劉邦の一行は、月夜の中を進んでいった。
(呂家の者が、支援してくれるはずだ。山川草木、どこにでも俺は動くことができる、、、)
必ず、闇の世界では独立勢力でなければならなかった。窮して彭越や英布の下に入るなど、彼は考えていなかった。そのために、呂家とは常に連絡を取っておく必要があった。呂家の情報網は、劉邦にとって大きな力となるはずであった。
(あの姜痴は、俺に連絡を付けに来たのか。斬ってしまったが、、、致し方ない。)
劉邦がそのようなことを考えていると、先行していた廬綰が戻って来た。
「どうした?」
「この向こうに、何かがうずくまっています。」
「何が?」
「わかりません。だが、なにやら泣いています。」
「泣いている?では、人間か!」
「う、、、よくわかりません。」
劉邦たちは、身構えてその場に急行した。
薮の後ろから、巻くように物体を眺めた。
その物体は、確かに泣いていた。うずくまって、小さくなって肩を震わせていた。やがて、大きな声を出して泣きながら、独り言を言った。
「白蛇を斬りおったわ!、、、赤帝の子が、白蛇を斬りおったわ!赤帝の子が、白帝から天命を受け継ぎおったわ!、、、」
そういって、不気味な物体は、おいおい泣いた。
「― 孔巫女!」
劉邦は、その声に気付いた。
「孔巫女よ!やはり、お前もいたのか!」
劉邦は、声を掛けた。
彼の声を聞いて、巫女はついに立ち上がった。
「蛟龍赤帝の子よ、、、これも、天命でござりまする。姜痴がお前の手で殺められたのは、天命でござりまする。」
劉邦は、彼女のところに駆け寄った。
彼は、巫女に言った。
「お前は、呂家のために俺との連絡役を買って出た― そのお前の供の姜痴が、なぜ俺を襲った!」
「襲ったのでは、ござりませぬ。」
孔巫女は、決然と言い返した。
「知ってのとおり、お前の妻からの書をお前に届けに来たのでござりまする。だがしかし― 奴があのようなことを考えていたとは、このそれがしも予想の外でござりました。あやつは、お前が産まれたときから、死ぬ運命でござりました。しかし、今まで死ぬることあたわず、生き長らえて来た、、、それが、何の巡り合わせかお前は沛の劉邦となり、奴はそれがしと共に、お前のところに再び出向かざるをえなくなった。不憫な奴であった。これまでずっとそれがしと行動を共にしておりながら、奴の心の底を見抜けなんだ。奴は、これより天に昇るであろうお前のために、せめてお前の手で成敗されることを、ひそかに望み始めていたのでござりまする、、、白蛇は赤帝に斬られ、世代は変わり申した。ついに、陰陽の巡りは、閉じられたのでござりまする。これでよいので、ござりまする。これでよいので、ござりまする、、、」
「、、、お前は、何を言いたいのだ、、、」
しかし、巫女は劉邦の問いに、横を向いた。それ以上、このことについて何も答えなかった。
月の光が、二人の間に明るかった。
しかし、光線の条の当らぬところでは、闇がくろぐろと沈んでいた。
光の当たるところだけを、明らかに知っておけばよい。
闇は闇。闇の世界は、深く広い。光しか見ない者は愚者であるが、闇を知ろうとする者もまた、愚者である。闇は、あるがままに沈ませておくがよい。
孔巫女は、突然劉邦の方に向き直った。
それから、不気味に笑い声を立てて、言った。
「ひ、ひ、ひ、ひ、ひ。始皇にな、返して来たのよ。すっかり準備は出来上がった。さあ東へおいでませ、とな。それで、か奴めが、ついにのこのこと函谷関から出てきおったわ。これが、最後の巡幸だわい。蛟龍赤帝の子よ、安心せい。間もなく、闇が秦を食いちぎることになろうて。」
「お前が、引きずり出したというのか。皇帝を、、、」
「そして、お前は闇の中で行きなさる、、、これからがお前さまの昌運でござりまするぞ。闇に深く、深く潜りなされ。天下の女陰の奥の奥は、入れば入るほどに温かき温柔郷。お前さまを、絶頂に行かせるでござりましょうぞ、、、」
と言って、ふ、ひ、はははははは、と笑った。
「つまらん冗談はよせ。しかし、とにかく闇の世界は俺にとって心地良いのは、お前の言うとおりだ!」
こう言って劉邦は、一行に前進を命じた。
「行きなさるので、あるな、、、」
「― 呂家との連絡を、頼むぞ。」
「このそれがしの一味が、お前にお味方いたしましょうぞ。それがしは、これからまだ北で為すことがあるのでな。」
「北で?」
「さよう。お前は、どこへ?」
「南に行く― よし。出発するぞ、お前たち!」
劉邦は、従う全員に命じた。
始皇帝の巡幸の列は、会稽郡に入っていた。
江水(長江)を東に進み、銭唐江を渡り、禹を祀る会稽山に赴こうとしていた。
項羽と項梁は、巡幸が通る駆道を眺める高台に登って、見物していた。
「壮麗な行列だ。まさか、ここまでやって来るとは― 感心ものだな。ここは、中国の果てではないか。皇帝が、地の果てまで足を運ぶか?」
項梁が言った。
「むしろ、私たちをここまで追い詰めに来た、というべきでしょう。」
項羽が、言った。
「我らをか!― そうかもしれないな。しかし、我らは滅びない。」
巡幸の列は、すでに一刻も経っているのに、まだ尽きる気配すらない。ものすごい大部隊であった。皇帝の権力を見せ付けるために、この一団は中国全土を回っている。皇帝は神なり。決して逆らうなかれ。逆らう者には、死あるのみ。その言葉を無知な人民に伝えるための、巨大な装置であった。
項羽は、両手の拳を握り締めた。体が震え、彼の灰色の目は狼の目となっていた。
「取って代わってくれよう― この私が、かの男に、とって代わってくれようぞ!」
項羽は、叫んだ。
項梁は、とぼけた声をして、甥に返した。
「― おやおや、大逆の言葉だ。その罪、三族の誅殺に当る。」
「殺す前に死ぬのは、奴です。」
甥は、大真面目であった。
項梁は、笑いながら甥に言った。
「ふ、ふ、ふ。あいつには、北でこれから歓迎の馳走が待っている。存分に、楽しむがよいわ、、、!」
― 第二章 伏龍の章・完 ―



