居並ぶ兵たちの前に、陳勝は立った。
「今だから、明かそう―」
彼は、荘重に言葉を切り出した。まるで、これまでとは別人のようであった。横にいた呉広は、この男にこれほどの威厳があったことが、不思議でならなかった。兵たちといえば、もはや陳勝に完全に魅入られているかのように、物音一つ立てずに言葉を待った。
「私は、実は始皇帝の長子の、扶蘇である。暴虐なる二世皇帝に追われ、今まで身を隠していた。そして、この横にいる者は、楚の将軍項燕である。流浪の私をかくまい、これまで行動を共にして来た。」
兵たちは、目を見張って仰天した。彼らは、楚の人間たちであった。楚が滅亡したときに最後まで王を守って死んだ項燕将軍の名前は、亡楚の遺民ならば知らぬ者はいなかった。その項燕が、秦の公子扶蘇と共に彼らの目の前にいると言うのである。あまりの大きな話に、兵たちはにわかに事情を飲み込むことができなかった。全員ただ、目の前の陳勝いや扶蘇の顔を、見つめるばかりであった。
陳勝は、兵どもに言った。
「諸君らは、雨に会ってすでに期限に遅れている。期限に遅れれば、斬罪となる。たとえ斬罪から免れても、辺境の戍卒とは十人のうち六、七人は死ぬ。男子として死ななければ、それに越したことはなかろう。しかし、諸君らは、このままでは死ぬのだ。どうせ死ぬならば、男子として大きな名を挙げてみよ。
― 世の王侯、将軍、宰相などは、生まれつきではないぞ!(王侯将相、イズクンゾ種アランヤ!)
諸君らも、やってみろ!いざ我らに、着いて来い!」
高らかな、宣言であった。
始皇帝が、六国を亡ぼして古い王侯貴族どもを一掃したとき、天下は皇帝の下に人民がいるたった二つの階層だけが残された。このとき、全ての者に機会さえあればどこまでも高位が開けてくるはずの展望が生まれた。陳勝のこの有名な宣言は、始皇帝が始めた革命の精神を、正しく受け継いだものであった。受け継いだ陳勝は、しかし今や秦の秩序に挑戦しようとしていた。
「、、、」
これまで、聞いたこともない新しい言葉であった。九百名の兵たちは、しんと静まり返った。
「、、、従いましょう!」
一人の兵が、言った。
「従いましょう!従いましょう!」
二人目の声、三人目の声が、続いた。
「従いましょう!従いましょう!従いましょう!」
声は次々と増幅していき、ついに全員の声となった。
誰かが、興奮して上着を絡げ、右の片肌を脱いだ。これは、右袒(うたん)と言う身振りであった。人が強い承認を表すとき、片肌を脱ぐ。衣服を着けることを正しい礼儀とみなす大陸人が肌を衆目で見せることは、逆に強烈な意思表示なのである。一人が右袒すると、次々に続いていった。九百名の隊は、陳勝の言葉に火を付けられて、集団の意義を一新したのであった。
直ちに祭壇が、設けられた。かつて諸侯が行なった結盟の儀式が、この頃には庶民ですら行なうようになったのである。秩序に叛いた秘密結社を、幇(パン)という。幇を起こすときに結盟の儀式を行なうことは、この時代以降大陸人にとってお決まりの習俗となっていく。祭壇に、斬った二人の将尉の首が、供えられた。男たちは、右肩を肌脱ぎにしたままで、従った。
陳勝は、扶蘇となって自ら将軍を任じた。
彼は、日の暮れようとしている広漠たる野で、高らかに宣言した。
「これより、国号を大楚とする!」
楚の、復活であった。男たちは、大楚の言葉を聞いて、天を突くように沸き返った。
呉広は、項燕となって都尉に任じられた。彼は、陳勝の行なった奇跡に、夢のように追随していた。本来温厚な彼までもが、今は興奮してあの流行りの戯れ歌を叫んだ。
「― たとえ三戸と雖(いえど)も、秦を滅ぼすものは、必ず楚ならん!、、、この言葉を、忘れるな!」
呉広の言葉に、全員が「おう!」と答えた。
陳勝は、言った。
「これより、周囲の役所を攻める!兵と武器を奪い、秦の官吏を殺すのだ!」
彼の顔は、夕日に当てられて炎のように輝いていた。追い詰められて見せた陳勝の一連の芸は、こうして鮮やかな収穫を得た。陳勝が、このような言葉を繰り出すことができたのは、まさに彼の生涯の最高の瞬間であった。彼は、この瞬間に火花を散らしたことによって、そのことだけで栄光への道を掴んだのであった。
直ちに、大沢郷が襲撃された。そこで兵を収め、次には城市の攻略が始まった。まず、すぐそばにあった蘄(き)という城市の攻撃に、取り掛かった。蘄は、あっけなく陥落した。それから葛嬰という者に命じて、兵を率いて周辺の城市を攻略させた。銍(ちつ)・酇(さん)・苦(こ)・柘(しゃ)・譙(しょう)といった城市が、次々に陥落していった。扶蘇が項燕を引き連れて兵を上げたという怪しげな噂は、どんどん広がっていった。一月も経たない間に、陳郡の郡役所がある陳の城市に向かった。ここはかつて楚が一時的に都を置いたところであり、陳勝や呉広の郷里に近い一大拠点であった。彼らは、郡役所を奪って一郡をまるごと支配下に置こうとしたのであった。陳の城下に到ったときには、その軍勢は『史記』の記述によると、
― 車六、七百乗。騎千余。兵卒数万人。
という巨大なものとなっていた。これを、陳勝らは蜂起からごくわずかの間に略取したのであった。誰の予想をもはるかに越える、大収穫であった。
どうしてこのような成功が、可能であったのだろうか?
