秦王は、獄中から韓非が毒を仰いで命を絶った旨の報告を受け取った。
李斯が、秦王のところに拝謁を願い出てきた。
秦王は、李斯に言った。
「余は、一度は奴を助命しようかと思った。だが、、、結局やめにした。余に逆らう者を生き長らえさせるのは、余のためにならぬ。それに、仇敵に命を助けられるなどは、奴のためにもならぬ。」
「仰せのとおりに、ございます。」
「卿よ。お前は、これより余のために全てを尽して働け。余は、お前の仕事にしか興味がない。お前も他の家臣と同様、失敗は決して許さぬ、、、覚悟せよ。」
李斯は、秦王の言葉に答えた。
「臣は全てを、大王のために尽くしまする、、、臣の力を、とくとご覧なさいませ。」
それから、秦王と李斯は天下併合に向けて振り返ることもなく突き進んでいった。
韓の後に趙、趙の後に魏。さらに楚、燕も亡ぼしていった。
燕の太子が放った刺客の荊軻による秦王暗殺計画もまた、秦王を倒すことができなかった。
秦王二十六年、ついに斉を亡ぼし、秦王は天下全てを手に入れた。
秦王は改めて始皇帝と号し、李斯は廷尉に進み、さらに行政の頂点に立つ丞相に昇った。
天下の全ての土地は郡県に分かたれ、秦の律令が全土に厳しく施行されることとなった。
非情の法を適用することによって、始皇帝は未曾有の規模で人員の動員を行なった。そして広大な帝国を運営するために、数多くの斬新な事業が次々に行なわれていった。
全土に張り巡らされた馳道は、帝国の統一のために必要であった。始皇帝は、自ら進んで馳道を巡幸し、中国全土をくまなく駆け巡った。長い中華帝国の歴史で、始皇帝ほど長い距離を旅行して全土を駆け巡った君主は、誰も存在しない。彼は、自らの目で全土を見なければ、統治したことにはならないと思っていた。前人未踏の統一帝国を作り上げた始皇帝には、自分の事業について分かったつもりでいることは、許されなかったのであった。
行幸した各地に、始皇帝は称徳の石碑を立てていった。刻まれた文字は、優雅で規則正しい小篆(しょうてん)であった。以降、小篆が統一帝国の正式な書体となった。書体だけでなく、度量衡も、貨幣もまた、統一された国家では一つの基準が採用されなければならなかった。法と同じく、一つの権力からは一つの基準が流れ出さなければならなかった。
都の咸陽の刷新は、どうしても行なわなければならなかった。始皇帝は、少年時代に秦に初めて入ったときから、いずれ都を全て作り変えることを決意していた。統一が成ったとき、始皇帝は当時にある限りの想像力を全て投入して、新しい咸陽を作ることに決意した。渭水の南に着工した膨大な新都心の阿房宮ですら、彼は為すべき工事のほんの手始めだと位置付けていた。
万里の長城は、果たして北辺の防衛だけが唯一の目的であったのだろうか。むしろ、辺境の防衛に中国全土から兵を送ることによって、全ての民に国土を守ることとは何であるのかを、骨身にしみて分からせるためであったのかもしれない。もはや、中国は一つなのである。分裂した諸国に安住していたこれまでの民は、統一された中国の民として生まれ変わらなければならない。人民を郷里から引き離してはるか遠くに追い込んだのは、新しい現実を彼らに強いて知らしめることが、為政者の密かな目論みではなかっただろうか?
