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一 邯鄲の家(1)

(カテゴリ:103宦官の章

戦国北方の雄とは、趙国のことである。
国の貴族たちも、武人たちも、市井の国人たちもまた、それを確信していた。

この国の軍隊は、天下で最も強い。
河水(黄河)の北に広がる乾燥した高原地帯に位置しているために、北方から絶えず遊牧民の襲撃を受けてきた。中原諸国の戦車や歩兵を主体とした戦法とはわけが違う、騎乗騎射の集団である。伝統的な中国流の戦い方では、とてもその機動力に対応できない。
ゆえに、武霊王は大決断をした。
ある日、王は胡服して朝廷に出た。胡服とは、絝褶(こしゅう)である。すなわち短衣に筒のズボンであって、長衣に帯を締める伝統的な服装とは、全く違う。これが、今後趙の朝廷が取るべき新しい服制であると宣言したのであった。
王族を始め、群臣たちは皆眉をひそめて、王の意図に反対した。しかし、王はついに皆を説得した。勝つためには、古い習俗は捨てなければならない。王は朝廷の人士をすべて胡服させ、さらに騎射のできる者を大いに招いた。こうして、趙は中原諸国とは全く異なった軍制を持つこととなった。
軍制を変えた効果は、大いに上がった。趙の東には、遊牧民が建てた中山という国があった。この国は、趙の長年のわずらいであった。だが武霊王の時代に、ついに趙に破られ併合された。今や趙は、かつて威勢を誇った魏や斉をも凌駕する強国となっていた。函谷関以東では最強の国として、天下に威勢を張るようになったのであった。
だから、秦ごときに負けるわけはないのである。
都の邯鄲の者たちは、皆そう信じていた。
韓が放棄した上党の十七の城市を巡って、趙と秦の両軍が巨大な兵を出して衝突した。
決戦場は、長平という土地であった。
だが幾たびかの小競り合いの後、両軍は互いに塁壁を築いて対峙する状況となった。
四十五万の趙軍を指揮する将は、廉頗(れんぱ)であった。
邯鄲は、次第に廉頗将軍の戦い方に不満を募らせていった。戦場から遠くにいる者たちには、趙軍の強さへの信仰しか頭にない。ひたすらに塁壁を固めて専守する将軍の戦いは、邯鄲の者たちにとって臆病に映った。だが戦場の真実は、両軍とも完璧の迎撃体制を整えていて、うかつに動けば重大な結果をもたらすことが必至であった。老練の廉頗将軍は、ゆえに動かなかったのであった。
結局は、将を信任すべき王の見識の差が、趙と秦を分けた。
武霊王の孫に当る孝成王は、秦の側が放った宣伝を信じてしまった。
― 秦が恐れているのは、廉頗に代わって趙括が兵を率いることだ。
趙括は、かつて秦軍を大破した名将の趙奢の子である。兵法家として、世上で大いにもてはやされている才子であった。決戦を望む王は、この宣伝にまんまと乗せられてしまった。王は、廉頗を罷免して、趙括を新しい将として投入した。
いっぽう趙括が将となったことを聞いた秦の昭襄王は、武略縦横の白起を新たに将として投入した。
結果は、あまりにも無残であった。
趙軍四十五万の兵が、綺麗さっぱり消滅した。
趙括が愚かにも攻撃に討って出たところを、秦軍は逆に包囲した。このとき秦王はすかさず追加の兵まで繰り出して、完全に趙軍の糧道を断った。食糧を欠くこと四十六日、兵は互いに殺し合って食うところまで追い詰められた。趙括は必死となって血路を開こうと試みて、射殺された。将を失った趙軍は、残兵四十万のことごとくが秦に降伏した。秦の白起将軍は、趙兵を信用できないと見て、全員を阬(あなうめ)にして殺した。この長平の戦の結果によって、戦国の天下においてついに「強国」は秦だけとなった。
長平の趙軍が全て消滅したという報を聞いて、邯鄲は恐慌に陥った。
その恐慌に追い討ちをかけるように、秦軍が余勢を駆って都に進撃してくるという火急の伝えまでが届いてきた。
これまで自国が最強の国であると信じていた邯鄲の者たちは、このとき方向を見失って皆が呆然自失であった。
その邯鄲のとある屋敷で、最近一人の男子が生まれていた。
男子の名前は、政と名付けられた。
彼は、今この趙の都を攻撃しようとしている恐怖の秦国の、王族の末席に連なる子であった。
敵国の真っ只中で産まれた子であるゆえに、これで自国が勝たなければ、その命はまことに危うい。彼の父は今の秦王の孫であって、この趙には人質として生活していた。その人質の母国が、今こうして相手の国を亡ぼしにかかって来たのである。失敗すれば、親子ともども殺されても仕方なかったであろう。
しかし、政は結局これから九年間も、趙に居続けることとなるのであった。その途中では父親からも見捨てられ、母親と共に邯鄲の都に取り残された生活であった。その間の陰惨な記憶は、少年の政の心中に消し難い暗い刻印を残した。政とは、後の始皇帝であった。韓信や張良や、劉邦や蕭何や項梁や項羽たちの前に立ちはだかる巨大な権力に、戦乱の邯鄲で産まれた男子は、やがて育っていた。しかし彼が産まれた時には、秦の王位が約束されていたとはとても言えないものであった。

