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九 沙丘の罠(1)

(カテゴリ:103宦官の章

始皇帝の巡幸は、征服した各地を威圧するための旅であった。

楚を東の海に至るまで横断し、海岸をことごとく払うように進んだのは、天下の辺境をあえて回ってそこより内側は全てが皇帝の土地であることを、宣言するかのようであった。もはや、いかなる逃げ場所もない。皇帝は、天下の全てを保有して監視している。それに刃向かうのは、ただただ愚かでしかありえない。
琅邪(ろうや)に至り、方士の徐福と会見した。
徐福は、皇帝の前で平伏しながら、蓬莱山の仙人に会えず神薬が手に入らないことの言い訳をした。
「蓬莱山にたどり着きさえすれば、必ず仙人から神薬を受け取ることができることは、確実なのでありますが、、、」
実際には、徐福は皇帝から受け取った巨額の費用の大半を、己のために浪費してしまっていた。捜索中ということにしておけばいくらでも金を出してくれると思って、これまで適当に探索結果をごまかして報告し続けてきたのであった。それが、まさか皇帝自身が再び自分の目の前に現れようとは、彼も予想していなかった。
「確実ならば、どうして今まで入手できないのか!」
始皇帝は、怒った。
徐福は、ただただ平伏しながら、口先で必死に弁解した。
「― 実は海の途上に、大鮫がおりまして、、、常に行く手を阻まれてしまいます。それはもう巨大な魚でして、船が進もうとしたら、必ず沈められてしまうのです、、、」
全くの、出まかせであった。実は、徐福はすでに東海の向こう側に島があることを、これまでの調査で掴んでいた。だが、それは仙人の住む島などではなかった。相当に大きな列島で、大陸では見ることができない、珍しい火を吹く山がたくさんあった。すでに数多くの人間が住み着いていて、中には南方の越から来た漁民たちすら、集落を作っていた。まだ国も作られていないようであったが人口は多く、よほどに潜在力のありそうな土地ではあったが、ただしかし不老不死の神薬を持っている仙人は住んでいなかった。徐福はそれで、東海の豊かな土地の情報を始皇帝に伝えることをせずに、仙人がいないという一点の理由で隠したのであった。
「ふん。ならば、その鮫を倒せば海の向こうに行けると申すのであるな?答えよ、徐福!」
始皇帝は、徐福を怒鳴り付けた。
徐福は、あわてて同調した。
「そ、そうでございます!願わくは、臣に名人の弩弓手(どきゅうしゅ)を同行させてください。海上で鮫が現れましたら、次には弓を連射して射止めてしまいましょうぞ!」
始皇帝は、徐福にもう一度海に行くことを許した。今度こそは失敗したら処刑すると脅し付けて、彼は琅邪を後にした。徐福は、その後皇帝の命により海に出て、二度と帰ってこなかった。こうして、後に「ヤマト」とか「日本」とか呼ばれるようになる東海の列島のことは、とうとう始皇帝の目に止まることがなく終わってしまった。
だが徐福の話した、海上の大鮫の話が皇帝の心に残ったのであろうか。始皇帝は、徐福を追い返した晩に、自分が海で大魚と戦う夢を見た。大魚は渦巻く激流から姿を現し、やがて海神の姿となって自分に襲い掛かろうとした。海神は、天下の主としてもはや神に近くなった皇帝の不遜を咎めるかのように、恐ろしい形相で荒れ狂っていた。自分は勝ったのだろうか、敗れたのだろうか。彼が目を覚ましたときには、ただ四体に重い疲労感ばかりが残っていた。
始皇帝は、この夢は死との戦いではないかと思った。占夢博士にこの夢の意味を問うと、海神は悪神であって除かなければならず、除けば善神がやって来ると言う。
始皇帝は、悪神を除くことを思い立った。
「― 朕は海神などには、惑わされぬ!」
