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六 孤独なる火花(3)

(カテゴリ:103宦官の章

秦王は、言った。

「― 余は、天下を統一しようとしている。もはや韓のみならず、六国は全て亡びる。この余が秦国の力を使って、亡ぼすのだ。余を止めることは、誰にもできない。」
韓非は、秦王の言葉に対して、こう答えた。
「― おそらく、そうでありましょう。大王のご意志は、この使者ごときで動かすことは、できるはずもございません。」
それは、正直な感想であった。
秦王は、韓非に言った。
「新しい世界が、来るだろう。余が作る新しい世界では、人間ではなくて法が全てを支配するであろう。人間は、情と欲に溺れて私利私欲に走るだけの存在だ。そのような人間に支配を任せれば、愚か者をのさばらせるばかりだ。だから、法が人間を支配するであろう。余の作る世界には、情愛や仁義などは必要ない。誰をも愛さず、ゆえに誰にも公平な法だけが、信頼できる統治の主人となるであろう― この理想を、余はお前の著作から学んだ。お前の理想は、この余が実現するであろう。お前の言葉は、この余の力によって現実となるのだ。」
「ご参考になったならば、幸い至極であります。」
韓非は、短く答えた。
秦王は、彼に問い掛けた。
「韓非よ。お前は、余の家臣となるつもりは、あるか?」
韓非は、言下に答えた。
「ありません。」
秦王は、さらに言った。
「韓が亡んだならば、お前はどうするつもりか?」
韓非は、答えた。
「国と共に、亡びるのみです。故国が亡んだ後で秦に仕えるなどは、この非の進む道ではありません。この非は、韓の王族の一員であります。」
秦王は、言った。
「人が信じるに値しないと説くお前が、どうして国に殉じるのか?国家に巣食う人間どもを憎むお前が、どうしてその人間どものいる国家と道連れとなろうとするのか?、、、答えよ、韓非。」
秦王は、韓非を見た。王は、彼の著作を読んで、初めて自分と同じ苦しみを味わっている人間がいると思ったのであった。人を信じられず、人の輪に入ることを断固として拒否する孤独な心の持ち主が、書いた著作であった。その厳しすぎる孤独は、まさしく王の閉ざされた心と同じ風景を表していた。それで、王は著者に会いたくなったのであった。王は、孤独なる心の同士が欲しかっただけなのであったのかもしれない。しかし、絶対的に孤独なる者は、この世に同士ができるはずがない。同士がいないがゆえに、孤独なのである。もし王が韓非を求めようと思っていたのならば、それは自己矛盾でしかなかった。
韓非は、じっと秦王を見ていた。
「秦王―」
彼は、次第に目を怒らせ始めた。
「私は、お前ごときに仕えはせぬ!」
彼は、立ち上がって秦王を一喝した。
「私は、韓の一族だ、、、お前に賞賛されるなど、吐き気がするわ!、、、だが、お前は人を信じぬゆえに、必ず勝利するであろう。それは、私が保証しよう。ただし、私はお前と共に歩むことは、ご免こうむる!」
韓非は、正面から秦王を睨み付けた。それが、自らを賞賛した秦王への、韓非の回答であった。
秦王は、身動きもせずに韓非に対していた。
それから、命じた。
「― 獄に繋げ。」

獄に留め置かれた韓非のところに、一人の者が訪れて来た。
李斯であった。
李斯は、韓非に一卮(し)の酒を差し出した。
韓非は、青銅の器に注がれた芳醇な液体を眺めて、言った。
「― 毒酒か。」
李斯は、答えた。
「そうだ、、、楽に死ねる、特製の酒だ。」
韓非は、言った。
「秦王の、配慮か?」
李斯は、答えた。
「いいや。この私が自ら持ってきた。」
かつて、共に論議して理論を築き上げた二人であった。その二人が今、死によって分かれようとしていた。
李斯は、言った。
「君は、秦に刃向かった。秦に刃向かった者は、死ななければならない。私は、秦に仕え秦に賭けた者として、君の命乞いをするわけにはいかない。」
韓非は、彼の言葉に返した。
「よいのだ。私は、しょせん学究の人間なのだ。理論で理想の国家を構築して、描いて見た。できれば、故国を理想の国家にして見せたかった。だがしかし、私はしょせんそのような力量はない。私は、故国を裏切って秦に仕えるつもりはない。私の行く道は、尽きていたのだ。」
韓非は、理論家として自分の構想が唯一の正しい道であることを、確信していた。人間を越えた法が絶対に支配する社会でなければ、どんなに奇麗事を並べて装飾してみたところで、それは地獄の社会である。人間の主観的な判断が支配する社会は、必ず不正にまみれた社会となる。だから少なくとも必然的に地獄となる社会から抜け出すためには、まず法が支配する国家を作ることが絶対の前提なのであった。法の掟が全ての人間に介入して、力ある者の勝手な独断を防ぐ。善だの価値だのを語るのは、その段階を過ぎてからでなければならなかった。それが、恣意的な権力が上にも下にも横行する戦国時代の真っ只中で、彼が辿り着いた結論であった。
しかし、いま彼と彼の故国は秦王によって、踏み付けられる側に立っていた。たとえ秦王のもとで革命が行なわれたとしても、そこで踏み付けられる側に立っている者が、彼を讃えることはできなかった。韓非は、理論として正しさを確信していたが、理論を実行する権力に組することはできなかった。彼の行く道は、尽きていたのであった。
韓非は、李斯に言った。
「李子。君は、私と違って行動で現実を変えることができる人間だ。秦王と君がいれば、天下の統一は必ず成し遂げられるであろう。それから向こうは、これまで誰も登ったことのない道を進まなければならない。しかし君ならば、必ず何かの形を後世に残すことができるに違いない。決して、躊躇するでないぞ、、、どこまでも、突き進め。」
「― 倒れるまでな。」
李斯は、答えた。自らが倒れるまで進むことは、これから亡んでいく韓非に対する、同学としての礼儀であった。
韓非は、言った。
「― 君は、きっとこの世の人間たちから、嫌われるであろう。」
李斯は、答えた。
「― 嫌われなければ、革命はできない。」
韓非は、言った。
「嫌われて、おそらく君じしんは結局何も得られまい。孤独な道だ、、、私よりも、孤独な道となるであろう。」
これが、彼が李斯に向けた、最後の言葉であった。
「― それも、よい。」
李斯は一言だけ答えて、獄を後にした。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章