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一 邯鄲の家(2)

(カテゴリ:103宦官の章

子楚が呂不韋と共に邯鄲を脱出した直後、城市の者どもは怒りに任せて、城内にあった彼の屋敷を襲撃した。子楚は昔人質として王族らしからぬみじめな生活を強いられていたが、呂不韋からの援助を得てからは、邯鄲の城市の中でも一際目立つ立派な屋敷に暮らすようになっていた。

結局三年前に子楚が殺されなかったのは、呂不韋が趙の政府の上層部に金を使って押さえ込んだからであった。だが今回に限っては、政府までが率先して彼らを殺そうとした。お上に煽られた市民たちは、子楚の屋敷に一斉に押し入った。事情も知らされずに取り残されていた家僕たちは、手当り次第になぶり殺しとなった。
「殺!殺!全員、殺!」
群集は、激高していた、彼らは、今こそ恨み重なる秦の公子を滅ぼしてしまおうと、血に餓えていた。
すでに屋敷の主は、邯鄲を後にしていた。群集は、怒りの矛先を残された者に向けた。
「きゃつの妻子が、いるはずだ!捕まえろ!」
「車裂の刑に処して、肉を醢(しおづけ)にしろ!」
狂気と化した群衆の捜索が、執拗に続けられていた。
だが、子楚の妻と子の政は、このときすでにとある者どもによって庇護されていた。
一年ほど、経った後。
政と、その母は、以前と変わらず邯鄲に住んでいた。
一年前には二人を殺そうとした趙の政府は、態度をがらりと変えて母子を生かしておくことに決めた。市井の国人たちは憤懣やるかたなかったが、お上の方針では盾突くことができなかった。
この間、趙王の耳にひそかにささやく者たちが、宮廷の奥深くにあった。
― 脱出した子楚は、間違いなく秦の太子となります。かの華陽は、子楚の正妻で寵愛深い女です。殺せば、秦の恨みはやがて趙に倍となって帰ってくるでしょう。母子を殺しては、なりません。むしろ人質として、丁重に扱うべきです。
表の朝廷では錚々たる戦歴を誇る将軍たちに、常に気圧されて劣等感を感じている趙王であった。彼は、安逸な後宮の世界を好んだ。長平の戦が大失敗に終わった後、王はますます後宮に足を運ぶ回数が多くなっていた。その後宮で仕える従順な生物たちが、彼の最大の気に入りであった。数多の美女たちと― そして、人間ならざる者ども。つまり、男性器を切断された宦官たちであった。
趙の後宮に仕える宦官たちは、政の母親すなわち華陽の命を助けるために、閨(ねや)に急ぐ王の耳に低く柔らかく、そして執拗に吹き込んだ。それで、王の気が変わった。彼らに匿われていた母子は、やがて再び表に出て生活するようになったのであった。
華陽は、確かに遊郭の舞姫であった。だが、その下賎の身は、ある一族とつながっていた。趙の後宮の宦官たちは、その一族から去勢されて仕えていたのであった。それで、彼らは華陽とその息子をかくまったのであった。

命を助けられた政は、やがて少しずつ成長していった。
母と共に住む新しい家には、彼に読み書きを教える者がやって来た。政は、大変に聡明な子供であった。常に喜んで、文字を学んだ。しかし、家の外にはなかなか出してくれなかった。元気な彼は、しばしば家の外に出たいと母に願った。しかし、母は許すことがなかった。そういうとき、政は大いに泣いた。
彼の家に出入りする者は、たいていが男たちであった。政は、彼らが誰なのかはよく知らなかった。しかし、例外として母の姉と称する人が、時々やって来た。彼女は、いっしょに小さな子供たちを連れて来た。男の子が何人かいて、そうして女の子がいた。いずれも、政と年の近い子供たちであった。一番上の男の子を、政は趙一と呼んでいた。次の男の子は、趙二であった。そう呼ぶように、言われたからであった。女の子は、陰姉と呼んでいた。彼女たちを連れて来る女性― つまり、母親であるが― の趙華陰の一字を、娘は取っていたのであった。彼女は、政よりも少しだけ年上であった。
幼い政は、これらの人たちが大好きであった。常に彼の側にいる母も愛していたが、彼女はどこか棘のある面を息子に向けることがあった。母は、自分を捨てて遁走した父や元の愛人に、大いに含む愛憎の情があった。それで、息子のいる前でその情をぶちまけることがあった。憤怒に燃える時の母上は、何もわからぬ政にとって怖い存在であった。それで、母の姉たちが来たときには、重苦しい日常が救われるような気がした。華陰は、優しくて美しい人であった。子供たちは、外との交流のない政にとって唯一の遊び相手であった。特に、賢くていろんな文字を知っている陰姉に、政はいろいろと小耳に挟んだ言葉の質問をしたものであった。
「『エンクワン』って、何なの?」
「政、どこで聞いたの?」
「、、、母上が、私に文字を教えてくれる老師と話しているときに、言っていた。」
陰姉は、いたずらっぽくにこりと笑って、地面に文字を書いた。
閹官。
「、、、こんな字は、まだ習ってないなあ。」
「だろうね。」
「意味は、何なの?」
政に聞かれたとき、陰姉は彼の顔をじぃっと見た。
それから、さっき字を書いた木の枝を取り上げて、
しゃがんでいた政の股を、こつんと突いた。
びっくりして尻餅を突いた彼に向けて、彼女は言った。
「ここが、ない男のことだよ!」
そう言って、笑いながら走り去ってしまった。政は、後に残されて呆然としていた。

しばらく後に、政の家が焼けた。
深夜に出火して、またたく間に家中に火が燃え広がった。失火ではない。複数の箇所から、火が点けられたのであった。
政は、家の者に背負われて、激しい火と煙の中を脱出した。彼は、負われながら脱出していいく家の外の光景を見た。群集が、燃えさかる家を囲んでいた。彼らは手に手に火を持って、怒声を挙げていた。
「討秦!」
「討秦!」
「討秦!討秦!長平の仇!」
王は政たちを人質として扱っていたが、市井の者たちの彼らへの怒りは、全く解けていなかった。その上、長平の戦をけしかけた元凶の大貴族たちが、復仇の「正義」を都の者どもに煽り立てていた。それは、自分たちの責任を棚上げするのが本当の目的であった。群集は煽動されて、ついに政たちを焼き殺すために行動したのであった。
政は、その光景を恐怖の目で見た。家の外の世界は、実は全て敵だったのであった。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章