだ息子。」
彼女は、酒に人差し指を入れて、するりと一回しした。
それから、酒を高く掲げて、座の男たちに告げた。
「劉邦を首領と仰ぐ者は、この杯を飲むがよい。杯を飲んだ者は、、、我が息子。生涯、劉家から離れることは、相成らぬ。」
これが、沛の劉邦党が結盟される瞬間(とき)であった。この光景は、劉邦党の男たちの脳裏から、長く消えなかった。呂雉の、白い肌の印象と共に― 男たちは、その後この日の結盟の酒の事情を、生涯夫の劉邦の前で語れなかったのであったが。
翌日。
呂雉を打ち据えた官吏の遺体が、泗水の堤の下で発見された。
下手人は、とうとう見つからなかった。
しかし、姜痴が再び呂家からいなくなってしまった。いざとなればこの男に罪を被せる、予防線だったのであろうか。とにかく、彼は今後二度と沛には戻ってこなかった。