彼は、海上に居住する者どもを動員して、大魚を捕える用意をさせた。そうして山東の海岸を進みながら、大魚が出現することを待ち望んだ。之罘(しふ)に至って、ようやく海上に大魚の群れを発見した。始皇帝は舟を用意させて、周囲の制止を振り切って自ら海上に出向いた。弩(ど。いしゆみ)を手にして、飛び跳ねる群れに矢を射掛けた。だが、当らぬ。彼らの速度は、あまりにも速い。これまで弩など使ったことのない始皇帝がいきなり射掛けて、当るものではない。皇帝は、もう一度矢を発した。矢は、空しく海中に消えていくだけであった。さらに、もう一度。今度の矢は、魚群から遠くに向けて飛んでいった。しかし、その矢の進む先に、群れの一尾が偶然跳んでいったのであった。矢は、命中した。始皇帝は、ついに大魚を射止めたのであった。付き従ってきた者どもは、驚きあきれるばかりであった。このとき射止めた大魚とは、おそらく海豚(いるか)か鯱(しゃち)だったのではあるまいか。
しかし、自ら海上に出る無理をした始皇帝は、その後大きく体調を崩してしまった。死の恐怖を振り払うために、彼はあえて皇帝らしからぬ無謀を行なった。だが、終わった後には重い憂鬱が増すばかりであった。彼は、平原津に付いたとき、とうとう床に伏せってしまった。
即位してからこれまで、病気など一度もしたことがない頑強な男であった。若い頃には毎夜の荒淫を軽々とこなし、最近は深夜まで皇帝の事務を行なうことがしばしばであった。すでに歳は五十を数えていたが、精力はまだまだ衰えていないつもりであった。しかし、このときついに体に変調を来たした。付き従った大臣官吏たちは、大いに慌てふためいた。上卿の蒙毅が、願い出て咸陽に帰還した。秦の社稷の神に皇帝の平癒を祈るのが、当面の目的であった。だが、ひょっとしたら同時に有事に備えて咸陽で準備しようとしたのが、奥に隠された真意だったのかもしれない。
やがて、皇帝の周囲に、妙な噂が立ち始めた。
皇帝は、夜中に寝所で女神と対面している、という噂であった。
皇帝の寝所に侍る宦官どもの間から、流れて来た噂であろうか。寝所の中は余人が見ることが許されないために、噂の真相はよく分からなかった。だが、ある者は、夜に皇帝が女神に親しく語りかけて談笑すらしている声を、聞いたというのである。
「― あれは、湘君だ。陛下は、湘君に取り付かれている。」
このようなことを囁く者まで、現れた。
楚の南にある雲夢(うんぼう、洞庭湖)の湖水のほとりに、湘山がある。湘山は、堯帝の娘で舜帝の妻であった湘君を祀った山であった。ずっと昔、始皇帝が楚を巡幸したときに、湘山に立ち寄ったことがあった。だがその後、渡航しようとしたら大風で水が荒れた。始皇帝の一行は、危うく渡航できないところであった。周囲の者は神意の為せるわざかと畏れたが、始皇帝は怒った。
「堯帝の娘、舜帝の妻であろうが、朕は堯舜をも超える皇帝である、、、湘君ごときが、朕の行く手を阻むことは許さぬ!」
そう言って、囚人三千人を動員して、湘山の木を切って丸裸にしてしまった。聖なる森は、こうして亡ぼされた。今回の巡幸でも始皇帝は雲夢に立ち寄ったが、湘山はいまだにまばらな草しか生えぬ無残な禿山のままであった。
その湘君が、いま恨みを晴らすために始皇帝に取り付いている― 話の筋は、そういうものであった。皇帝の周囲には、不気味な空気が広がり始めていた。
「あるいは― もしかしたら、、、」
「― いや、そんなことはありえぬ!」
大臣百官たちの心中は、急速にざわめき始めた。ありえない事態が起こったならば、一体どうなるのであろうか。それは、どのように明察な官吏であっても、想像の範囲を超えた次元のことであった。
しかし、ある日始皇帝は、床から出て再び周囲に姿を現した。
少々やつれてはいたが、足取りなどは乱れていなかった。
「しばらくの休息であったが、朕は再び巡幸する。これより、趙の沙丘に向かう―」
皇帝は、下命した。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章