闇の中に白く映る少女の姿を前にして、始皇帝は言った。
「― 今の、お前の姿。あの時と、同じだ。なんと、忘れられぬことであるのか、、、」
彼はそう言って、彼女の前に一歩いざり寄った。もう一歩前に出ようとして、動きを止めた。それは、近くに寄れば娘の息遣いを感じる快楽の代わりに、白い姿を眺める快楽が失われてしまうことを恐れて、動きを惜しんだためであった。
黒燕は、言った。
「― 趙陰のことを、言っているのね?」
始皇帝は、当初何も答えなかった。
しかし、ずいぶんと間を置いた後で、答えた。
「― そうだ。」
始皇帝は、邯鄲にいた頃のことを思い出した。
父と呂不韋に取り残されて、屋敷から出ることすら許されなかった彼が待ち望んだ人々は、陰姉たちの一家であった。政と呼ばれた当時の彼にとって、彼らが訪ねて来てくれることが唯一の喜びであった。
屋敷のそばに、川が流れていた。巨大な城市の邯鄲は、自然の川の何本かを丸ごと包み込んで都市が設計されていた。望楼から見れば、その川の流れがきらきらと輝いていた。しかし普段の政は、その敷地の裏手にある土手に行くことすら、許されなかった。
しかし、ある日陰姉たちが訪れてきたとき、政は皆と共に川で遊ぶことができた。政が大いに駄々をこねて、陰姉までが同調した。それで、母と母の姉は、やむなく一日限り川に行くことを許してくれたのであった。
冷たい初夏の川の水は、政にとって初めて体験する快感であった。陰姉の兄弟たちと、はしゃいで遊んだ。陰姉も、もちろん仲間に加わった。勝気な政は、男の子たちを挑発しようとして、さらに川の奥に入っていった。幼い子供にとっては、大変危ないことであった。
「あいて!」
突然、政が転んで水の中に沈んでしまった。陰姉たちは、あわてて政の方に水を掻き分けて走っていった。
しかし、政は笑って水の中から顔を出した。少し石に滑っただけで、水は腰までの高さでしかなかった。子供たちは、安心して笑った。
川から上がったときは、おかげで全員ずぶ濡れであった。母親たちは、子供たちのもとに駆けていって服を着替えさせた。夏の日に、皆が大はしゃぎしながら裸になってしまった。陰姉は、政の隣でこぼれるように笑っていた。彼女の少女の肌は、夏の日を浴びてきらきらとまぶしかった。邯鄲の時代で、最も楽しい思い出であった。
いつしか、邯鄲の時代の出来事は、多くの忌まわしい記憶と共に始皇帝の心の奥深くに隠されるようになった。彼は、夜寝るとしばしば邯鄲時代の悪夢に悩まされた。そんな日の朝には、起きるとまたもむらむらと怒りと呪詛の思いが、彼の脳裏に立ち込めて来るのであった。だが、ごくまれにあの川辺の情景が、彼の夢に映し出されることがあった。その夢を見た日の朝には、始皇帝は起きるとしばし複雑な思いに取り付かれるのであった。しばらくの後、大人となった彼のいつもの無感動に戻るのが常であった。
始皇帝は、今は夢に見る情景のことを思い浮かべながら、言った。
「だが奴が朕の元に戻って来たときには、もはやただの女でしかなった。昔の姿は失われて、どこにも見えなかった。宮中にいくらでもいる女と、結局は同じとなってしまっていたのだ。それで朕は、戻って来た趙陰に気を留めることもしなかった。」
「それは、当たり前ですよ。」
「当たり前なことが、あるものか。人間は、歳を取ってはならないのだ、、、できれば、十歳のままでいるべきなのだ。それより大きくなっても、人間は何も良くならない。次第に悪の本性が心中にはびこり、それはやがて表情にも表れる。そのような人間など、朕はいらぬ。」
始皇帝は、そこまで語った後、もう一歩彼女の前に出た。そして、ついに彼女の肌に顔が付くところまで、近づいた。
始皇帝は、ゆっくりと顔を傾けながら、言った。
「朕は、もう老いてしまった。この巡幸で、朕の体は思うように動かなくなってしまった。もう、永遠には生きることができない。朕は、死ぬのだ。」
彼は、しばし沈黙した。静かに数度の呼吸をしてから、彼は言葉を続けた。
「だが、朕はお前が共にいれば、やがて生を終えることも、何やら恐ろしくないような気がしてきた、、、黒燕。朕がこれまでやってきたことは、なかなか大それた事であったろう?」
黒燕は、答えた。
「大きすぎて、誰にも評価できないでしょうよ。少なくとも、現在の民は皆激しく恨んでいます。」
彼は、言った。
「恨まれても、痛痒も感じぬ。しょせん、あのような者どもなど、朕の眼中には無い。あのような輩を、どうして愛せるであろうか、、、?」
始皇帝は、黒燕の未熟な胸に、顔を埋めた。
彼は、聞いた。
「― 黒燕。お前は、これまで何をしていたのだ?」
彼女は、答えた。
「物心ついたときから、張耳という人物に育てられてきました。それから、張耳のもとを離れて、趙に向かいました。かつての秦王政の一家を知っている者がいて、私の姿がかつての趙陰とそっくりであったのに目を付けたのです。そこから、咸陽の宮中に忍び込むための工作が始まりました、、、」
彼女の胸にいる始皇帝は、それを聞いても何も答えなかった。もはや今の皇帝にとっては、ほとんど関心の無いことであった。黒燕は腕を伸ばして、老いた皇帝の背中を抱き寄せた。皇帝の体は、深く彼女の中に沈みこんだ。
黒燕は、言った。
「― 陛下。趙高には、お気をつけなさいませ。」
始皇帝は、答えた。
「あいつか、、、やはり、宮中にお前を手引きしたのは、奴であったか。そうして、何食わぬ顔でお前たちの企みを朕に伝え、、、奴は明日、誅殺だ。」
黒燕は、言った。
「だから、、、あいつは、私にこの匕首を渡したのね、、、手の込んだことを、、、」
青銅の刃が、一瞬きらりと光った。
その後、殿舎には何一つ物音もしなかった。
静まり返った沈黙は、半刻も続いたような感覚すらあった。
沈黙を破った音は、燭台の火を吹き消すかすかな女の息であった。
暗闇に戻った殿舎から、駆け出していく足音があった。
足音は、外に待機してあった馬車に飛び込んだ。
「― 出しなさい、早く!」
席に座った黒燕は、御者に言った。
御者は、突然命じられて、あわてて後ろを振り向いた。
少女は、何一つ纏っていない姿であった。御者は彼女の姿を見て、さらに驚いた。
「何をじろじろ見ていやがる、、、陛下のご下命だよ、早く出しなさい!」
黒燕は、御者を叱咤した。御者は、あわてて前を向いて、馬に鞭をくらわせた。馬は激しくいななき、前に進みだした。
馬車は、川沿いの街道を、まっすぐ進んでいた。
御車は、聞いた。
「どちらに行けとの、ご下命でしょうか、、、」
黒燕は、言った。
「遠くに、、、できるだけ、遠くに!」
夏の夜は、次第に明け始めていた。



