«« ”七 帝国の闇(1)” | メインページ | ”八 幻影(1) ”»»


七 帝国の闇(2)

(カテゴリ:103宦官の章

天下の主人の始皇帝が、最も忌み嫌ったことは二つであった。

一つは、休息すること。
若い頃に全てを亡ぼして覆すことを夢見た彼は、その夢のとおりに諸国を亡ぼして天下を我が物とすることに成功した。そして統一を成し遂げてからは、猛烈な勢いで帝国を作り変えていった。彼の心は、地上の人間どもにいささかも目を向けていなかった。たとえるならば、見えない虚空の上に誰も描いたことのない絵を書くこと― それだけが、彼に取り付いた執念であった。その絵を描く下地こそが、彼の帝国であった。そして、その絵を描くための材料は、帝国の膨大な権力であった。
帝国の全土に法を厳格に適用した結果、彼の元には未曾有の権力が集中するようになった。賞罰によって百官人民を規制すれば、上からの命令は最も能率的に実行されることとなる。法家思想の理論は、国家に最大の能率と公正を与える手段を与えるのが目的であった。だがその能率と公正をどのように使うのかは、法家思想は答えることがない。始皇帝は、法によって与えられた能率と公正を、徹底的に酷使した。彼は、自分の権力を無駄に休息させることを忌み嫌った。権力の行使は、彼にとって自分が生き続ける理由であった。
だが彼が休息することを忌み嫌ったのは、立ち止まると或ることを考えてしまうからであったかもしれない。
それは、自分の死について考えること。
これが、彼が忌み嫌ったもう一つのことであった。
始皇帝は、咸陽の東の驪山(りざん)の土地に、とてつもない大きな陵墓を築いていた。
驪山陵は、これまでの中国の陵墓の想像力を、はるかに越えたものであった。おそらく、西方から伝わったエジプトのピラミッドやギリシャ人のマウソレウム(大霊廟)の情報が伝わって、想像力を刺激したのであろう。個人のために大建築を行なうという斬新な発想を西方から得て、始皇帝はこれほどの大工事を起こしたに違いない。驪山陵は、前人未踏の事業を打ち立てた皇帝の栄光を讃えるための、記念碑となるはずであった。
こうして自分のための陵墓を建設していながら、なのに彼は自分が死すべき存在であるという現実を、受け入れたくなかった。それは全くの分裂であったが、始皇帝は分裂をそのままにして分裂した命令を出しつづけたのであった。
彼は、東方に巡幸したときに、徐福という方士に東方の海上に神仙の世界があるという話を吹き込まれた。それは蓬莱(ほうらい)・方丈・瀛州(えいしゅう)という三神山で、仙人がそこに住まっているという。
この徐福という者は、信頼のおける人物だったのであろうか。おそらく、そうではなかったであろう。なのに、始皇帝は彼の説を受けて、徐福に童男・童女数千人を与えて船を出させ、仙人を探索することを命じた。
命令すればどんなことでもできる皇帝とはいえ、後世の目から見ればこれはあまりにも無意味で愚劣な浪費であった。自分一人が永遠に生きることを求めるなど、あまりに不遜にして滑稽であった。しかし、始皇帝は言うであろう。不老不死の方法がないと証明されていない以上、己の権力を用いて探索をさせて何が悪い、と。始皇帝はそれから後も、廬生・韓終・侯公・石生といった者たちに命じて、仙人を求めて芝(し)や神薬といった不老不死の薬を求めさせたりしたのであった。
前人未踏の道を進む始皇帝は、死という現象にすら挑戦しようとしたのであろうか。彼は、さきほどの廬生に吹き込まれて、今度は「真人」(しんじん)になることを夢見た。廬生の説によると、体から邪気を斥けて無欲恬淡となれば、「真人」となって水火にも煩わされず雲気も当ることなくして長久に生きられるという。この邪説を、始皇帝はまたも実践してみることにした。だが廬生が言うに、君主の居場所が人臣に知られると、神気が害されてしまうという。そこで、始皇帝は自分の居場所が家臣に知られないように、咸陽の周囲二百里内の宮殿望楼二百七十を、復道(ふくどう)・甬道(ようどう)で繋いだ。復道とは二階建ての通路で、甬道とは一階建ての通路である。いずれも、両側に土塀を建てて防護し、外側から中の様子が窺がえないようになっていた。そうして繋がれた宮殿望楼の各所に帷帳・鐘鼓・美人を満たして、完全に外部から遮断された生活を送り始めたのであった。あるとき、彼が宮殿の上から丞相の車騎が多数なのを見て、不満に思った。それを丞相に告げた宦官がいた。その後、丞相は車騎の数を減らした。しかし、始皇帝は自分の意思を丞相に告げた者がいることに勘付いて、首謀者を探させた。だが誰も出てこなかったので、彼は詔を発してそのとき周囲にいた全ての者を皆殺しにした。
