沙丘。
そこには、旧趙が営んだ離宮があった。
かつて大王の武霊王を家臣が攻め殺した、あの離宮である。そのあまりの因縁の悪さのために、趙の王室はこの離宮を封印して亡き王のための霊廟に変えていた。だが趙が亡んだ後は、全て秦帝国の保有するところとなった。漳水(しょうすい)のほとりに聳える華やかな金殿楼閣は、皇帝の行在(あんざい)の場所として申し分ない。それで、巡幸の行程に組み込まれていたのであった。
七月、始皇帝の巡幸の列は沙丘に向かった。
陰暦の七月であり、残暑の厳しい頃であった。昼間の押さえ込まれるかのように重い暑気は、人を耐え難く不快にさせるものであった。皇帝が移動の際に乗る車は、轀輬車(おんりょうしゃ)と呼ばれる特別な仕掛けを施した車であった。何でも、外気の暑寒に合わせて、車内が温かくなったり涼しくなる仕掛けとなっているというのである。後世の説明では、車輪の動きに合わせて窓が開閉する仕組みとなっていたという。おそらく寒い時には窓が閉じ続けるように調節され、いっぽう暑い時には窓が盛んに開閉するように調節されて、風を送るようになっていたのであろう。しかしいくら特別仕掛けの車の中であったとはいえ、厳しい暑気は久しく臥せっていた皇帝の体に、ずいぶんと応えるものであった。彼は、すでに五十であった。どのように自分自身で否定しようが、体力の衰えはもはやどうにも隠しようがなかった。
長い昼が終わり、ようやく夜となった。
広大な沙丘の離宮は、死んだように静まり反っていた。夜になれば、若干の涼風が吹き始めて涼しくなった。風は、早くも秋の気配を運んでいるかのようであった。
一台の馬車が、離宮に通じる街道を進んでいた。
馬車は、離宮を大きく遠回りして、目立たない裏手の門に向かっっていった。
しばらく後、離宮の中を、一つの影が進んでいった。数多くの殿舎と楼閣が入り組んだ離宮は、まさに迷宮と呼ぶにふさわしいものであった。戦国の君主たちは、自らを迷宮のような広大で複雑な宮城の中に篭(こも)らせるのを好んだ。それは、侵入する者に対して狙う君主がどこにいるのかを隠すための、手の込んだ建築であった。だが、ある意味では常に命を狙われる危険にあった君主が、まるで母の胎内の中にいるかのように迷宮の内に内に沈むことによって、ひと時の安心を得ようと望んでいたのかもしれない。始皇帝もまた、咸陽の宮殿望楼を復道(ふくどう)・甬道(ようどう)で繋いで、かつてない規模の完全な迷宮に変えたのであった。
その迷宮の中を進んでいった影は、やがて武霊王の霊廟に向かっていった。
壮大な霊廟は、趙の王室が建てたものであった。自ら弑逆した君主を霊廟に祀ることによって、彼らは罪から逃れようとした。だが、彼らもまた亡んだ。今や霊廟の祀りは絶え、建物はすでに無主の空間であった。久しい間人が訪れることがなかったその中に、今夜は一つの人の影が入っていった。
霊廟の奥の門が、開かれた。
中は、わずかに明るかった。燭台が数本限り立てられて、視界を作っていた。
中から、声が掛かった。
「よくぞ来た、黒燕―」
入っていた影の主は、声に答えた。
「さあ、共に参りましょうぞ、、、陛下。」
燭台の明りによって、二人の姿が明らかとなった。
霊廟に座っていたのは、始皇帝その人であった。
そして、入って来た影は、小さな女であった。その姿は、まだ十を大きく越えない程度の、小娘でしかなかった。しかし、年の頃にはふさわしくもなく、その挙動と言葉には冷静さがあった。
やがて、一台の馬車が、人目を忍んで離宮から出て行った。
馬車は、離宮から三里ほど離れた、台の上の小さな殿舎に止まった。
馬車から、黒燕と呼ばれた少女が降りた。
「お降りくださいませ、陛下、、、それとも、叔父上とお呼びしましょうか?」
少女は、車の中の「叔父上」の手を取って、彼が降車することを助けた。
「叔父上」は、答えた。
「― あまり、軽軽しく呼ぶでないわ、、、」
二人は、連れ立って殿舎の中に入っていった。
黒燕は、言った。
「ここは、武霊王の公子章がその景観を愛した台地、、、公子章は、この土地で攻め殺されました。私たちにも、その血が流れている祖先でございますよ?」
叔父上、いや陛下は言った。
「趙などは、もはや朕が亡ぼした国だ。そのようなものを、振り返っている暇などない。この朕には、先祖などはいないのだ。」
黒燕は、くすりと笑って返した。
「そして、子孫もいない。」
陛下は、むっとして言った。
「そんなはずが、あろうか!」
しかし黒燕は、言った。
「だって、永遠に生きられるんでしょう?子孫なんか、要らないじゃありませんか!」
黒燕は、また笑った。皇帝陛下は、首を横に振るばかりであった。彼女の前では、始皇帝はなぜかいつもの怒りを発することがなかった。
殿舎の中で、始皇帝は少女の黒燕と向かい合っていた。
彼は、燭台をかざして、少女の顔をしげしげと眺めた。
彼は、言った。
「まさに、同じだ― 昔の趙陰と、何もかもが同じだ。お前は、、、」
黒燕は、明りに照らされたその表情を、わずかに微笑んで見せた。
彼女は、言った。
「私は、あの人の孫ですからね。」
始皇帝は、言った。
「そうだったか、、、しかし、もうあの女はいない。何もかも、過ぎ去ってしまった。伯母上も、母上も、邯鄲の都もまた、遠くに消えうせた。朕だけが、残っている。お前は、朕の前に現れて、過ぎ去ったものを呼び戻させようというのであるか、、、」
始皇帝の母の太后もまた、彼が母の愛人の嫪毐(ろうあい)を誅殺してから間もなく、この世を去っていた。伯母の華陰は邯鄲で処刑され、その娘の趙陰もまた、彼のもとで死んでしまった。彼の小さい頃に周囲にいた全ての人々は、遠くに去った。しかし、今彼の目の前にいる黒燕は、彼が小さい頃に陰姉として慕った趙陰の面影と、そっくりそのままに生き写しであった。やや小狡そうな微笑も、わすかに濡れた瞳の色も、柔らかな髪の流れも、全てが彼の少年時代の記憶にあった像と同じであった。始皇帝はしばらく言葉も発せず、彼女を眺め続けた。



