陳勝たちは、このとき大沢郷の小さな亭に逗留していた。亭は小さな宿舎で、屯長の陳勝と呉広に、それと県から派遣されていた監視の将尉だけが屋根つきの部屋に泊まることができた。残りの九百人の戍卒は、亭の外で野営であった。
雨はようやく止み、湿った夜気が野営地の周囲に充満していた。
周囲は深い藪で、夜になれば狐の巣であった。今夜もまた、どこからか狐どもの鳴き声が聞こえてきた。
あっちから聞こえてきたかと思えば、すぐ近くの藪からも声が聞こえてきた。兵たちは、夜には何もすることがないので、獣の声を考えもせずにずっと聞いていた。
そのうち、鳴き声の一つが、調子が乱れて何やら節を付けているように聞こえてきた。繰り返し聞いていると、兵たちにはこのように鳴いているように感じられた。
― 大楚興、陳勝王
兵たちは、ささやき合って怪しんだ。そのうち、鳴き声はやんだ。兵たちは、不審の思いを頭に残しながら、眠りに就いた。
翌日、漁師が沢で取れた魚を一隊に売りに来た。行軍中に釜を煮て調理をするのも、兵たちの役目であった。割烹の上手な者が、大きな魚を捌こうとして刀で腹を割いた。すると、腹の中から布きれが一枚出てきた。開いてみると、朱で何かが書かれてあった。兵の中でも数少ない文字の読める者が解読すると、書かれていたのはこの三文字であった。
「陳勝王」
昨晩の狐の鳴き声と、魚の腹の文字は一致していた。兵たちは、ますます驚いた。陳勝とは、自分たちを率いている屯長の親方のことではないか。彼らは、陳勝に注目した。
次の夜も、狐の不思議な鳴き声が聞こえてきた。今度は、古びた祠(ほこら)の裏から聞こえてきた。大楚が興って、陳勝が王となる。兵たちは、この不思議を驚き恐れた。彼らは郷里から引き離され、想像を超えた果ての土地にこれから送り込まれようとしていた。全ての者たちは、いまこれから先の不安と恐怖と、そしてどうにもならないという諦念の中にあった。その彼らの中に現れた不思議は、兵たちの恐れをいや増しに増した。
次の朝見ると、明らかに兵たちの表情に変化があった。陳勝が兵たちの前に現れると、一斉に驚いて注目した。たちまち、あちらこちらで横の兵とささやき合う姿が見られた。その陳勝は、特に以前と変わりもしない風であった。しかし、横にいた呉広は、ちらちらとせわしなく陳勝の方を向いては、兵たちの方に向き直って両者を見比べていた。
陳勝は、その後呉広と二人になって、彼に言った。
「― 上首尾だ。お前の狐の芸と、俺の漁師への工作で、兵たちは完全に信じ込んでいる。」
「渉兄。あなたは、まことに大したお人だ!、、、で、いつ決行するのですか?」
「今夜。」
呉広は、驚いた。
「今夜、いきなり!」
陳勝は、言った。
「決めたからには、ぐずぐずしても何の得もない。これから、俺は明日出発するという名目で、県の将尉を酒宴に誘う。呉広、お前は兵たちに信頼されている。お前は、兵たちを語らって、酒宴の場に出席させろ。その後は、こうするのだ、、、」
陳勝は、すばやく呉広に耳打ちした。
夕刻、陳勝は県の将尉たちを誘って、酒宴を開いた。呉広は、兵たち全員を語らって、酒宴の場に出席させた。
雨はようやく止んで、晩夏の夕日が目にまぶしい頃であった。陳勝は、二人の将尉に酒を勧めて、大いに酔わせた。呉広もまた、将尉の前にいて酒を共にした。
将尉が酔った頃、呉広は言った。
「私は、屯長など放り出して逃げたい。」
将尉の一人が、酔った勢いで怒った。
「逃亡は、謀反の大罪であるぞ!許されぬ。」
呉広は、かまわず続けた。
「このままでは、期限に間に合わず斬られるだけだ。斬られるならば、逃げた方がいいだろうが。」
もう一人の将尉が、あわてて口を出した。
「だめだ!だめだ!余の管轄内で、逃亡は許さぬ!、、、逃げるならば、県の外に行ってやれ!」
これが、彼らの本音であった。管轄内で逃亡を許せば、処罰されるのは自分たち監視の者であった。
呉広は、言った。
「いや。ここで逃げる。どこで逃げたって、私にとっては同じことだからな。ははは。」
将尉は、ついに激高した。
「許さん!許さん!許さんぞ!」
彼は、立ち上がって笞(むち)を持った。
将尉は、その笞でとうとう呉広を殴り付けた。彼は、憤って呉広に言葉を撤回するように、怒鳴りつけた。
呉広はしかし、打たれても首を振って答えなかった。
将尉は、さらに呉広を笞で打ちのめした。
信頼されている呉広が将尉たちに笞打たれているのを見て、兵たちはざわめき立った。皆が将尉の暴力に悪感情を懐いたが、恐れて何も言い出すことができなかった。誰もが、回りを見回して眉をひそめるばかりであった。
呉広が全く反省の態度を見せないので、ついに将尉の片方が剣を抜いた。
呉広は、剣の光を見るや否や、うずくまっていた姿勢からいきなり将尉に飛び掛った。
彼は将尉から剣を奪い取って、一気に斬り付けた。将尉は、うめきながらよろけた。しかし、致命の傷ではなかった。
その後ろから、もう一本の剣が将尉にとどめを差した。陳勝の剣であった。陳勝は、呉広が動いた時を見計らって、ひるんだもう一人の将尉に襲い掛かって剣を奪った。そうして、直ちに呉広に加勢したのであった。
「もう一人も、倒せ!諸君、押さえつけろ!」
陳勝は、兵たちに叫んだ。
兵たちは、一斉に立ち上がった。
恐怖する残りの一人の将尉は、たちまち取り囲まれた。
陳勝は、彼の前に出て、剣で滅多切りにした。
殺されたのは、秦帝国の組織の末端であった。これが、始まりであった。



