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十二 胡亥即位(1)

(カテゴリ:103宦官の章

李斯は、逡巡して言った。

「少し、、、考えさせてくれ。」
「なりませぬ!」
趙高は、李斯が即断を避けるために時間を得ようとするのを、すかさず拒絶した。
李斯は、趙高に言った。
「私は、丞相であるぞ!帝国の百官郡県を、指揮する立場にあるのだ。このような重大事が、簡単に判断できるかっ!」
趙高は、ぴしゃりと答えた。
「丞相に任命したのは、皇帝陛下であらせられるぞ!そして、皇帝陛下はもはや居られぬ!閣下とこの臣との差は、もはや存在しないのである!」
彼の言ったことは、真実であった。
始皇帝の死によって、秦帝国の権力の秩序は、今の瞬間空白であった。
任命した始皇帝がこの世を去った以上、丞相の李斯も中車府令の趙高も、その位は無効である。趙高は、それを指摘したのであった。この空白は、必ず誰かが埋めることになる。趙高は、先手を打って空白を埋めることを、李斯に強要していたのであった― 公子胡亥を、二世皇帝に上せることによって。
趙高は、詔を李斯の前に突き出して、言った。
「ただ、存在するのは、この遺詔のみ― この遺詔だけが、帝国の針路を決定することができるのである。そして遺詔は、二世皇帝を公子胡亥となすように命じているのだ!」
公子胡亥。
李斯は、彼のことを趙高同様に、ほとんど評価していなかった。ただの、少しばかり頭の良いだけで中身の無い公子だとおおむね判断していた。だからこれまで、彼は公子胡亥のことを気にも留めていなかったのが、正直なところであった。
趙高は、李斯に言った。
「、、、公子胡亥は、賢明なお方です。法刑に明るく、亡き陛下が敷いた道を受け継ぐのに、これほどふさわしいお方はおられません。」
「、、、」
李斯は、答えなかった。
趙高は、続けた。
「、、、少なくとも公子胡亥は、法刑の大事さを知っておられます。それゆえ、亡き陛下のお側に仕えることを許されたのです。だが公子扶蘇は、儒家の説などを弄んでおります。表面の善にとらわれ、真の政治とは何かを知りません。ゆえに、亡き陛下から疎まれて遠ざけられたのです。もし扶蘇が即位すれば、法家の革命は全て終わるでしょう。革命を終わらせないためには、扶蘇を位に就けてはなりません。もはや公子胡亥以外に、選択肢はないのです。公子胡亥の下でならば、閣下は変わらず丞相の位を保たれるでありましょう。閣下は韓非と共に法家理論を集大成なされた、秦帝国の師です。踏み留まって公子胡亥と共に歩まれる道を、どうかお選びなさいませ、、、」
李斯は、もはや一刻の躊躇もならないことを、実感した。
このまま、公子扶蘇が即位することを黙って傍観して、自分と始皇帝が築いた全ての事業が逆転していくことを、甘んじて受けるべきであろうか。
それとも、この趙高の陰謀をあえて受けて、自分の地位を守るべきであろうか。
李斯は、天を仰ぎたい気分になった。
趙高は、李斯が無言であり続けるのを見て、もう一押しが必要であると思った。
彼は、李斯に言った。
「―『安ハ危トナルベク、危ハ安トナルベシ』。丞相閣下ともあろうお方が、この危急の時に逡巡なさるとは、情けなし!今は、先手を打つことこそが肝要なのです。自らを安泰となすことをまずもって為さなければ、一瞬の逡巡が全てを無に帰すことになるでしょう。安危の分かれ目をよく判断できないようでは、智者とは言えません。丞相は、この場に及んで何をためらわれる?」
趙高の弁は、ますます冴えた。彼は、これまでずっと隠していた才能を、今や縦横に発揮させていた。
しかしながら、李斯はぼそりと答えた。
「― 正道ではない。おそらく天は、許さぬであろう。」
趙高は、李斯の言葉を聞いて、ますます上機嫌となった。
「なに?何と、おっしゃったのか?」
趙高は、李斯に聞いた。
李斯は、言った。
「― 天道に外れたことをすれば、咎を受けるものだ、、、かつての晋の献公を見よ。斉の桓公を見よ。いずれも強盛の君主であったのに、生前に太子の継承をねじ曲げたために、国は長年の争いとなって栄光は空しいものとなった。殷の紂王を見よ。王は誰よりも力がありながら、正道に外れた道を行ったために遂に社稷を空しくした。人間の法がないところには、人間の法を越えた天の法があるのかもしれぬ。今回のことは、あまりにも邪道ではないか、、、」
それを聞いて、趙高はけたたましい声で哄笑した。
「天!天ですか!あなたは、そんなものを信じているのか!これは、笑わせるわ!」
趙高は、韓非と共に法家思想を作り上げた李斯の今さらの弱気に、高笑いした。
彼は、李斯に言った。
「法家思想の泰斗であるあなたが、なんと天などを信じているのですか!この世を動かすのは、力のみではありませんか。そこまで見切ったからこそ、国家は愚か者どもの非難など気にすることもなく、どんな事業でもできるのではなかったのですか!法さえあれば、国家を動かすことができるのです。それは、あなたの持論ではありませんか!どこに、天がある?どこに、天の力などが見える?― そんなものは、ぜんぶ嘘だ!嘘だ!丞相!理論に勝手な嘘を付け加えてごまかすのは、いい加減になされい!それは、ご自身への裏切りと申すものですぞっ!、、、いや、失礼。出すぎたことを申しました。しかしながら、もはやどんなにお考えになったところで、もはや選択の余地はないのです。このまま、進みなさいませ。禍を転じて、福に変えるのです。どうせこの機会を見送れば、丞相には禍しかありえません。それならば、前に進む機会に賭けられるより他は、ございません。丞相ともあろうお方が、こんな所で蒙恬ごときに蹴落とされて終わるのは、あまりに勿体無くなくございます。よろしく公子胡亥を、二世皇帝にお付けなさいなせ。丞相さえお味方すれば、全ては上首尾に進むことでしょう、、、」

李斯は、趙高が熱弁をまくしたてて帰った後に、丞相の室に一人座っていた。
彼は、暗いままの室内で、一人言った。
「この身を乱世に投じて、二十有余年― 死に場所を、俺は失った。韓非よ、俺を笑うがよい、、、」

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章