趙高は、公子胡亥の客人を使者として、上郡にいる扶蘇と蒙恬に向けて詔を送った。始皇帝の名の下に、彼ら二名に自殺を命じる詔であった。
皇帝の詔は、咸陽の御史に回して正式の文書として下達するのが通例であった。しかしここで趙高は手回しよく、通常の手続きを省略して火急の下達の方法を採用した。すなわち沙丘から上郡に対して使者を急派して、直接皇帝から家臣に下達する緊急手段を取ったのであった。
(咸陽にこの詔を回せば、居残りの大臣や官吏どもの知るところとなる。そうすれば、蒙恬の与党どもが、騒ぎ始めるに決まっている。特に、今咸陽に戻っている上卿の蒙毅が必ず先手を打とうとするであろう、、、だが、そうはさせぬ。)
趙高は、全てを計算していた。
始皇帝の遺骸は、轀輬車(おんりょうしゃ)に入れられたままとなった。それから、巡幸の一行はにわかに沙丘を発った。全ての以降の行程を中止して、咸陽に帰ることとなった。もちろん、始皇帝は未だに生きていることとして、偽られた。趙高は、中車府令としてあたかも始皇帝が生きているかのように、車の中に出入りしては中の皇帝の世話をするふりを続けた。日が経つほどに、車の中から臭気が漂ってきた。しかし、趙高はそれでも演技をいっこう変えずに、車に出入りし続けた。そのうち、皇帝の車の周囲に着き従う扈従(こじゅう)の車ごとに、一石の鹹(しお)漬けの魚が乗せられるようになった。理由は、一切説明されることはなかった。残暑の季節に、巡幸の列はものすごい臭気に取り付かれながら西へ向って行った。
「臭え!、、、なんて、臭えんだ!」
公子胡亥は、趙高に言われて今日も轀輬車に出入りする演技をやり終えて来た。その彼は、室に戻ってたまらず声を上げた。
「大きなお声を、お出しになられぬように、、、」
横に控えていた趙高が、胡亥に言った。
全ての用意が終わるまでは、始皇帝が生きているように見せかけなければならなかった。公子胡亥もまた、趙高の教えるがままに始皇帝の生前どおりに仕える演技を続けた。肉が腐敗する鼻を付く臭気と、取っても取っても周囲に群がり集まって来る無数の蝿どもを耐えて、胡亥はようやく自分の室に戻って来たのであった。
趙高は、胡亥に言った。
「もうしばらくの、我慢でございます。扶蘇と蒙恬が片づいたことを確認したら、一気に咸陽への道を急ぎますので、、、」
胡亥が趙高から始皇帝の崩御を聞かされたのは、翌日のことであった。事前のことは、一切胡亥の知るところではなかった。胡亥は、趙高から二世皇帝になるべき運命が待っていることを告げられた。胡亥は仰天し、しばらくものも言えなかった。しかし、胡亥の反応は丞相の李斯よりも、よほどに抵抗は少なかった。物心ついたときから側に仕える趙高の言葉は、胡亥にとって自分の口から出た言葉とほとんど区別が付かなかった。それで、彼は趙高に全てを一任することに、すぐ同意した。
残暑の熱気が籠る室には、胡亥と趙高だけであった。
胡亥は、汗を拭きながら趙高に言った。
「― お前は、昔言ったな、、、」
彼は、これまで生きていて片時も離れることがなかった宦官を、横目でちらりと見た。
彼は、だがしばらく言葉を中断して、沈黙した。汗を丁寧に拭き終わった後、彼は趙高に問うた。
「お前は言ったな。皇帝の位とは、何をしても許されると、、、本当なのか?」
彼は、汗を拭いていた布を、片手で握りつぶした。
趙高は、答えた。
「― その通りです。」
胡亥は、さらに手に力を入れて、言った。
「その、つ、つまり、、、余は、これから全てが許されるので、あるか?そうなのか?」
趙高は、答えた。
「― その通りです。お覚悟を、、、」
胡亥は、趙高の方を向いた。始皇帝に似て、しかも始皇帝よりも目鼻の筋はさらに美しい顔立ちであった。二十を過ぎたばかりのこの青年は、これまで目立った活動を何もしてこなかった。その彼が今、全てが許される権力を握ろうとしていた。間近に迫ったその現実は、今の彼にとって想像の範囲を超えていた。彼の顔には、再び汗が吹き出していた。
「全てが許されるのかっ!、、、ど、ど、どんな凄いことを、してやろうか?」
胡亥の顔は、嬉しいのか恐ろしいのか、それとも酔っ払ってでもいるのか分からないような、左右不均衡に引きつった顔となった。美しい顔が、台無しであった。
「事はまだ、進んでいる最中です。軽挙なさらぬように、、、」
趙高は、無表情のままで興奮しかけた青年に言った。
その頃、上郡の公子扶蘇と蒙恬将軍のもとに、詔を持った使者が届いていた。
詔を読んだ蒙恬は、思わず使者に叫んだ。
「そんなばかな!これは、何かの間違いであろう!」
蒙恬は、あわてて横にいる扶蘇の方を向いた。
扶蘇は、顔面蒼白であった。細かく振えながら、やがて下を向いた。
蒙恬は、言った。
「公子っ!いま一度、陛下の真意を確かめましょう!こんな詔は、臣はとうてい納得がいきません!」
しかし、扶蘇は下を向いたままであった。やがて、すすり泣きを始めた。彼は、涙声で言った。
「やはり、陛下は私を不肖の子としてお怒りになられたのか、、、私は、とうてい陛下の御意に沿う公子とは、なれそうにない。何と悲しいことよ、、、」
扶蘇は、父帝に比べれば確かに常識的な人間であった。だが、始皇帝の命に背けるほどの自立心のある男ではなかった。始皇帝の政策に批判的な態度を取り続けていると目されていたが、彼は自分の周りに集まってくる党派たちから常に圧迫感を感じていた。彼は強大な父帝の影におびえ、政治的闘争の陰惨を厭う繊細な人間であった。それゆえ、父帝から下されたという詔の命令に、彼は抗う力を出すことすらできなかった。
蒙恬は、上ずった声で、うめいた。
「公子っ、、、この上郡には、三十万の兵があり、、、三十万の兵は、たとえ陛下といえども、、、」
扶蘇は、言った。
「やめよ!もう乱は、たくさんだ!、、、少し、一人にさせてくれ。」
そう言って、彼は奥に下がっていった。
蒙恬がしばらくして扶蘇のところに行ったとき、彼はすでに剣で咽を突いて死んでいた。
「やんぬるかな!」
蒙恬は、天を仰いだ。
残された蒙恬は、捕えられて関中の獄に厳重に閉じ込められた。
扶蘇と蒙恬は、こうしてあっけなく亡ぼされた。趙高の、完勝であった。



