二世皇帝の即位から明けて翌年の春、先年に続いて巡幸がまたも行なわれた。
始皇帝が建てた各地の刻石を訪れ、二世皇帝の名により追刻を行なっていった。始皇帝が始めた石碑に文字を追加して飾ることにより、後継者としての正当性を刻みつけようとしたのであった。
丞相の李斯は、二世皇帝の巡幸に付き従った。追刻の文書は、李斯が起草した。
皇帝曰ク、金石ノ刻文ハ、盡(コトゴト)ク始皇帝ノ為ス所ナリ。今、襲号(しゅうごう)シテ而(シカル)ニ金石ノ刻辞ガ始皇帝ト称セザレバ、其レ久遠ニ於イテ後嗣ノ如キト之ヲ為サン。成功盛徳ヲ称サズ。丞相臣斯、臣去疾、御史大夫臣徳、昧死シテ言(もう)ス。臣請ウ、具(つぶさ)ニ詔書ヲ刻石ニ刻ミテ、因ヲ明白ニセン。臣、昧死シテ請ウト。制シテ曰ク、可ナリト。
海を臨む刻石の前で、丞相李斯は追刻の文面を恭しく読み上げた。
彼の後ろには、百官が立ち並んでいた。
二世皇帝の胡亥は、李斯の隣にいた。この巡幸は、彼が発案したものであった。先帝と同じことを自分も皇帝としてやってみたいと思って、年が明けると早々に東に出向くことに決めた。今皇帝として海に臨んでいる彼の表情からは、巡幸にどのような印象を持っているのかはうかがい知ることができなかった。胡亥は、家臣たちに特に声を掛けることもなく、立ちすくんでいた。あるいは、もうすでに長旅に飽きてしまったのかもしれない。
李斯は、横にいる若い後継者を横目で見ながら、思った。
(この男じたいには、何一つ期待できないであろう。先帝とは、比べものにならない。この男にはできるだけ何もさせず、先帝の代で打ち立てた事業をそのまま続けさせなければならない。どうせ、大して智恵も胆力もない男だ。我ら重臣が周囲を固めれば、大それたことなどできはしない、、、)
李斯は、このように思っていた。それは、胡亥という若者そのものへの観察としては、ほぼ間違っていなかった。
だがしかし、このとき李斯は二つの点を見誤っていた。
一つは、胡亥にはもう一つの半身というべきものがあった。趙高であった。そして、その趙高の秘める暗黒は、李斯の想像の届かないところであった。彼は、法家思想を奉じて冷徹に人間の本性を見極めることに努力した政治家であった。だが、彼は人間がどれほど暗黒の面を持っているかについて、まだ十分に知らなかった。
そしてもう一つは、人民の動きであった。秦が六国を滅ぼし統一帝国を作ったことによって、天下の人民は全く新しい様相を示し始めていた。これまでの王侯貴族による人民の分断的支配が一掃され、しかも相次ぐ徴発によって人民が郷里を離れて流動化したことによって、予想もできない動きが天下に生ずる可能性が、蓄積されていた。それは、このときすでに爆発する寸前であった。
このときの李斯は、確かに人間というものを見誤っていた。李斯は、趙高ごとき簡単に排除できると思っていた。そして、帝国の危機をそれほどまでに切迫したものであると感じていなかった。無理もないことであった。李斯は、人間の暗黒を理解するには、彼ですら常識的でありすぎた。そして、歴史上かつてない天下の動きなどは、どんな智者にも事前に予測のできないものであった。
巡幸を終えた皇帝の一行は、咸陽に帰っていった。これが、秦帝国の皇帝が行なった最後の巡幸であった。
趙高は、郎中令の身分となっても、二世皇帝の後宮に出入りすることを許された。
二世皇帝の胡亥は、趙高の言葉なしには何もできなかった。趙高は、幼少の頃からずっと胡亥の目であり耳であり、そして口であった。胡亥にとって、趙高はもはや身体の一部であり、生活の前提であった。だから、後宮に出入りさせることにも何の痛痒も感じなかった。趙高は、宦官なのである。
趙高は、二世皇帝の籠る後宮に、参り越した。
奥から、胡亥がやって来た。
趙高は、胡亥に言上した。