彼の不老不死への執着は、このように年を追うごとに凄惨なものとなっていた。彼は、自分の思うままにならないものがあることが、我慢ならなかったのであろうか。もし死んでしまえば、その後の世界は自分でどうすることもできない。この世の誰も信じられない彼のことだから、自分がいなくなった後に誰かに希望を託すことも、全くできなかった。努めて人を憎み、人を信じないことを心の糧として、彼は生き続けていた。そのため、自分の死後の人間を信じること自体が、自分への裏切りであった。彼は、それゆえ自分の死を受け入れることを拒否し続けたのであった。
だが彼の死を思うことを忌避する態度は、帝国の将来について困った要素を作り出した。
彼の後継者の、問題である。始皇帝は彼以降の後継者を二世、三世、、、と名乗るべきことを制定していたために、いずれ二世皇帝と称されるべき人間であった。
しかし始皇帝は、皇帝を名乗るようになった後ですら、立太子をすることがなかった。
そのため、二世皇帝が誰となるのか、全くはっきりとしていなかった。
推測だけは、周囲の者たちも行なっていた。
長子の扶蘇は、最年長の公子であるばかりでなく、まがりなりにも帝国の政務に参加していた。彼は父帝が断行した焚書坑儒の政策に反対して不興を買い、北辺を守備する蒙恬将軍のもとに預けられることとなった。それでも、多くの者は扶蘇ぐらいしか後継者となる子がいそうにないと、穏当に推測していた。
だが実態は、そう簡単なものではなかった。
始皇帝には、すでに数多くの男子がいた。
しかし人を愛するということがない始皇帝であるので、自分の子のことも愛していなかった。彼は、自分の子供たちに対して、およそ情愛というものを見せたことがなかった。扶蘇についても、長子だから一応政務に参加させてはいるものの、唯一の後継者として誰にも分かるように重用しているというわけではなかった。
そのような状況に、もう一人の公子が忍び込んでいた。
始皇帝の末子の、胡亥であった。
かつて趙陰が産んだあの息子は、すでに二十歳になろうとしていた。彼の後に始皇帝に産まれた男子たちは、不思議なことに誰も育たなかった。だから、彼が末子であった。
趙陰が産んだ子だからといって、当初は胡亥もまた特別扱いなどされていなかった。
彼の顔など、父帝は成長するまでほとんど見たことがなかった。
だがあるとき、宦官の趙高が始皇帝の御前に、胡亥を連れて謁見した。
「公子胡亥さまは、法刑に通暁しておられます。お使いになられれば、陛下のために忠節を尽してお働き申し上げるでございましょう―」
かつて趙陰に付いて秦にやってきた趙高は、いつの間にか秦の律令について、法の専門家である御史たちにすら匹敵するほどの知識を持つようになっていた。それを知った始皇帝は、彼を中車府令(ちゅうしゃふれい)という官に付けた。皇帝が巡幸する際の車を管理する役職であって、長大な巡幸の行程で車に乗り続ける皇帝にとっては、最も長い時間側に仕える家臣となった。さらに皇帝が復道・甬道を作って外界と遮断するような生活を始めるようになると、律令に通じた宦官がどうしても必要となってきた。宦官だけは、どんなときでも皇帝の側に侍ることが許されたからであった。趙高は、次第に始皇帝の生活にとってなくてはならない存在となっていた。
その趙高が、胡亥を連れてやって来た。
始皇帝は、自分の息子をじろりと見回した。
胡亥は、父帝の前で深々と平伏していた。父帝に似て、かなり大柄な若者であった。
始皇帝は、言った。
「趙高、お前が薦めるのならば、試しに置くがよい。」
「あ、有り難き幸せにございます―」
胡亥は、若々しい声で感謝の言葉を言上した。
御前から退出した後、胡亥は不満そうに趙高に言った。
「― ちっ、勉強しておいたのに、全然律令について下問がなかったではないか!お前の予想は、大外れだ。」
趙高は、言った。
「何事もなく終わったことを、むしろお喜びなされ。その方が、下手な失敗もなくて吉だったのですぞ、、、」

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://suzumoto.s217.xrea.com/mt/mt-tb.cgi/1043

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

          

各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章