政の物心が付いた頃、すでに父の子楚は彼のそばにいなかった。
長平の戦の後に続いた邯鄲の包囲戦は、魏の信陵君らの救援によって結局秦は一時撤退せざるをえなくなった。だが秦はその後にも趙への攻撃を再開し、三年後には再び邯鄲を囲んだ。
このとき子楚は、邯鄲の大商人の呂不韋と結託して、秦の後継者となる陰謀を進めていた。
彼の父の安国君は秦の太子であったが、安国君には二十数人も男子がいて、子楚はほとんど無視されて人質に出されていた。
その子楚を拾い上げて、安国君の跡取りに仕立て上げようと工作を始めたのが、呂不韋であった。彼の鋭い嗅覚は、この捨て子を自分の資本を用いて大秦国の貴公子に変身させる機会を見抜いたのであった。そうして、ゆくゆくは大秦国そのものを手に入れるという壮大な野望までも、彼の脳裏に閃いた。子楚を投資先として見出したときに彼の放った言葉が、後世まで伝わっている。

― 奇貨、居くべし!

こうして政が生まれてからこのかた、二人は秦の宮廷に対して工作に専念している真っ最中であった。こんな途上で、くじけるわけにはいかなかった。
邯鄲が包囲されて城内の情勢が危険となったのを見て、子楚と呂不韋は邯鄲を脱出して秦の側に逃げた。大事なのは、自分たちの身であった。子楚は、この際妻子などに構ってはおられなかった。趙人に殺されてもやむをえないと、思ったのであろう。
邯鄲から逃げる道中、呂不韋は子楚に言った。
「― 未練があるのですか?あの女に。」
子楚は、答えた。
「― ないわけが、ないでしょうが。だが、仕方がない。我ら二人の命には、替えられない。」
女は、呂不韋が子楚にくれてやった、舞姫であった。
彼は、自らの邸宅に出入りするようになった子楚が、いつしか女に夢中になっていることに気付いた。それで、くれてやった。
呂不韋は、思った。
(― 見事な、舞姫だったがな。こんなことになるのならば、こいつにくれてやるんじゃなかった。)
女は、呂不韋が邯鄲の遊郭で見出した、舞姫であった。容姿は絶好にして、その舞はこれまで彼が見たどの芸をも越えて、素晴らしかった。それで欲しくなって、手元に置いていた。
その舞姫と、舞姫が産んだ子を、呂不韋と子楚は置き去りにしていった。二人とも、もはや母子ともに命はあるまいとあきらめていた。
しかし、彼女の家は、ただの下賎の家ではなかった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章