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六 孤独なる火花(2)

(カテゴリ:103宦官の章

『史記』老子韓非列伝によると、李斯は韓非にその才が及ばず、そのため秦王の元に赴いた韓非に自分の地位が取って代わられるのを恐れたという。そのため、あえて秦王に韓非について讒言をなして陥れようと企んだとまで書かれている。李斯は、ここでも漢の学者によって、愚者として嘲弄の対象とされた。

確かに、秦王の心を掴んだ韓非に対して、王の側近である彼が含むところがなかったといえば、嘘になるであろう。李斯は、天下を動かそうという野心に満ちて秦に食い込んでいった男である。彼は大変な苦労をして、今ようやく秦王の側近の座を勝ち得ることができた。だが韓非は、秦王のために書いたわけではない学究の著作によって、易々と王の心を捉えてしまったのである。しかも、李斯に対してすら信愛の情を決して見せない秦王が、韓非については会うことができたならば死んでもよいとまで、絶賛した。学者としての格に限るならば、これですでに勝負が付いたと言えるであろう。
しかし、李斯は学究の世界から飛び出して、現実を変えるために生きる男であった。問題なのは、自分が現実を変える機会を、韓非に奪われるのかどうかであった。
(まさか私よりも、王が韓非を評価するはずがない。実際の政治を行なう手腕は、私の方が上なのだ。だが、どうして王は彼に執心するのであろうか?人に執心するのは、君主として決して良いことではない、、、)
李斯は、決断力に富みかつ周囲に対して非情である秦王のことを、革命のための絶好の器となりうる男と見ていた。それゆえ、彼の韓非へのよろめきが不満であった。しかし、そのような感情を表に出すことはなく、彼は韓非の秦王への謁見の場に立ち会った。
秦王は、咸陽宮の玉座に座って、下で平伏する韓非と対していた。
韓非は、平伏したままで、言上した。
「― 非でございます。本日は、韓の使者として参内つかまつりました。」
秦王は、彼に言った。
「― 顔を上げよ、韓非。」
王に言われて、韓非は顔を上げて秦王と目を合わせた。
李斯が聞いた情報によれば、韓非は故国韓に戻ってから不遇の連続であったという。献策は王に聞かれることはなく、国政改革の運動はことごとく実を結ぶことはなかった。弁舌が得意でない、学究の男であった。彼の失敗は、致し方のないことであったであろう。その鬱屈した時代に心によって彫り込まれた作品が、彼の一巻の著作であった。
今日、李斯は久しぶりに韓非の表情を見た。苦難を経てきた彼であったが、その表情はかつて荀子の元で共に研究を行なっていた頃と、少しも変わっていなかった。
(全てを見切っているから、変わらないのか、、、お前は?)
李斯は、内心で思った。
「― 使者などの役目は、どうでもよい。余は、お前に会いたかったのだ。」
秦王は、韓非に語り始めた。
「余は、説者の尉繚から、一巻の書を譲り受けた。その中の『孤憤』篇に『五蠹』篇を読んだとき、余はこれまで味わったことのない衝撃を受けた。この二篇を、余は何度読み返したかわからぬ、、、全篇が、これ真理であった!」
「有り難きお言葉に、ございます。」
韓非は、秦王の賛辞に素っ気無く答えた。しばしの沈黙が、咸陽宮に流れた。
韓非は、おもむろに切り出した。
「― 大王に、この使者がそれほどまでにご評価いただけるとは、光栄の極みでございます。その使者の言を、しばらくお聞きいただきたい。」
彼は、続けた。
「韓は、すでに秦に仕えて三十年となっております。韓は、秦の最大の盟友なのです。大王に対して、何一つ危害を加える心配はございません。なのに大王は、それを亡ぼさんとしておられます。それは、諸国の間に亡ぼされてはならじと固く決意させるだけで、ございます。特に、秦の宿敵である趙は、勇躍して合従の工作へと走るでしょう。そうすれば、諸国は必ず結束して韓防衛に走ります。たとえ大王の兵といえども、韓の一城すら落すことができず空しく撤退するに、違いありません。韓を亡ぼすことは、何の利もありません。よろしく韓を保全して、共に趙を討つ計をお取りください!」
韓非は、故国を守るための言を述べた。李斯のように弁が立つことのない彼で、言葉はぎこちないものであった。しかし、その説には必死の熱がこもっていた。
「― そして韓と秦が共に進むことができたならば、この非は、勇躍大王のためにご協力いたしましょう。この非は、大王と心を合わせて共に進みたいと、存じます、、、」
韓非は、秦王の心中を見抜いていた。故国を守るために、自らの身すら売る覚悟であった。しかし、提案された秦王の心中は、しかと分からなかった。彼は、黙って韓非を見ているばかりであった。
このとき、李斯が声を挙げた。
「― なりませぬ!」
一座の注目が、李斯に向った。韓非もまた、彼を見た。
「その使者の言葉は、偽りです。」
李斯は、韓非を指差して、言った。
「韓は、実に反復常無き秦の心腹の患いです。大王がこれを保全しては、秦は心腹に疾患を抱え続けることとなります。今後趙と斉が共に秦に向ったならば、韓は必ず叛きます。韓は、決して秦に仕えているのでは、ありません。秦の強盛に、息をひそめておもねっているだけです。情勢が変われば必ず叛き、そのとき函谷関は危うくなりましょう。使者の言に惑わされて、決して韓を残してはなりません、大王!」
李斯は、秦王に向けて強く言い放った。
しかし秦王は、表情を変えずに、沈黙を続けていた。
ついに、李斯はこう言った。
「使者の韓非は、誠実から大王に申しているのでは、ありません。故国のために、妄言を操っているのです。その実は、いずれ韓を率いる身となって秦に食らい付きたいと思っているに違いありません。この男は、危険な論者です。大王の覇業を阻む者です。韓を残せば、大王の覇業は潰えるのです。決して、聞き入れてはなりません!」
李斯は、このように韓非に対抗して、秦王の心を引き戻そうとした。かつての学友は、ついに王を巡って火花を散らした。
秦王は、李斯の言葉を聞いて、しかしそれでも沈黙していた。
居並ぶ者たちは、緊張しながら王の言葉を待った。
ついに、秦王は語り始めた。
「― 韓非よ。」
彼は、目前の使者に、再び声を掛けた。
「韓非よ― 韓は、間もなく亡びる。余は、韓を亡ぼす。」
秦王は、使者に向けて冷徹に告げた。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章