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五 天下を転がす男(1)

(カテゴリ:104動乱の章

陳勝から兵を借りて北に向かった張耳と陳餘の二名は、白馬津から河水(黄河)を渡って趙の土地に入った。

ここでも、各地で秦の秩序は急速に乱れていた。県庁のある城市では、あるいは豪傑たちが率先して県令を殺し、またある県では県令じたいが秦を裏切って土地の勢力と提携した。始皇帝の崩御からわずか一年で、北辺の趙においてすらここまで秩序が揺らいでしまった。それほど、始皇帝の威圧感は巨大であった。始皇帝の下で行なわれた法家革命によって作られた矛盾は、彼の死後に同時多発的に爆発した。そのきっかけを始めたのは、楚での陳勝の偶発的な蜂起に過ぎなかった。偶発的な蜂起が次々に蜂起を呼んで、広大な土地をものともせずに短期間で伝播していった。この現象は別の視点から見れば、それほど始皇帝の革命は天下に分け隔てなく、しかも徹底して行なわれていたという、証拠であった。
遠征軍は、趙の諸城市に向けて使者を送り、陳勝軍に降って共に秦を倒すべきことを説いた。十ほどの城市と邑が、呼応して降った。これで、数万の兵を得ることができた。張耳たちは、将軍としてとりあえず戴いている武臣という者を、これより武信君と尊称することとした。
しかし、彼らはここから向こうに進むことができなかった。
趙の大多数の城市は、楚からやって来た武信君の軍に降伏することなく、それどころか籠城して戦おうとした。
「― なぜだ!」
陳餘は、当てが外れて怒り散らした。
張耳は、陳餘に苦言を呈した。
「趙の豪傑たちは皆我らに味方する、などと豪語したお前の目論見は、過ちであったか、、、お前の言う通りに飛び出して来たが、このままでは立ち往生するばかりではないか。」
陳餘は、いら立ちを昂じらせた。
「趙人は、どうかしておるわ!どうして、反秦の義軍である我らに刃向かうのか?どうして、奴らは正義というものが、分からないのか?趙人は、揃いも揃ってうつけ者であるか?趙には、仁義の理をわきまえる智者はいないのか?いないので、あるかっ!」
だが彼こそが、戦時の人心というものを分かっていなかった。
趙人にとって秦は敵であるが、楚もまた遠い外国に過ぎなかった。
兵をもって攻め寄せてきた遠征軍は、城市や邑を守る者たちにとって無条件で信用できる勢力とは言えなかった。下手をすれば楚に征服されて、支配されるかもしれないという不安が先に立った。
この非常時に各地の城市や邑を守る土地の代表者たちは、まずもって自分たちの生命を守ることを最優先にしなければならなかった。それで遠征軍が受け入れられることがないのを見たとき、真に打つべき手は彼らを安心させることであった。遠征軍は、このとき宣伝が十分でなかった。そして土地の勢力関係を見極めて、説得するべき者に対して働きかけることをしていなかった。これらの計を作り出す軍師が、遠征軍には必要であった。しかし、現在軍を率いている陳餘も張耳も、軍師ではなかった。陳餘は弁の立つ男であったが、策略のできる頭脳は持っていなかった。
結局、遠征軍は力で攻撃する手に出た。はるかに北上して、范陽という県庁のある城市に押し寄せた。しかし范陽は、固く守って降伏しようとはしなかった。
范陽の城市の秩序は、県令がいまだに掌握していた。
城市の父老や豪傑たちが、県令にあえて手を出さないでいる結果であった。城内では周辺各地で騒乱が起り始めたことが知れ渡ると、自分たちもまた自衛のための秩序を作らなければならないことを、衆議の上で決めた。だがそうこう言っている矢先に、楚軍が白馬津を渡って遠征に来たという情報が飛び込んで来た。土地の者たちは驚いて、今ともかく防衛のための兵を指揮している県庁を攻めることに躊躇した。県令に対する敵意はあったが、城内で騒乱を起こすことにどうしても踏み切れなかった。それほどに、楚軍に対する不信感は強かった。
県令は、城門を閉じて籠城の指令を出した。しかし、遠征軍に対して有効な勝算があるわけでもなく、今後の見通しを明確に持っているわけでもなかった。よりによって自分の城市に敵軍が攻め寄せて来たことを、彼は身の不幸であると嘆かざるを得なかった。
戦闘が間近に迫る中で、県令は県庁の自室にこもって、鬱鬱としていた。
「どうやって、勝てばよいのか、、、余の運命は、一体どうなるのであろうか?」
そのとき、いきなり後ろから声が掛かった。
「― 死ぬでしょうなあ。」
県令は、ぎょっとして後ろを振り向いた。
彼の背後には、一人の見知らぬ男が突っ立っていた。
ずいぶんと背が高く、このとき座っていた県令は、見下ろされているようであった。
顔立ちは青白く、目はまるでどこに焦点を合わせているのか分からなかった。県令に声を掛けはしたが、おそらくその目は県令を見ていなかった。
県令は、男を大声で怒鳴り付けた。
「だ、誰だ、貴様は!、、、誰に許可あって、ここに入って来た!」
男は、言った。
「― 官吏にそれがしの知り合いがおりまして、通してもらいました。それが、ここにいる理由です。」
男は、この范陽の出身であった。それで、知り合いの官吏に無理を言って、県令の部屋に乗り込んだのであった。彼は、一度言い出したら決して引かなかった。
「范陽が危機に陥っているので戻って来たら、県令のあなたが今まさに死のうとしておられる。あまりの無策に憐れみを覚えて、こうしてここにまかり越したのです。― あ、申し遅れました。それがしは、蒯通(かいとう)と申す者です。」
県令は、この異様な男に死ぬだろうと予言されて、しかし言い返すことができなかった。彼が今後に何の策も持ち合わせていないことは、男の言うとおりであった。
県令は、蒯通に真面目に聞いた。
「― なぜ、お前は私が死ぬと言うのか?」
蒯通は、答えた。
「― これまであなたの威令が県内に行き渡っていたのは、ただただ秦の法があったからだけです。今、秦の秩序はあやしくなり、秦の法への恨みは住民に積み重なっています。城内の悪少年どもは、あなたを殺したいと切歯扼腕している状態です。そして楚軍は、秦の県令であるあなたの首を刎ねることを望んでいます。あなたは、前面と背後に敵を抱えているのです。これで生き残れる法がありましょうか?あなたは後ろから刺されるか、前から咽を掻き切られるか。このままではそれだけが、あなたに有り得る将来です。」
県令は、青ざめて言った。
「で、、、では、やはり死ぬのか?余は、死ぬのであるか?」
蒯通は、県令に迫った。
「― それがしの策を用いれば、あなたの命は助かりましょう。死ぬか、生きるか。さあどちらを、お選びになられますか?」
県令は、もはやなりふり構わず彼の言葉に飛び付いた。
「用いよう!お前の策を、用いようではないか!、、、どうすると、言うのか?」
蒯通は、言った。
「― 二つの不信が、拮抗しているのです。あなたの地位を利用して、この間を取り成すのです。そうすれば、攻める側と守る側、それにあなたの三者の命が助かるというもの、、、簡単な仕組みです。」

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章