これらの政策を、帝国は文字通り毎年のように公布していった。丞相の李斯は、新しい政策の実行にいささかも躊躇しなかった。民にようやく政策への不満が渦巻き始めた時には、焚書令を出すことすら始皇帝に進言したのであった。秦帝国の革命は、後戻りを許さぬ苛烈な勢いを、ますます増していったのであった。
「― もう、この辺で引退なされたらどうか?丞相。」
咸陽にある李斯の広大な邸宅に、訪問する者があった。
丞相としての彼は、栄華の絶頂にあった。彼の長男の李由は、いま三川郡の郡守に昇っていた。他の子供たちは、男子はあるいは秦の公主(こうしゅ。姫)たちと結婚し、女子はあるいは秦の公子たちに嫁いでいた。長男の李由が休暇により咸陽の実家に戻ってきて、李斯が酒宴を開いたときなどは、咸陽の百官全てが邸宅に集まってきた。祝賀の車は邸前の庭にあふれ、その数は数千乗に上るとも言われた。
それほどまでに巨大な権勢を持っていた李斯であったが、彼は周囲の誰とも親しむことがなかった。彼はひたすら職務に専念し、仕事の結果を皇帝に示すことだけに心を砕いた。彼の下の百官たちには分け隔てなく厳しく接し、過ちには決して容赦することがなかった。丞相の自分に言い寄ってくる者は、ことごとく下心を持って接近して来る者でしかありえない。彼は、人間たちに対して何の幻想も持っていなかった。そのため、私用で彼の下を訪れる客などは、滅多にいなかった。
李斯が珍しく迎え入れていた客は、一介の説者であった。
彼は、説者に言った。
「― あなたが申しているのは、権勢が大きくなりすぎた家臣は君主に誅されるであろうという、ご忠告でしょうか?」
説者は、言った。
「丞相。あなたはこのとおり権勢並ぶことなく、求められる栄華の極みにまで到達しようとしておられる。それは、かつての商鞅や呂不韋と同じ道を歩んでいるのですぞ。商鞅は、車裂の刑となりました。呂不韋は、相国の位から追い立てられて自殺しました。いずれも、功を積みすぎて君主の権勢すらしのいだことが、災いの元となったのです。法家思想を主張するあなたが、どうしてご自分自身のことがお分かりになられない?」
説者は、かつて呂不韋の下に仕えていた舎人の一人であった。李斯が彼と同じく呂不韋の下で舎人であった頃に、彼と面識があった。やがて呂不韋は失脚し、李斯は始皇帝に容れられて出世の道を駆け上った。二十余年の歳月を隔てて、今や説者と李斯との差は、目もくらむばかりとなった。だが、本日訪れてきた説者はむしろ、李斯を羨むよりは危ぶんで、衷心から忠告しにやって来たのであった。李斯も、彼に私心がないのを見て、こうして邸内で会見していた。
説者の忠告に、しかし李斯は答えた。
「私を措いて、秦帝国を運営できる人間は、この世にいない。私は、自分で引退などしません。自ら倒れるか、誰かに倒されるまで、進むつもりです。ご忠告は有り難いが、私には聞くことができません。」
説者は、さらに言った。
「今、天下には秦の政策への不満が高まっています。秦の打ち出す政策は、あまりにも厳しすぎるのです。今、あなたは皇帝陛下のご信任を受けて政策を断行しているが、秦の内部にすらあなたに反対する声があるのを、お気づきにならないか。今後、天下に何か良からぬ事があれば、内外はあなたに攻撃の矢を向けるでしょう。あなたは、今まことに危ないのですぞ。」
説者は、秦の内部で李斯に反対する勢力があることを、指摘しているのであった。その中心にいると目されているのは、始皇帝の長子の扶蘇と、彼に近しい将軍の蒙恬であった。扶蘇は、始皇帝と李斯の政策に不満であるという評判が、咸陽の巷ですら聞こえていた。実際そのために、父帝の側から遠ざけられて蒙恬将軍のもとに預けられているのであった。その蒙恬は匈奴討伐で目覚しい実績を挙げて皇帝からも賞賛され、弟の蒙毅は上卿の地位にあってこれも始皇帝の信任を受けた側近の一人であった。だからもし蒙恬・蒙毅の兄弟が扶蘇を奉じて一勢力をなしたならば、やがてあなたの権勢すら危なくなりかねない。説者の言いたいことは、そのことであった。
だが李斯は、彼に対して答えた。
「私は― 善事は全て皇帝陛下のために帰し、悪事は全て自分でかぶることを覚悟している。今やっていることは、必ず誰かがやらなければならないのです、、、もうお帰りなさい。これ以上の言葉は、結構です。」
李斯は、この説者との対面を、打ち切ってしまった。
もはや、前に進むしか彼の道はなかった。余人の心配などは、彼にとって聞く耳を持たなかった。どうして、己の保全などを気にして革命ができるだろうか?― 始皇帝に仕え、韓非が目の前で果てるのを見届けた彼は、二十余年の間そのように思い続けていた。少なくとも、その確信は決してこれからも揺るぎはしないだろうと、この時は思っていた。
説者は、丞相の邸宅から追い立てられようとしていた。
彼は、去り際に丞相に向けて、こう言った。
「― 秦朝の運気を調べたところ、まず東の方角に凶あって、亥の方角はさらに凶と出ました、、、お気をつけなされ。」
彼の言葉は卜占の結果であったが、あることを暗示していた。
だが李斯は、憮然として説者に言った。
「卜(うらな)いなど、私は信じぬ、、、もう帰ってくれ!二度と、来るでない!」