「― 公子将閭ほか三名の公子が、獄において自殺しました。これで、全ての公子の処刑が、無事終わりました。」
胡亥は、言った。
「― 殺したか!全て、殺したか!」
彼は、趙高の前で素裸であった。趙高の前では、彼は羞恥心というものを感じることがなかった。
趙高は、言った。
「これも、韓非の薦めることでございました。君主の兄弟というものは、君主の肉親であるがゆえに国家の権威を分有し、『勢』を分裂させる元凶でございます。ゆえに、明主はこれをことごとく除かなければなりません。陛下の非情のご決断、まことに賞賛に値いたします。」
先に自殺した長子の扶蘇に続いて、二世皇帝は残った始皇帝の公子たちをことごとく誅殺することに決めた。
胡亥は、韓非の教科書どおりに事を進めることに、何のためらいも持たなかった。皇帝と『勢』を争う恐れのある存在には、非情の粛清あるのみであった。ましてや胡亥はあやしげな手続きで二世皇帝に即位したために、暴力を発動して地位を安泰にするべしという趙高の薦めを、もっともなことだと受け入れた。即位してから半年が過ぎていたが、これまで彼がやりおおせたことは、このような殺戮ぐらいであった。想像力の足りない彼は、自分の絶対権力を用いる道をいろいろと夢想してみても、結局先帝の行なった事業を越えることを何一つ考え出すことができなかった。それは、彼にとって不愉快であった。その不愉快を紛らわせるために、彼は自分の兄弟を殺すようなつまらない殺戮を行って、先帝に復讐しているような気分になって興奮していた。
趙高の前の胡亥は、うきうきと楽しそうであった。快楽の限りをむさぼり、一切の制約から束縛されて、毎日放縦な生活に身を任せていた。体力だけは、若い彼の取り得であったように見えた。
胡亥は、趙高に申し付けた。
「阿房宮は、建設を続行せよ。先帝が、途中まで行なった事業だ。早いうちに、完成させてしまえ。」
趙高は、かしこまって答えた。
「御意の、ままに。未完の囿宛(ゆうえん。鳥獣を飼う御苑)の建設は、いかがいたしますか?」
胡亥は、言った。
「それも、早急に作れ。強力の士を万と集め、これまで誰もやらなかったような皇帝の狩猟を行なうのだ。先帝はあまり狩猟を好まなかったが、朕は大々的に行なうこととする。」
趙高は、さらにかしこまって答えた。
「御意の、ままに―」
趙高は、胡亥の思うがままにさせた。胡亥という青年の考え付くことは、趙高にとって全て予測の範囲内のことであった。彼の精神を作り上げたのは、趙高であった。ゆえに、趙高の言葉は全て二世皇帝によってそのまま受け入れられ、しかも皇帝はそれを趙高から受け取った言葉であると感じていなかった。全ては、趙高の思うがままであった。しかし、まだ趙高は自らの力を完全には用いていなかった。
胡亥は、目の前にかしこまる趙高を見降ろしていた。
胡亥の彼に対する感情は。信愛でもなければ尊敬でもなかった。全くの、自分の手足か皮膚のようなものであった。胡亥は、彼に人格を感じていなかった。彼は、趙高に言った。
「― 郎中令。」
「はい。」
「、、、お前は、先帝の寝所に毎夜仕えていたのであろう。」
「確かに。」
「先帝は― どうであったか?この、朕に較べて。」
胡亥は、何も身に付けない姿で、趙高に聞いた。
趙高は、全く臆することもなく、胡亥を見ていた。
趙高は、言った。
「― 先帝は、陛下よりもよほどに貧弱でございました。」
それを聞いた胡亥は、嬉しさに飛び上がって喜んだ。
彼は、はしゃいで言った。
「― そうか!そうか!父は、貧弱であったか!」
趙高は、答えた。
「確かに。」
「貧弱か!この朕よりも!はははは!ははははははは!」
胡亥は、周りに誰もいないかのように、後宮の一室を飛び跳ねて踊り狂った。
「始皇帝などは、しょせんは貧弱な奴だわ!は!は!は!」
勝ち誇った雄叫びが、外に聞こえるほどに鳴り響いた。
― 第三章 宦官の章・完



