全権を掌握した後の秦王の攻撃は、迅速にして苛烈であった。
隣接の魏・趙に対して、かつてない程の激しい攻勢を掛けた。もはや、各国を保全するような従来の外交は、捨て去られた。攻め続けることが、新しい秦王の外交であった。各国を完全に亡ぼすことが、その外交の最終目標であった。
趙は、秦の大攻勢に大敗を続けた。
秦王十三年に、趙は将軍扈輒(こちょう)を殺され、十万の兵の首が斬られた。
十四年に、趙は平陽に戦って再び敗れ、将を殺された。秦軍は、平陽・武城の土地を征服した。趙の都の邯鄲から、すでに目と鼻の先まで秦に平定されたのであった。趙は、急速に追い詰められていった。
「趙からの、使者だと―?」
秦王は、奏者の言葉を問い直した。
「左様でございます。大王に、謁見を望んでおります。如何いたしますか、、?」
趙は、たまらず秦王の元に和平の使者を送ってきたのであった。だがいまさら命乞いをしても、もう遅い。すでに、趙は滅ぼすことが秦の大方針として、決定済みなのだ。
しかし、秦王の答えは意外であった。
「― 会おう。通せ。」
実は、六国の中で最も先に亡ぼす予定を立てていたのは、最小国の韓であった。最も弱い韓をまず滅ぼして完全に秦の領地となし、他国併合の前例を作る。趙を処刑するのは、その作業が終わった後に計画されていた。現在趙を攻めているのは、相手に圧倒的な武力を見せ付けて、韓併合に手出しをすることに二の足を踏ませるのが目的なのであった。
(一度、安心させてやろう。その後に絶望させるならば、苦しみは更に増すだろう。面白い、、、)
秦王は、笑いもせずに面白がった。
使者が、咸陽宮の秦王の前に連れて来られた。
使者は、深く平伏して、趙王の意向を言上した。
「趙は、秦とこうして戦火を交えるよりは、むしろ秦のために韓魏を滅ぼして大王に献上したいと願っております。どうか、秦と趙は兄弟の間柄となって、大王の覇業のお供をさせていただきたいと、願っております―」
自国のために、他国を攻めるための走狗となろうという申し出であった。すでに趙は、かつての戦国の雄の体面すら失っていた。
秦王は、使者に答えた。
「― 趙は、余が生まれ育った国である。現在兵を出しているのは、余の本意ではない。韓魏を攻めるために、どうしても河北の土地が必要だからなのだ。今、趙が秦の弟となろうと申している。それなのに、余がどうしてこれ以上趙に兵を向ける必要があるだろうか?」
使者は、秦王の言葉を聞いて、すかさず返した。
「、、、そ、それでは、これより趙の軍を動員いたしまして、共に韓魏を攻め立て、、、」
しかし、秦王は答えた。
「いや。韓魏ごとき、趙王の手をわずらわせる必要など、全くない。無駄な出兵は、無用である。」
その言葉を聞いた使者は、苦り切った。
「それでは、、、趙は困りまする!和平のしるしとして、趙から誠意をお示しできなければ、、、趙の立場がございません、大王っ!」
使者は、必死であった。
その使者を、秦王は腕を組みながら眺めていた。彼は、長身で威圧感のある男子に成長していた。だが、切れ長のその目からは、いささかも人間の情愛が放出されていなかった。秦王に会って六国併合の策を進言した兵法家の尉繚(うつりょう)は、彼のことをこう評した。
― 恩は少なく、虎狼の心で、困窮のときにはたやすく人の下に出るが、志を得ればたやすく人を食らう、、、天下は、皆彼の虜になってしまうだろう。彼と長らく交遊することは、できかねる。
彼の一身全てが、激しい怒りと氷の策略であった。今も、必死で平伏する眼下の使者に向けて、小動物を見下すような軽蔑の視線を投げ掛けていた。
(ふん、、、)
秦王の心は、軽蔑の底まで行き着いた。
そのとき、一つのことを思い出した。
彼は、使者に言った。
