孫子兵法に、曰く。
― 善く人を戦わしむるの勢い、円石を千尋の山に転ずるが如くなる者は、勢なり ―(兵勢篇)
大きな歴史の事件は、ごく些細な突発的事故から始まる場合が多い。
初まりは地方の小さな事故にすぎなかったはずのものが、時代が大きく前に進むべき条件がたまたま揃っていたときに、次々に増幅して共鳴を起こしていく。そうして、当初には誰にも予測ができなかったほどの巨大なうねりとなって、同時代の人々を巻き込んでいくのである。
一九一四年六月二八日にサライェヴォで響き渡った銃声は、ハプスブルク帝国とセルビアの局地的な対立に過ぎなかった。ビスマルク流の外交的明察をもってすれば、あるいは二国間の何がしかの調停で、大事になる前に緊張は回避できたかもしれない。しかし、そうはならなかった。
すでに、欧州大陸は二つの陣営に分かれて、第一次世界大戦を行なうべき条件下にあった。ドイツは、己の軍事力に自負を持って、全ての隣国を侮っていた。ドイツの軍事的解決を望む展望は、同民族の支配するオーストリアを助けて隣国と一戦するという決断へと、政府の首脳部を急旋回させていった。同様にロシアもまた、同じスラブ民族のセルビアを助けるという名目で、直ちに動員を行なった。もとより戦争で外交を解決する衝動の強いツアーリズムのロシアを抑止することができる手腕を持った政治家は、この時代にいなかった。ドイツは、戦争をする決意をした以上は、参謀本部の計画そのままに西部戦線に押し出した。フランスは、すでに国力でドイツに圧倒されていて、それがまたドイツの好戦的予測を下支えする要因であった。しかしイギリスは、結局大陸に覇権国を作らないという伝統的国策を捨てることがなかった。こうして、西部戦線はドイツ対英仏の衝突となった。軍事が軍事を呼び、国民は開戦に熱狂して外交は忘れられた。雪崩のように、当時の全ての列強が戦争に加わった。
しかしながら、莫大な火力を集中する戦争が重化学工業によって可能となっていたにも関わらず、頭の中の戦術は十九世紀と変わらなかった。歩兵が自らの足で前に進んでいって、会戦して敵陣を占領する。このナポレオン以来の戦術から、各国は一歩も進んでいなかった。その結果は、大兵力同士が会戦して空前の規模の死傷者が出るにもかかわらず、前線の動きはきわめて遅々としたものとなった。ドイツ軍は、緒戦からパリ寸前のマルヌ河畔より先に進撃することができなかった。歩兵に頼った行軍では、一日数十キロ進んでしかも敵の広大な全正面を同時制圧することなど、しょせんは無理なのであった。英仏連合軍はドイツの初動を止めたものの、機動的な反撃を行なう手段を持たなかった。
こうして、サライェヴォの銃声は長期の全面戦争となり、欧州の体制は根本から覆った。ドイツ帝国は倒れ、ハプスブルク帝国とオスマン帝国は解体し、その上伏流していた社会主義運動までが前面に出る機会を得て、ロシアでボルシェヴィキ革命が成功することとなった。
一九三一年九月十八日夜の柳条湖事件に始まる満州事変は、当初日本政府の計画した国策でも何でもなかった。石原莞爾などの関東軍将校が、一部の政財界の暗黙的支援を受けて行なった冒険的征服計画であった。戦術的な観点から見て、張学良の満州軍がわずかな関東軍の兵でも十分に初動の占領を行なえるほどに弱体であることを見抜いていた関東軍の首脳が、それならばと事を起こした。彼らが持っていたのはおおまかな征服の青写真と当初段階の占領の見込みだけであって、本気で満州を植民地化するためには日本政府を動員する必要があった。政府にとって関東軍の動きは青天の霹靂であって、もしかしたら政府の措置しだいによっては、柳条湖事件はただの一部海外駐留軍の火遊びでもみ消されたかもしれない。
しかしながら、歴史は結局そうはならなかった。政府閣議は翌日諸外国からの反響を恐れて不拡大方針を決めたものの、三日後の二十一日には朝鮮軍が林銑十郎司令官の独断で越境して満州に入り、関東軍の支援に入った。そして翌日の閣議では、出たものは仕方がないと若槻内閣は経費支出を承認してしまったのである。統帥権を干犯された昭和天皇もまた、軍の行動に事後的に承認を与えることとなった。こうして九月二十四日には満州の軍事行動を自衛のためとする政府声明が出され、わずかのうちに満州事変は日本の国策となったのであった。
短期間に関東軍の謀略が国策に成り上がった背景には、この頃の日本には中国での権益を何としてでも死守するという固定観念が、政治家・財界・軍部の間に広く共有されていたことがあった。日露戦争以来、日本は政策も経済も中国大陸への傾斜を強めていった。遅れて帝国主義列強の仲間入りをした日本にとって、儲けの出る唯一の海外地域は、中国大陸であった。日本は辛亥革命以降の四分五裂の中国大陸において、満州軍閥の張作霖を支持して地域的な影響力を確保しようと努力した。分裂した中国は、日本が大陸に地域的支配を及ぼすのに利益があった。ゆえに、国民党が南から中国を統一しようと北伐を起こしたときに、日本は度々介入して北上を妨害しようとした(第一~三次山東出兵、一九二七―二八)。田中義一内閣のときに行なわれたこの大陸介入は、外国の分裂状態を武力で維持しようとする試みであった。満州事変に先立つこの時期に、すでに日本の対中国政策は武力を用いてでも権益確保の政策を追及する方向に、向かい始めていた。権益を死守するという固定観念があり、しかもその目的追求の手段として武力を用いるという傾向は、満州事変以前にすでに始まっていたものであった。
武力の面だけから見れば、確かに中国軍は日本軍に較べて弱体そのものであった。その後の十五年戦争において、日本軍が中国軍に対してほとんど敗北というものを知らなかったことから見ても、それは明らかであった。その彼我の軍事的な強弱の差が、日本をますます武力に頼る方向に傾斜させた。満州事変は、武力の観点から対中国政策を解決しようとする日本の傾向を、明らかに表に出した事件であった。その傾向は、外交を置き去りにして軍事でさらに局面を進める事態を続出させた。政治家も軍部の長老たちも、一度始まった勢いに結局は追随するばかりであった。そうして、軍事的な勝利がかえって中国大陸全体への展望を失わせた。さらには、一方的な中国の軍事占領は、米国の対日不信感を決定的にして対立を余儀なくされるという、致命的な結果をもたらすこととなった。そして日本には、やはり武力で米国と一か八かの戦争を行なって活路を見出すという選択肢しか、残らなかったのであった。
その歴史を生きた当事者たちにとっては、魔物に憑かれたようなものであっただろう。まさか、このようなことになるとは誰も思わなかったし望みもしなかったことであろう。しかし、歴史はこのようなときに容赦もなく進んでいくものなのである。まことに、歴史の中に伏在するのは、『勢』である。『勢』が伏在しているとき、わずかのきっかけは円石が千尋の山に転ずるが如くに、大きく育っていく。その結果は、以前の歴史が全く覆ることにならざるをえない。
二千二百年前の古代中国においても、その『勢』を伏在させていた時期があった。そして、きっかけとなる事件が、ごくごくささいな地方的な反乱として起ろうとしていた。



