日は暮れて、夜になった。
酒は、すっかり飲み尽くされてしまった。
劉邦は、夜天を仰ぎながら、一人思った。
「いつまで続くか、、、闇の中の日々が。」
すでに、地平線の向こうは大方見えてあった。
おそらく、そう遠くない時期に反乱が始まるであろう。
今、楚の城市のどこに行っても、事あれかしと望んでいる悪少年どもの息吹が渦巻いている。
こういった半端者どもは、時勢の最も破壊的な側面に敏感に反応して、それを拡大させることを心から願っている。若さゆえの、暴力と破壊への憧れである。
「しかし、あの皇帝陛下は、倒すべき敵を自分で宣伝して回っている。数千万の阿呆どもに、見せびらかして喜んでいる。力が集まるぞ、、、これは、見ものだ。」
だから、彼は今闇の中に自ら身を置いた。秦の秩序から、遠く離れるために。敵の懐から、逃げるために。
「だが― 俺は、基盤を作って進む。沛が、俺の基盤だ。破壊は、やりたい奴にやらせておけ。俺は、その後から進む。張耳にも、英布にも、俺は組しない。」
劉邦は、このようなことを考えた後、しばしまどろみかけた。
そのとき。
向こうの薮の茂みが、がさりと揺れた。
劉邦は、がばと起き上がった。
(誰だ、、、!)
彼は、音が立った方向を、凝視した。
「樊噲、、、樊噲!」
劉邦は、樊噲を呼んで命じた。
「あの方向に、何か潜んでいる、、、確かめて来い!」
劉邦に言われて樊噲は、水を低くたたえる藪の中に入って行った。劉邦は、彼の後から忍び足で付いて行った。
いまだ月は出ず、視界はかすかな影しか見て取れない。樊噲が、密生する葦の茂みを掻き分けた。そこにいないと見ると、横の穂並をまた倒していった。
そのとき。
突然、飛猿のように、一匹の影が薮陰から跳躍した。影は、遠くの水面にばしゃり!と一度限りの音を立てて、信じがたい速度で水面を走った。樊噲は、その素早い動きに、捕まえることができなかった。
「ちっ、、、!」
影が、後ろの陸地にいた劉邦の方に、突進して来た。劉邦は、腰の長剣を抜き構えようとした。だが、剣など習ったことのない彼であって、うまく鞘から抜くことができない。もがいている間に、影は劉邦の目前に迫った。
影は、彼の三歩先で止まった。
劉邦は、鬼気迫る目で、前方の影を見た。
影は、何かうめくような声を出し始めた。
「り、、、う、、、、」
そう言って、影は一歩前に出た。
劉邦は、一歩引いた。
影は、続けて声を出した。
「り、、、劉、、、邦、、、蛟龍の、、、子、、、せ、、、赤帝の、、、裔よ、、、」
劉邦は、影からこの言葉を掛けられて、予想外のことに震えた。
「だ、、、誰だ!お前は、、、」
影は、さらに一歩踏み出そうとした。
「い、、、言わせてくれ、、、、わ、、、我と、、、お前は、、、」
その瞬間。
後ろから、猛烈な一撃が、影に打ち下ろされた。
影は、崩れるように倒れた。
劉邦は、影が倒れた後ろの陰影を見て、安堵した。
「は、樊噲、、、、助かったぞ!」
樊噲は、愛用の大棍棒で影の脳天を直撃したのであった。狗(いぬ)どころか、牛すら倒す一撃である。これをまともに食らっては、誰もが生命の終わりであった。劉邦は、倒れた影に近づこうとした。
だがそのとき、なんと影は再び起き上がった。
そして、劉邦に向けて両手を差し出しながら、歩もうとすらしていた。
「わ、、、我は、、、お前の、、、」
劉邦の剣が、ついに抜けた。白刃を、影に向けて振り下ろした。
劉邦の手に、飛び散る血の温度がぴちりぴちりと感じられた。影は、再び倒れて、ついに動かなくなった。
このときようやく、遅い月が昇り始めた。
沼沢地に、月の光がすべるように差し込んだ。
劉邦は、倒れた目の前の影を、確かめた。
「これは、、、孔巫女の、、、」
月の光に照らされたのは、皺深い老顔であった。もとより生気のなかった青白い肌は、白い月の光の下で早くも完全な死体の相をしていた。
劉邦は、姜痴の躯(むくろ)の下から、一巻の書面を見つけた。
沛は、すでにあなた様をお迎えする用意ができております。時満ちれば、いよいよご帰還なさいませ。
あなた様がどこにいようとも、私にはあなた様の居場所が分かります。なぜならば、あなた様の頭上には、龍雲がたなびいているからです。ご自身の運気をお信じなさいませ。あなた様は、蛟龍赤帝の子なのです。この言葉は、この姜痴という老人に教えてもらいました。
蛟龍赤帝の子に、天運を。
秦帝国に、死を。
雉
「こいつは、阿雉からの書を持って、、、」
劉邦は、姜痴の死体を見下ろした。彼は、沛の呂雉から書を託されていたのであった。だがこの老人が自分に何をしようとしたのかは、彼にはわからずじまいであった。
「とにかく、この土地はすぐに去ろう。樊噲、全員を起こせ、、、直ちに、奥に進む!」



