胡亥は産まれた後、始皇帝によって趙高に預けられた。
胡亥の母が残した遺言に、始皇帝は困惑した。彼は、自分の子供に目を掛けたりするようなことが不可能であった。誰も愛さずに生きてきた彼には、もはや他人に優しい目を向ける感情というものが、干上がっていた。それで、胡亥を趙高に預けてしまった。彼は、胡亥の母の遺言から、逃げてしまったのであった。
胡亥は、産まれたときにはもう母はおらず、情愛の薄い父帝は子供に何ら目をかけることをしなかった。そのような彼の側にいたのは、いつも趙高であった。胡亥は、趙高から言葉を使うことはもとより、食事を取ることから排泄の仕方まで教えられた。少年の胡亥が「あー」とか「うー」とか声を出せば、趙高はたちどころに彼の意図を理解して、彼が欲するところのものを用意してみせるのであった。胡亥にとって趙高こそが、父であり母であった。いや、趙高はあくまでも宦官であり、皇帝の公子の胡亥にとってはただの奴隷にすぎない。しかし自分という存在に不可欠でかつ自分という存在と不可分の、奴隷であった。
胡亥に学問を授けたのも、趙高であった。だが、趙高が与えた学問とは、公子が属する秦帝国にとって必要とされた分野だけであった。趙高は、胡亥に法刑の原理と運用の鉄則を教えたのであった。
「― 国家を運営するのは、法刑だけに頼らなければなりません。法刑だけが必要であって、かつ十分なのです。これ以外のことを主張する者は、真理を知らぬ者でしかありません。韓非が、国家の原理を全て明らかにしてしまったのです。」
趙高は、このように若い胡亥に教えた。趙高もまた、始皇帝と同じく韓非の著作を徹底的に読み込んでいた。
趙高は、胡亥に言った。
「君主が決して忘れてはならないのは、己の『勢』を損なわないこと。これだけです。『勢』を保つためには、下の者への仁義や情愛などは一切必要ありません。法刑をもって下を使役することだけが、君主の位を安泰に保つのです。」
胡亥は、趙高に質問した。
「よくわからない。『勢』って、なんだ?」
趙高は、ずばりと答えた。
「― 暴力です。」
彼は、老人のような顔をほとんど動かすことなく、続けた。
「善や正義といったものは、人を動かす力となりえません。なぜならば―」
趙高は、目の前の子供に言った。
「皆がめいめいに、これが良いことだ、これが正しいことだ、これが美しいことだと思っているからです。しかし、その間に共通のものは、ありません。ある者が言う善や、正義や、美とかいうものは、別の者には決して通用しません。ですから、これらのものでは三人の人間すら従えることができないのです。ましてや国家を統治することは、絶対にできません。この世界は、いわばめいめいが白昼夢を見ているようなものなのです。しかし、君主はそれらの者どもをことごとく使役しなければなりません。白昼夢を見ている者どもを、操り動かさなければならないのです。」
趙高は、韓非の著作から一つの真理を受け取っていた。
世界を真に秩序付けるものは、善ではない。暴力である。
この韓非の洞察を、趙高は至上の真理として受け取った。そして、その真理を若い胡亥にそっくり教え込んでいったのであった。
趙高は、言った。
「ゆえに― 暴力なのです。暴力だけが、全ての人民を操り動かします。死の恐怖の前では、各人が持っている趣味や理想など吹き飛んでしまいます。骸骨になれば、人間は皆一樣です。人の上に立つ者が下の者に対して考えるべきことは、ただ一つ。いかに、自分の地位が与える暴力を効果的に下の者どもに振り下ろすか、これだけなのです。幻想を持ってはいけません。君主の下にいる人間は、ことごとく敵なのです。君主の下にいる人間は、隙あれば上の者を蹴落とそうと考えているのです。家臣を愛することは、すなわち暴力の手綱をゆるめることになります。そうして、その君主は殺されるでしょう。だから恐怖だけが、上下の秩序を守ることができるのです。」
胡亥は、趙高からこのような真理を聞かされて成長していった。彼は父帝から並以上の頭脳を受け継いでいたが、その彼に何かを教えてくれる人間は、ただ一人趙高しかいなかった。それで、彼は趙高の言葉だけを聞いて、育っていった。
胡亥は、趙高に質問した。
「趙高、お前は暴力によって秩序を作れと言う。ならば聞く― では、一番上に立っている君主は、何をすればよいのだ?」
趙高は、子供の質問に答えた。
「何をしても、よいのです。君主は、暴力を用いて思うがままのことができるのです。それを咎める者は、真理を知らぬ愚か者です。」
これは、法家思想の理論的な結論であるに過ぎなかった。権力が何をなすべきかは、とりあえず不問に処すこと― ただ、それだけのことにすぎなかった。しかし、趙高が若い胡亥に教えた真理は、結論は同じでも歪んでいた。
胡亥は、さらに質問した。
「ならば― 皇帝であらせられる父上は、何をしてもよいのであるか?」
趙高は、答えた。
「その通りです。皇帝の位とは、何をしても許される存在なのです。それが、真理なのです。」
胡亥は、言った。
「では、父上が死んで余が皇帝となれば、余は何をしてもよいというわけであるのか?」
子にしては、あまりに不孝の言葉であった。
だが趙高は、特に咎め立てもせずに答えた。
「理論的には、そうなるでしょう―」
胡亥は、喜んだ。
「ならば、早く死ねばよいのに!」
胡亥は、きゃっきゃっと笑った。
趙高は、浮かれる子供をようやく押さえた。
「そのお言葉は、出されないように― 不孝の罪は、誅殺の元です。誅殺されたくなければ、従わなければなりません。」