理由は、二つであろう。
一つは、すでに各地の城市ではこの頃秦に対する蜂起の機運が、みなぎっていた。各城市を横行する悪少年たちは、何かあれば直ちに騒ぎを起こすことに、躊躇しなかった。陳勝の兵が近づけば、城市の秩序は彼らによって内側から崩れ去った。城市の父老たちも、秦の官吏に従うよりは、蜂起の状況に追随した。一つの城市で秦の官吏が殺されたことが伝われば、周辺の城市もまた嬉々として同じことを行なった。こうして、初めは大した勢力でなかった陳勝軍に、我も我もと従う地域が増えていったのであった。
もう一つは、秦軍の組織に致命的な不備があった。
始皇帝は、六国を亡ぼした征服者であった。古今の征服者は、征服地に対して容赦ない武力を用いて統治するのが常であった。例えばローマ帝国は、占領地を属州として本国と対等の権利を認めず、ローマ軍団を送り込んで力で統治した。それが、征服帝国にとって当たり前の統治のやり方であった。
だが、始皇帝は征服した六国に対して、秦本国と全く同じ制度を適用した。それは、征服者としては、被征服地に対する驚くべき恩情であった。始皇帝は、被征服地も本国と同様に、法を用いて一律に統治しようとしたのであった。それは、天下の全てを皇帝が等しく支配するという、彼の理想の表れであった。
だが、そのために被征服地の組織が、抑圧の道具としては極めて脆弱な装置と化してしまった。秦人から成る精鋭軍は、北辺の警備や咸陽の守備などにもっぱら回されて、征服された旧六国の郡県に配置された軍は、指揮官を除いて現地採用の兵卒ばかりであった。いわば征服地を、征服者の軍隊をもって支配せずに現地の警察的な組織で支配していたのであった。これでは、ひとたび反乱が起これば、それを断固として粉砕する軍隊を用意することが、各地の郡県には難しかった。イギリスもまた、インドを現地人のシパーヒー(セポイ)を用いて支配していたために、大反乱を起こされて一時は支配すら危うくなったことである。だが秦帝国が征服した旧六国は、イギリスとインドなどとは違って、征服者と被征服者との民度はほとんど同じであった。征服された土地の者どもは、反乱が起これば速やかに秦の組織を乗っ取って、自前のものとして操る能力を持っていたのである。
陳の城市は、郡守も県令も逃げてしまっていた。代わりに、郡守配下の守丞が兵を指揮して、陳勝の軍に対して防戦した。だが、すでに勝敗は明らかであった。城市を守る兵たちは、旧楚の民であった。彼らは秦帝国に徴発され、秦帝国の法の恐怖によってようやく規律が保たれていた。今や、その帝国の力の根拠が怪しくなり始めたのである。兵たちが『勢』のゆらいだ秦帝国の命令に従うことは、もはや難しかった。
陳は陥落し、守丞は死んだ。陳勝軍は、郡役所をまるごと手に入れた。
数日して、陳勝は城市の三老(秦帝国によって任命された、郷里の教化の役目を担う父老たち)と豪傑を集めて、今後のことを計った。彼らは、陳勝に言った。
「将軍は、堅甲をまとって鋭器を執り、無道を伐って暴秦を誅し、楚の社稷を復興しました。その功績は、王となるべきです。」
陳勝は、彼らの薦めを容れた。
やぶれかぶれの蜂起から指折り数えるだけの月日で、彼は即位して王となった。国号は、楚にさらに「張」の字を付けて、「張楚」とされた。大楚は復興するどころかさらに拡張して、秦すらも呑み込んでしまおうという含意であった。
もはや彼は、扶蘇を名乗る必要もなくなった。彼は、陳勝として王に即位し、陳王と呼ばれるようになった。