「― よし。趙王に申せ。秦は、趙を攻めたりなどはせぬ。その、和平のしるしとして、、、」
秦王は、言った。
「、、、人を一人、探し出せ。趙のどこかに、いるはずだ。探し出して、、、連れて来い。」
その人とは、趙陰。
あのとき行方知れずになった、陰姉のことであった。
生きているかもわからないが、軽蔑の底に行き着いた秦王の心は、彼女の名前を気紛れに掘り出した。彼は、忌まわしい趙国での記憶を、現在全て他国を亡ぼすための憤りの力に変えていた。それで、彼女のこともすっかり黒い情念の中に塗りこめてしまっていた。
彼は、その忘れていた名前を、心の中の悪い冗談のつもりで、取り出して見たのであった。
ところが、彼女は生きていた。
使者が戻ってからそれほど日も経たないうちに、趙から一人の女性が、丁重に送り届けられていた。
大勢の供を連れてやってきた彼女は、咸陽宮に連れて来られた。
秦王が、玉座にやってきた。
彼女は、秦王の御前の下で、深く平伏していた。
「― 顔を上げよ。」
秦王は、彼女に命じた。
しかし、彼女は顔を上げようとしなかった。
平伏したままで、ひたすらにかしこまっていた。かすかに、肩が震えていた。
「何をしている、、、余の命が、聞けぬか!」
秦王は、叱り飛ばした。
すると、彼女は、震える声で答えた。
「― 大王は、すでに秦国の国主でございます。それに引き換え、賤妾はこの十数年、あまりにも汚れた道を進み過ぎてしまいました、、、賤妾の汚れた顔などを、大王のお目にかけたくは、ございません。」
彼女は、震えながら泣いていた。秦王が秦国に移って過ごした日々は荒涼としていたが、彼女が同じ月日に趙国で過ごした日々は、悲惨そのものであった。身の汚れは、筆舌に尽しがたいものであった。
秦王は、言った。
「かまわぬ。顔を上げよ、、、趙陰!」
袖で涙をぬぐい、ようやく彼女はその顔を上げた。
それは、成長した陰姉の顔姿であった。十数年前から器量良しであったが、年月を経た今も昔の面影をはっきりと残していた。
ただ、美しく化粧を施されていたが、片の頬には隠し切れない切り傷があった。それは、どこかの下衆な男に、虐待された後であった。もはや決して、消えることがなかった。
秦王は、陰姉の顔を、しげしげと眺め続けた。
それから、言った。
「― お前は、これから余に仕えるのだ。逆らうことは、許さぬ。」
「はい。」
「ひとつだけ、聞いておこう。今、余はお前の故国― 趙を、攻めている。趙は、どのようになったらよいと、思うか?」
秦王は、そのときにやりと笑った。陰姉が見た秦王は、昔に比べてすっかり変わってしまっていた。だが、今の秦王の笑いに、彼女は昔の政の面影をちらりと見たような気がした。
陰姉は、かすかに微笑んだような気がした。そして、言った。
「― 全てに、死を、、、!」
「、、、死か!」
「はい。死です。それが、賤妾の望むところで、ございます、、、」
秦王は、声を立てて笑った。
「死!死!全てに、死!よいぞ、お前も、余と同じことを考えていたか!」
陰姉の後ろには、一人の老いた男が控えていた。彼女の供として、趙から秦に送られて来た者であった。
陰姉は、彼のことを秦王に紹介した。
「― わが弟です。名は、高と申します。大王の閹官として、お使いくださいませ。」
彼は、老人ではなかった。それどころか、まだ少年の年齢でしかなかった。しかし、その顔つきは、実の年齢の数倍を取っているようにしか見えなかった。あのとき産まれてまもなく宦官として去勢された子が、いま彼女のそばにいた。
「― 不気味な奴よ、、、これが、産まれたという子であったか。」
秦王は、見下す目で趙高を見た。趙高は、何も言わずに姉の後ろに控えていた。少年であるのか、老人であるのか。いや、すでに去勢されているので、少年とは言えないはずであった。



