秦に赴いた李斯は、見事に秦王に取り入ることに成功した。彼の弁舌の力と、自らの運命を切り開く気概のなせるわざであった。李斯は、以降秦王の謀士として仕えることとなった。
李斯は、秦王の望みに従って、天下併合の策を立案する役目を承った。
「まず、韓を亡ぼしましょう。韓は小国で、征服するのは容易です。まず隣接する魏と趙を徹底的に攻め立て、韓征服に手出しをすることに二の足を踏ませる。それから、直ちに韓に軍を進めて、併合してしまうのです。迅速に併合して、天下にもはや諸国並立の時代は終わったことを知らしめるのです。韓は小国とはいえ、一国が亡びてしまえば、他国は積木を崩すように倒れていくでしょう。」
李斯は、秦王にこのように献策した。秦王の不退転の決意があれば、必ず成功するだろう。それが、彼の確信であった。
「よし!やれ。」
秦王は、直ちに決意した。
(― ついに、革命の時は来た!)
李斯は、同学の韓非の故国を亡ぼすことに、何の躊躇も持たなかった。
その後、秦軍は趙と魏に猛攻を加えて、次は韓征服が間近に迫っていた。
全て、予定どおりに事は進んでいた。
そんな時期の、ある日のことであった。
「― 卿。聞きたいことがある。」
秦王は、この日李斯だけをわざわざ呼んで、彼に下問した。
「― いかなるご下問でございましょうか、大王?」
「この書は、韓人の著作であろう、、、いかなる者が、著したのか?」
そう言って、秦王は一巻の書を、李斯の前に出させた。
「確かに、この書体は韓の書体、、、」
李斯は、巻かれた書を開いて、たぐり寄せた。きわめて新しい、写本であった。
― 智術の士は、必ず遠見にして明察。明察ならざれば私を燭(て)らす能わず、、、
李斯は、木簡を一行ずつ読み進んでいった。不思議な書であった。一行を読むたびに、早く次の一行に向かいたくて、心が逸らされた。これまでのどの書物にもない力強さを持った、名文であった。
(これは、韓非だ。彼の書いた文章に、違いない。)
李斯は、直感した。
「大王、これをどこから入手なされたのか?」
李斯の問いに、秦王は答えた。
「弁士の尉繚が、出国する間際に置いていったものだ。― 『大王には、それがしの言葉よりも、この書をお読みになられた方がよろしい』と言い残しおった。逃げた尉繚は腹立たしい限りであったが、しかし残していったこの書を読んで、あ奴への怒りも消えてしまったわ。」
李斯が読み始めた章は、「孤憤」と題名が付けられていた。論旨は明快にして、冗漫な議論は一切排されている。美辞麗句を語らず、現実を直視しようとする怜悧さがある。君主の周囲に侍る実力者やそれらに諂う学者どもを法術によって打破せよと主張する論議は、あの韓非が常に言っていたところのものと同一であった。
(だが、、、それにしても、何という痛切な調子だ!何という、耐えられない孤独感だ!)
文章では、明察な法術の士が、力ある者に踏み潰されて孤独に苦しんでいる苦境が切々と訴えられていた。法術の士は力を持たないがゆえに朋党に頼れず、君主から遠いゆえに信愛されず、その言は口に苦いがゆえに君主から疎まれる。こうして、真に国の益となるはずの法術の士は、実力者たちに追い詰められて抹殺されていく。真理を言う者は人の心に厳しいゆえに孤立してしまい、甘言を弄する者は愛され人気を得て高笑いをしている世界。文章の著者は、やりきれないこのような世界に対して、孤り憤るのであった。
― 臣に大罪ある者は、その行い主(しゅ)を欺くなり。その罪死亡に当るなり。智士は遠見にして、死亡を畏るれば必ず重人に従わず、、、
「― これは、韓非という者の著作に、違いありません。」
李斯は、秦王に答えた。
「韓非、、、どのような人物だ?」
「かつて臣と共に荀子に学んだ、同学の者です。現在は、韓にいるはずです。」
「なんと、お前と同学か、、、卿よ。余の元へ連れて来れないものだろうか?」
「彼は、韓の王族です。韓と秦は、戦火を交えようとしています。困難であるかと、存じます。」
「困難?― いや!何としでも、会わなければならぬ!、、、余は、これほどの書を生まれて初めて読んだ。このような書が、この世に存在したのであろうか。余は、この書の著者に会うことができたならば、真に死んでも悔いはないとまで思う。」
秦王の、絶賛であった。
李斯は、このような秦王を始めて見た。彼は秦王に常に献策をして、秦王は彼の言葉をよく理解して受け入れることができた。しかし、李斯は秦王から愛されているという感覚は、これまで一切得ることができなかった。この若い王は、どの家臣に対しても優れて実力を評価するが、その誰にも信愛を示すことがなかった。それは、法術の理論を信奉する彼から見れば、むしろ望ましい君主の特性であった。
そのようであった秦王が、韓非を求める言葉を発せざるを得なかった。
韓非と同じく、彼もまた孤独な魂を抱え、憤りに身を震わせて生きる人間であった。秦王は、この書を読んで、生まれて初めて同士を得た気になったのであった。
李斯は、思った。
(韓非の心中に、あれほどの憤りがあったとは思わなかった。この私は、結局彼の一面しか知らなかったというのか。そして、その憤りがこの王を動かすとは、、、)
彼らの憤りは、李斯の共有するものではなかった。このときの彼には、大きな野心と遠大な理想があるだけであった。李斯は、自分が秦王のことを理解していないことを、知ったのであった。
秦王が韓非を求める方法は、韓への攻撃であった。
秦王は、予定通り韓に総攻撃を掛けた。韓はひとたまりもなく圧倒された。他国の救援もなく、韓は孤立無援となった。
なすすべもなく狼狽する韓王に対して、秦から使者がよこされた。
― 和平を欲するならば、王族の一人、韓非を使者として送るがよい。
韓王は、それまで韓非を疎んじて遠ざけていた。彼の献策はあまりにも陰険で非情であり、韓王は不快であった。周囲の重臣や学者たちは、韓非の説を不仁不義の邪説だとして一笑に付した。それで、王も周囲の言葉に同調して、ずっと韓非を無視して平気であった。
だが、もはや国の危急存亡の秋に至って、韓非を引っ張り出すより他はなくなった。
こうして韓非は、咸陽宮に向うこととなった。



