韓を亡ぼした翌年、秦は趙に総力を挙げて攻勢を行なった。
北からは、王翦(おうせん)が井陘口(せいけいこう)を突破して、河北の各地を次々に陥落させていった。南からは、楊端和が河内の兵を集中させて、都の邯鄲を包囲した。こうして北と南から完全に挟み込まれて、もはや趙はどこにも逃げ場を失った。
秦王十九年、趙王はついに捕えられた。都の邯鄲を始め、趙の地は秦の平定するところとなった。戦国北方の雄の、終焉であった。
趙の平定が成った後、秦王は、自ら邯鄲に赴いた。少年時代を過ごした、暗黒の記憶を持つ土地であった。彼は、趙を亡ぼした後には必ずこの地を再び自らの足で踏むことを、固く決意していた。
邯鄲の宮城には、次々に人間たちが運び込まれていた。
秦王は、自らの記憶に残る者たちを、全て捕えさせて目の前に引き出させていった。
彼は、その者たちに復讐の罰を与えていった。彼の記憶に残る顔たちが、次々に血祭りに上げられていった。
「― よお、公子。久しぶりであるな。」
趙王の玉座に座った秦王の前に連れて来られたのは、かつての貴族の子弟の一人であった。すでに、秦兵によって鼻を削がれていた。
「お、、、お、、、おじひを、おじひぃを、、、!」
鼻を削がれてうまくしゃべれない公子は、恐怖に打ち震えて秦王に命乞いをした。
秦王は、血と涙と鼻汁にまみれた公子の顔を見て、眉をひそめた。
「醜い、、、人間とは、実に醜い生き物だ。今、お前はようやくその醜い心にふさわしい外見となったわ、、、死にたくないのか?」
公子は、何度も何度も首を縦に振った。
秦王は、腰の剣を抜いた。そして、ぴたりと男の頬に当てた。男は、恐怖の表情に変わった。秦王は、言った。
「生きたいのか、、、ならば、人間以下となって生きるがよい。去勢して、宦官として咸陽宮の奴婢としてくれるわ!、、、それが嫌ならば、、、、死ね!」
そう言って、剣の腹で吹っ飛ぶほどに、殴りつけた。
次に引き立てられてきた男は、かつて自分の屋敷を焼き討ちした群衆の、主導者の一人であった。
「― 殺せ。」
男は、言った。
秦王は、聞いた。
「― 死にたいのか?命が、惜しくないのか?」
男は、答えた。
「趙は、滅んだ。今さら、何も惜しくない。後は、黄泉の下から、お前を呪って呪い続けるだけだ。」
「、、、死が惜しくないのでは、面白くもない―」
秦王は、退屈そうに言った。
それから、続けた。
「もっと、苦しんでもらわなければ、我が憤りは晴れぬ、、、よし、引っ立てよ!」
秦王の命を受けて、後ろの兵があわただしく動いた。
ただちに老若男女、数十人が連れて来られた。
「、、、!」
男は、顔を引きつらせた。秦王は、言った。
「これより、お前の一族を全員処刑していく。一人一人、ゆっくりとな。お前は、自分の一族が滅びるのを見届けてから、黄泉なりどこなりと行くがよい!」
宮城に充満する悲鳴の中で、兵たちの剣がきらりと光った。
かつて自分たちに苦しみを与えた者どもに大殺戮を与えた後、秦王は邯鄲を破壊した。
秦王は、咸陽宮に戻って来た。
しかし、趙から戻って来た日の彼は、終日真っ青な顔色をしていた。
「― 死ぬときとは、あのように苦しむものであるのか、、、」
おびただしい数の殺人を指揮した彼の脳裏に、強烈な酔いのように死の直前の顔という顔が、浮かんでいた。復讐の興奮が終わった後、帰路に着く彼の心に残ったのは、満足感ではなくて薄ら寒い予感であった。
「余は、今生きている。しかし、いつかああやって、死ぬのであろうか?― 死んだあ奴らは、もうどこにもいない。余も、どこにもいなくなるのであろうか?しかも、人はそんなに長く生きられない。もう、余は人生の半分を、もう使い尽くしてしまったのでは、ないのだろうか、、、?」
このとき、秦王は初めて「死」について考えるようになっていた。ずっと長い間貯めつづけていた怒りを振り下ろした後に、我に帰った空虚感のようなものが、彼の心を暗く取り巻いていた。我に帰ったときに直視した自分は、ただの無意味な存在に思えてきた。
「つまらぬ、人間だ、、、人間とは、つまらぬ、、、」
彼は、酔ったように咸陽宮の奥へと、進んでいった。いつもの彼のとおり、足は後宮に向っていた。
秦王は、昔相国の呂不韋に棚上げされていた時代から、行き場のない激情をしばしば後宮にぶつけていた。それで彼はまだ青年の年齢であるにもかかわらず、すでに大勢の子が産まれていた。しかし、彼の妻子たちを見る目は、まるで牛馬が子を産んだようであった。彼はたとえ自分の子を産んだ妾であっても、少しでも気に障れば容赦なく追放した。特に、彼は自分に媚びる態度を見せる女が、大嫌いであった。彼は、人間の嘘に過敏であった。彼が寝所で嘘の諂いをしていると感じた女は、翌日には咸陽宮の奴隷に下げ渡して、慰み者とさせるのが常であった。
「― 趙陰を呼べ。」
秦王は、低い声で命じた。
彼女もまた、今は後宮の妻妾の一人であった。
しかし、答えはなく、一人の宦官が無言で暗がりから前に進んできた。
秦王は、この宦官に申し付けた。
「趙高、、、趙陰を呼べ。」
だが、趙高は首を横に振った。
それから、低い声で言った。
「上が趙国に遠征あそばしておられる間に、、、亡くなりました。」
「なに?」
「― 妾趙陰は、胡亥さまを出産して以来、体調を崩しておりました。それが、先日にわかに容態が急変し、ついに命果てまして、ございます、、、」
秦王は、趙陰だからといって、後宮で特別扱いをしているわけではなかった。ただの数多い女の一人として、扱っていた。それで、彼女が子を産んだ後に体調を悪化させていたことなど、全く気付くこともなかった。
「そうか―」
秦王は、何かが心の底から湧きあがって来るのを、感じた。
しかし、彼はそれをあわてて否定した。彼には、必要ないものであった。
彼は、趙高に聞いた。
「― お前は、あの女の弟であろう、、、何か、言い残したことはあったか?」
趙高は、答えた。
「特に、何もございません。ただ―」
「ただ?」
「死の間際に誰に伝えるともなく、申しておりました、、、
―『胡亥は、我らの子です』
と。」
秦王は、最初その言葉を静かに聞いた。
「誰に伝えるとも、なく、、、」
だが、すぐに目を厳しくして、言った。
「―『我らの子』、だと?」
『我ら』などと誰かから言われることは、彼には真に耐えられないことであった。
彼は、それ以上彼女について何も言わずに、後宮の奥に入っていった。



