李斯は、これまで存在をまるで無視していたこの法刑に詳しい宦官が、どれほど大それたことを企んでいるのかを始めて知った。これまで趙高は、始皇帝の影のように目立たず付き従っていただけの存在であった。その先入観と、いま李斯の目の前に展開された企みとの格差はあまりにも激しすぎた。
李斯は、ふるえる声で趙高に言った。
「ふざけるで、ないわ、、、趙高!これは、お前が勝手に作ったものであろうが、、」
「なぜそれがお分かりになる!」
趙高は、やにわに丞相を一喝した。
それから趙高は、丞相を問い詰めるように、言い始めた。
「― いったい丞相は陛下に四六時中付き従っておられたのか?丞相は、陛下のご寝所にまで侍ることを許されておられたのですか?この数年、陛下はご寝所にまで文書を持ち込んで決裁し、しばしば詔を夜中にでも起草しておられたのを、よもやご存知ないわけではおられますまい!ならば、この詔が陛下のご起草によるものでないと断言できることが、丞相閣下にどうしてできるのですか?」
李斯には、答えることができなかった。この詔が始皇帝の生前の意思を書き写したものであると趙高が主張したならば、それを否定する根拠が彼には無かった。それを否定できるのは、この世界に二人だけであった。一人は、始皇帝その人。もう一人は、皇帝の言葉を書き写したと主張している、趙高であった。そして始皇帝は、もはやこの世にいない。したがって趙高の主張を覆すことは、誰にもできないのであった。
趙高は、勝ち誇ったように李斯に対して、皇帝の寝所の事情を話し始めた。
「亡き陛下は、この数年などはお側に侍る女性にすら手をお付けになることもなく、深夜までお仕事をなさることが度々でした。この臣は、毎夜陛下のご寝所の横に常に侍り、陛下が口頭で下される詔を起草するお役目に当って参りました。そうしてこれまで臣が起草申し上げた詔は、車に積んでも乗せ切れぬ程の数に上ります。この詔もまた、正しく先日陛下が崩御あそばした前に、それがしに向けて口頭で下されたものです。すなわち、正真正銘の陛下の御言葉です、、、それを疑うのは、大逆と申す者ですぞっ、丞相!」
これは、一人独裁の制度の盲点であった。
絶対権力者から発せられる命令が本物であるのかどうかを検証できるのは、当の絶対権力者しかいない。その絶対権力者が、死んでしまった。そのとき、権力者の言葉を文書に写している機械にすぎなかったはずの宦官が、もし生前の言葉を捏造したならば?― それが本物か捏造なのかを見分けることが、当の宦官以外の誰にもできなくなってしまったのであった。
趙高は、李斯に言った。
「この詔のこと、直ちに実施に移さなければなりませぬ。さもなくば、公子扶蘇が蒙恬兄弟と図って、必ず咸陽で帝権を詐称するでありましょう。それは、亡き陛下のご遺志を踏みにじる行為でございます。我ら陛下に仕えた臣どもは、それを未然に防がなければなりませぬ、、、」
そう言って、彼は再び静かに平伏した。
李斯は、思った。
(― 斬るべきで、あろうか?)
彼は、この予想も付かない怪物を前にして、いっそこの場で斬り捨ててしまうことを考えた。
(そうだ。斬り捨てるべきだ。こ奴は、大逆の者だ。斬らなければならぬ。)
李斯は、そこまで思った。
だが、そのとき趙高は、彼の思案を予想していたかのように、平伏したままで言った。
「この臣を斬ったところで、何の益にもなりませぬぞ―」
趙高は、極めて低い声で、不気味に言葉を続けた。
「もしこの詔を丞相閣下が止められれば、閣下も予想なさるとおり、公子扶蘇が二世皇帝として即位することとなるでしょう。公子扶蘇は、蒙恬将軍の庇護を受けております。そしてこの二人は、かねてから丞相の政治に不満を持っていることを、お忘れではありますまい。公子扶蘇が二世皇帝となれば、蒙恬が丞相となるでしょう。閣下は、丞相の印綬を剥奪されることとなるでしょう。いや、それでは済みますまい。公子扶蘇と蒙恬は、閣下を函谷関から中に入れずに捕え、閣下を斬に処して人民に謝すに違いありますまい。人民の人気を取り戻すために、そうするのです。それでよいのですか?」
李斯は、言葉に詰まった。趙高の予想は、おそらく正しかった。
公子扶蘇は、李斯のことを嫌っていた。始皇帝を歪ませて暴走させている元凶は、丞相の李斯であるとまで言っているなどと伝聞されていた。それは、きっと公子の側にいる蒙恬が吹き込んでいるに相異なかった。蒙恬とその弟の蒙毅が、隙あらば丞相の李斯を蹴落とそうと企んでいることは、李斯にとってとっくに明らかなことであった。蒙恬兄弟などに能力で劣る李斯ではなかったが、李斯は外国の出身であるゆえに、国内の人脈に乏しかった。その上に、彼は官界で孤高であり、一切の馴れ合いを拒んだ。それは自らの思想に忠実であったゆえの政治姿勢であったが、それが李斯の与党を政府の中で作らせるのを、ほとんど不可能にしていた。だが蒙恬・蒙毅の兄弟は、祖父の代から秦に仕える名族の出身であった。そして、何よりも政治的な勘に長けていた。始皇帝と李斯の政治があまりにも不評なことを下地にして、これに距離を置く扶蘇を支持することによって内外のひそかな衆望を集めることに成功していた。能力とは別の次元にある現実の力関係の世界で見れば、李斯は孤立していた。いっぽう蒙恬兄弟は、始皇帝の死後には大きな力を得るであろうことは、明白であった。
趙高は、続けて言った。
「亡き陛下を輔佐して六国を併合し、郡県制を敷いて諸国に馳道を切り開き、北に長城を築いて南に土地を広げ、法を天下に広めてこの世界から一切の不正を断つ。これほどの功績を成し遂げられた丞相閣下が、公子扶蘇が二世皇帝となれば斬罪に処せられ市場に晒される屈辱を受け、その上残された者どもから大悪人の汚名を着せられて嘲笑されることとなるのです。それを、甘んじてお受けしても、果たして良いものでしょうか?蒙恬は、きっと閣下の功績を全て横取りして、自分の功績として天下に宣伝するに違いありません。そうして自分だけが善人の顔をして、人民の口に苦い政治は全て極悪の閣下が行なったことであったと吹聴するのです。きっと、後の史書には閣下は諸悪の根源としてありとあらゆる記述が捏造され、閣下の墓前には人民が安心して唾を吐きかけるのが、公認の正義となるでしょう。閣下の後に権力を奪った者が、人民にそのように教えるのです。臣には、その未来がありありと見えます。なぜならば、閣下には誰もお味方がおられないからです。閣下のためには、秦の内外で誰一人として力となってくれることがありません。閣下を非難するのは易く、閣下を擁護するのは誰にも益がないことなのです。ゆえに、、、」
それから、趙高は顔を上げて、李斯に向けて言った。
「― この詔を、使うのです。陛下の詔は、こちらにあるのです。よろしく、悪人を除くことを、ご決断なさいませ、、、」
趙高は、相変わらず無表情であった。彼が李斯に下した診断は、李斯の最も厳しい現実をえぐり出すものであった。



