始皇帝は、言った。
「あの夜、お前の幻が始めて現れたとき、朕は再び東に向かうことを決意した。そして、その幻は実在していた。何と忌まわしい、過去であったことよ、、、」
趙陰は、母親と兄弟たちが処刑された後に、耐えられないほどの辛酸を嘗めて育っていった。彼女は、始皇帝のところに再び出向いてから後、過去のことは彼に一度たりとも話すことがなかった。始皇帝もまた、彼女に問い掛けようともしなかった。目の前にいる少女の黒燕は、始皇帝の下に連れられて来る前に、趙陰から分かれた子孫であった。その彼女が、始皇帝の前にこうして幻のように現れたのであった。それが、始皇帝の病床に現れたという、湘君の正体であった。
始皇帝は、黒燕に聞いた。
「― お前は朕の前に現れて、こうして朕を誘った。朕は、お前の幻が頭から離れぬ。それで、こうして誘われて来た、、、お前は、何を望んでいるのか?」
黒燕は、答えた。
「もちろん、陛下を殺すためです。」
始皇帝は、言った。
「そうであろう― あの夜、お前が咸陽宮に忍び込んで来たときから、そうであろうと思っていた。だが、朕は死ぬことはない。」
黒燕は、言った。
「このまま生きておられても、やがて淋しく惨めに死ぬる末路が待っているだけですよ?せめて、私がそばにいてお亡くなりなさいませ。それが、いちばん幸福な終わり方でございましょう?」
黒燕は、明りに灯された表情をにこにこと笑わせた。少女の微笑みは、始皇帝にとってこの上もなく賞味するに心地よいものに感じられた。釣られて始皇帝も、笑った。彼が笑うなどは、彼女に会うまでの間もうずいぶん長い間絶えてなかったことであった。
黒燕は、言った。
「― 間もなく、この殿舎は焼けて灰となりましょう。今夜ここに陛下をお連れしたのは、この私です。何重もの警備に守られ、どこにおられるのかさえ余人には分からぬ陛下を倒すには、外に連れ出すより他はございません。私たちがこの平台に入った時が、襲撃の合図なのです。もはや、これまで―」
始皇帝は、彼女の言葉に深くうなずいた。
それから、庇の方角に顔を向けて言った。
「平台とは― あれのことであるか?」
黒燕は、ぎょっとした。
それから、慌てて庇の方に駆けて、外を眺めた。
遠くの闇に、はっきりと火の手が見えていた。
外を見ながら動かない黒燕に対して、始皇帝は言った。
「ここは、平台ではない。沙丘の離宮に附属した、別の台だ。平台には、別の馬車が入っていったのだ。ここに来る途中で道が森に入ったときに、この馬車は平台へ向かう道とは別の道を辿っていった。森から平台へ向かう道に出て行った馬車は、待たせてあった替え玉であったのだよ。」
外を眺めて動かない黒燕のところへ、始皇帝は歩み寄っていった。
彼女の真後ろに立って、彼は言った。
「お前を、朕の下へ送り込んだ者ども。華陰の地で、使者に璧を渡した者ども。そして、昨年隕石に細工を掘り込んだ者ども。全て、同じ根から出ていた。それらを絶やすために、朕はあえてお前の誘いに乗った。朕は、自らの身を用いて、敵をおびき寄せたのだ。今夜、平台を襲撃した者どもは、ことごとく殺されるであろう。朕には、誰も勝つことができないのだ。」
そう言って、彼は黒燕の肩に、手を置いた。
彼女は、肩を震わせて皇帝の手を振り切った。
皇帝は、言った。
「黒燕。もはや朕は、お前を離しはしない。朕はようやく、朕と共にいるべき者を、見つけ出した― それは、お前なのだ。」
そう言って、彼は再び両の手を、彼女の小さな肩に置いた。
黒燕は、再び肩を強張らせた。
だが、やがて肩の力は抜けていった。
それから、いまだに燃え続ける炎を背にして、始皇帝の方に向き直った。
彼女は、もはや笑いもせずに始皇帝をじっと見つめて、口を開いた。
「お見事でしたわ― 叔父上。」
始皇帝は、叔父上と呼びかけられても、もはや怒りもしなかった。
彼は、言った。
「黒燕―」
彼女は、答えた。
「― はい。」
彼は、言った。
「― お前の体を、見せるがよい。」
闇夜で、燭台のわずかな明りだけが、視界の頼りであった。
黒燕は、絹ずれの音を立てながら、帯を解いていった。
彼女は、成人の女として裳(もすそ)を付ける年ではなかった。だが、始皇帝の前に現れるときには、彼女は常に白絹の衣と裳を纏った姿であった。彼女の白い肌と白の装束は、男に夢幻の印象を与えずにはいなかった。それは、始皇帝の記憶からさまよい出た幻の姿に違いなかった。
黒燕は、言った。
「― 叔父上も、お脱ぎになられれば?」
始皇帝は、言った。
「だめだ。」
彼女は、聞いた。
「どうして?」
彼は、答えた。
「朕は、女に朕の体を見られたくない。」
黒燕は、苦笑した。
「皇帝陛下の叔父上が、今さら何てことを!」
始皇帝は、言った。
「朕は、見られることに我慢がならぬ― 耐えられないのだ。」
黒燕は、言った。
「― だから、叔父上にはこれまで本当の女も子供も、おられずに来たのですね、、、可愛そうな人。」
黒燕は、すっかり衣装を捨てた。かすかな明りであったのに、その姿ははっきりと浮かび上がるように、白く照らし出されていた。



