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四 龍虎を待つ(1)

(カテゴリ:104動乱の章

陳からはるか東の、下邳の城市。

泗水流域の旧楚の城市にも、蜂起の情報はすでに伝わっていた。挙兵から一月経った八月の頃には、蜂起の首謀者である陳勝が、張楚を国号として王に即位したという知らせが飛び込んで来た。
しかしほぼ同じ時期に、南の九江郡でも楚王が即位したという話が入ってきた。これは、実は葛嬰が勝手に擁立した王であった。
それどころか、東の東海郡では、秦嘉という者が大司馬に就任して、郡守のいる郯(たん)を攻めて各地に号令しているという話まで聞こえて来た。
各地から入ってくる情報は、支離滅裂で混沌としていた。とにかく、大変なことが起っているらしい。しかし、あまりの事態の伸展の速さに、人士は戸惑うばかりであった。いったいこれは、ようやく始まった反秦復楚の運動の始まりなのであろうか。ならば、わが城市もまた呼応して蜂起するべきなのであろうか?
下邳の張良の屋敷には、城市の者たちが入れ替わり立ち替わり詰め掛けていた。
この城市で核となる人物は、張良しかいなかった。かつて父老たちが博浪沙での襲撃に失敗したこの男を認めて密かにかくまって以来、彼こそがいざ天下に事が起これば城市の命運を託するべき首領であることは、衆目の一致するところであった。周囲の城市の中には悪少年たちが蜂起して混乱を起こし、父老たちがやむなく状況に追随するところもあった。しかし、この下邳においては、そのような無計画な動きは一切見られなかった。住民たちは、陳勝の蜂起の情報が伝わって以来、老いも若きもこの張良の屋敷に赴いて彼の指示を仰ごうとした。
彼は、これまでの偽名の韓簫子を捨てて、秦の反逆者である張良子房に戻っていた。すでに、下邳の住民は秦の統制を離れて動き始めている。ここに到っては、秦の官吏の目などに気兼ねなどをしている場合ではない。下邳の官吏は、すでに張良に手出しをできなかった。彼らすら、逃げるべきか城市の住民に呼応するべきか、裏で二つに割れてささやき合っていた。
張良に従う娘の陳麗花が、屋敷にやってくる人々を出迎えた。
彼女は、韓の宰相の子であった張良が始皇帝を暗殺するために流浪の旅に出て以来、ずっと彼に仕え続けて来た。韓が滅ぼされたとき、彼女はまだ生まれたばかりであった。張家の使用人であった父と共に、張良と旅を共にした。それから、もう二十一年が経っていた。今始皇帝は死に、恐るべき混乱が起こり始めていた。だが麗花は、この先どんなことがあろうとも、主人の張良と行動を共にする決意であった。
張良は、面会に来た人々に言った。
「張楚の陳王が即位したと思ったら、今度は南でも楚王が現れ、東でも号令する者が出て来ました。これはおそらく、各地の勢力がてんでばらばらに蜂起しているに違いありません。この下邳は、小さな城市です。最も大きな勢力と連合して、秦から防衛することを考えなければなりません。」
一人が、言った。
「それはやはり― 陳王ですか?」
張良は、答えた。
「確かに彼には今、勢いがあります、、、だが、勢いに惑わされてはなりません。うかつに陳王とよしみを結べば、周囲から攻め込まれるかもしれません。おそらく北の斉でも、西の魏でも王族が蜂起を用意していることでしょう。ひとたび蜂起すれば、周囲を併合しにかかるのは力の必然です。陳王は、そのような勢力と拮抗できるだけの力を、東にまで及ぼしてくれるかどうか― 陳からこの下邳は、遠すぎます。」
もう一人が、言った。
「― それならば、いっそ先生がこの下邳の王となられるのは!」
しかし、張良は乗らなかった。
「私は、韓人です。この楚で力を得るためには、楚人を頂かなければ広い人心を得ることが、できません、、、とにかく、今後の動きは私に一存してください。」
一同が去った後、一人の男が張良の屋敷を訪ねて来た。
項伯であった。彼は張良と、長年この下邳で行動を共にしてきた間柄であった。
項伯は、張良と面会して言った。
「本日は、別れを告げに来ました。」
張良は、答えた。
「― 江東に、行かれるのですな。」
項伯は、言った。
「そうです。いよいよ始まった以上、私は一族と力を合わせなければなりません。これから、弟たちのいる呉中に向かいます。」
彼は、項梁の兄で項羽の叔父であった。項一族の中では年長者であったが、一族を率いているのは、彼より年少の項梁と項羽であった。項伯は、彼らと共に一族の悲願である秦討滅を果たそうとしているのであった。
項伯は、言った。
「下邳を率いているあなたの下を去るのは、誠に心苦しい、、、どうか、それがしの身勝手をお許し願いたい。」
張良は、言った。
「今この時に至って、進むべき道に進むのは、当たり前のことです。項梁どのは、やがて必ず一勢力となりましょう、、、あなた方が一刻も早く北上なさることを、お待ちしております。」
項伯は、返した。
「子房どのならば、行き道を誤ることはありますまい。再びお会いする時が来ることを、待ち望みます。」
二人は、共に再会を期して別れた。
項伯が去った後、張良はしばし一人で屋敷の奥の書庫に座っていた。
麗花が、湯を持って来た。
張良は、有り難く一杯を頂戴した。
「私は、このとおり体が弱い。夏の時期は、ことに五体の調節に気を付けなければならない。五体が崩れれば、精神も破れる。今は、身心を崩してはならない時だからな。」
麗花は、言った。
「― 城市の者たちは皆、公子が直ちに立たれることを心待ちにしています― なぜ、静かにしておられるのですか?」
張良は、彼女に微笑んだ。
「― 良い薬を得たので、心静かなためだよ。」
そうして彼は、懐から一枚の書簡を取り出した。
麗花は、彼から渡されて、その文面を見た。

陳王は、遠くに兵を送り、近くに人を寄せ付けません。彼から離れた将は自立を企み、彼に近い者は進言すら聞かれることがありません。陳王の張楚は、崩れようとしています。もっと強い勢力を柱としなければ、危ういです。
韓信

「ああ!― 韓信さまが!」
韓信は、いま陳勝の陣営に潜り込んでいたのであった。内部から見た彼の観察は、適確であった。張良は、韓信からの情報により、陳王に代わる次の手を考えようとしていたのであった。
「陳王は、頼りにならぬ。もっと信頼できる勢力と共に、歩まなければならない。江東の項梁は、いずれ打って出るであろう。沛の劉邦は身を隠しているが、沛の城市はいまだに奴の支配下にある。奴はそのうち、姿を現すであろう、、、早く、力を付けるのだ。いずれ秦軍は、巻き返して来る!」
張良は、このとき微笑も絶えて、真剣な顔となっていた。

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章