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八 幻影(3)

(カテゴリ:103宦官の章

その日も、始皇帝は復道(ふくどう)・甬道(ようどう)で繋がれた二百七十の宮殿望楼のどこかに潜んでいた。大臣百官たちは、この数年皇帝に直接会うことすらほとんど出来ないようになっていた。壁を巡らせて奥に潜む皇帝は、ついに外界の他人を一切拒絶しようとするその心を、形として完成させたかのようであった。それは、膨大にして完全に孤独な空間であった。

しかし、始皇帝は、その中で楽しまなかった。不老不死の望みが達成されそうだという予感は、彼に少しも訪れていなかった。それどころか、彼は最近ますます死が恐ろしくなって来た。かつて刺客の荊軻に襲われたときも、また博波沙で張良に狙われたときも、彼は自分の死についてなど考えたことすらなかった。後から考えるとまことに死の一歩寸前の危機であったが、その頃の彼は気に留めることすらなかった。全ての危機を後ろに置いて去り、彼は虚空に自分の絵を描くことに忙しかった。だが、今は違った。彼は、時折望楼に登って、渭水のむこうに建設中の阿房宮を眺めてみる。一日が過ぎ一月が経つごとに、宮殿の数は増えて空間は波打つ屋根で埋められていった。自らの巨大な権力は、今日も滞ることなく行使されていることが望楼からも見ることができた。しかし、それも彼にとっては少しも慰めにはならなかった。
彼は、恐怖を紛らわせるかのように、宮殿の奥で皇帝としての事務に熱中した。大臣百官たちはもはや丞相の李斯ですら直接会うことがなく、間に立つ閹官(えんかん)どもが届けてくる上奏文を自ら決裁し、詔を発するのであった。その偏執ぶりは、皇帝陛下は毎日決裁する文書の重量を量って一定の量に達しないと止めることがない、とまで噂されるようになった。
その始皇帝に、使者を通じて返されてきた璧が、直ちに届けられた。
壁と共に伝えられた言葉もまた、同時に知らされることとなった。
璧を届けたのは、趙高であった。彼は、閹官どもの中でも最も重要な案件について皇帝に伝えるのを、常に専らとしていた。
事件を聞いた始皇帝は、明らかに不快の表情であった。
もし、伝えたのが普通の宦官ならば、その場で斬り捨てられていたであろう。しかし、趙高は無感動に皇帝に情報を伝える術を、心得ていた。
「下手人を、捜索させることをご下命なさいますか、、、」
今から少し前に、同じく趙高が東郡に自らを呪う隕石が落下したことを伝えたときには、始皇帝は激怒して下手人の捜索を下命した。そして、見つからなかったときには、連座による皆殺しを命ずることも、皇帝は躊躇しなかった。趙高は、皇帝の言葉を待った。
しかし、始皇帝は言った。
「たとえ壁を返したのが山の鬼神であったとしても、、、山鬼は一年のことしかわかりはせぬ。今年は、もはや暮れようとしているではないか、、、」
そう言って、後ろを向いて奥に下がろうとした。
だが、わずかに乱れた足取りを止めて、彼は思い直して振り向いた。
そうして、趙高の捧げた璧を取って、しげしげと眺めて言った。
「祖龍とは、、、朕のことではない!」
その場には趙高しかいなかったので、彼に言おうとしたのであろうか。だが、趙高は鏡のようなものにすぎなかった。だからただの始皇帝の、独語であった。
宮殿の夜は、回廊という回廊に煌煌と燭台の明かりが灯されていた。闇を恐れる始皇帝は、自らが滞在する宮殿の夜を、完全に明るく灯すことを命じていた。だが、あまりに多くの燭台を並べて明るくし過ぎたので、そのままでは今夜彼がどの宮殿にいるのかが外部から丸分かりになってしまう。それで、滞在しているしていないに関わらず、全ての宮殿が明るくされていた。そのような咸陽宮は遠目から見ると、まことに壮観であった。
その明るい宮殿には、耳目を楽しませるべき美女や鐘鼓があらん限りに詰め込まれていた。それは、全ての憂いを無くす、皇帝のための世界であった。
だが、今夜は女の悲鳴が、一声奥から聞こえてきた。悲鳴は、一声を上げただけで、ぱたりと止んだ。
「朕の心は、誰にも分からぬ、、、!」
始皇帝は、剣を握って立っていた。その下には、女が胸と首の筋を斬られて俯(うつぶ)していた。
僭上の妾を斬った彼は、寝所を離れて宮殿の窓に向った。
窓の外からは、昼間ならば阿房宮が見えるはずであった。しかし、夜なのでその威容は見ることができなかった。月が出ていれば渭水の流れが月明かりを映して照り輝いているであるが、今夜は月のない夜であった。見えるのは、自分のいない他の宮殿の明かりが眼下に広がる姿ばかりであった。
長らく、彼は人間に会う生活から遠ざかっていた。いや、宮殿に侍る妾たちと、閹官どもは確かにいた。しかし、しょせんそれらは人間ではなかった。彼の回りには、もはや誰もいなかった。真人(しんじん)になるために始めたこの生活は、結局彼の孤立した心が本来望んでいたものだったのであろうか。ならば、望んでいた生活をついに手に入れた今の彼は、満足だったのであろうか。だが、彼は現在に満足しているとは、とても思えなかった。
始皇帝は、長い間窓の外を見続けていた。
突然彼は、後ろを振り向いた。
「誰だ、、、何をしている。」
彼は、妾たちのものとも、閹官とも違う気配を、感じ取った。
宮殿の柱の奥に、何かがいることを感じた。燭台の光の陰となって、よく見通せなかった。
始皇帝は、その方に体を向けた。
奥から、何かが聞こえてきた。声のようであった。

― ここにいては、腐れてやがて、死ぬるだけ、、、

「、、、何者だ!」
始皇帝は、声を出して不審の者を捕えさせようとした。
だがしかし、柱の奥の陰をさらに見続けた彼は、一瞬立ち止まった。
声が、また聞こえてきた。少女の声であった。

― 政。ここを、出るのです。東へ、来るのです。早く、、、早く!

始皇帝は、柱の向こうに駆け込んだ。
しかし、駆け込んだときには、すでに誰もいなかった。
声のあった所には、さきほど趙高から受け取った璧が、落ちていた。緑と白の混じった見事な璧は、真っ二つに砕けて割れていた。
「― 江神だと、言うのか?、、、政、、、政だと?」
始皇帝は、長らく言われることがなかった自分の名を幻に言われて、息を荒くして唸った。

それから、二日と経たぬ日のこと。
始皇帝は、来年早々より東方へ巡幸する旨の詔を、発布した。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章