項梁は、陳勝と呉広が自ら扶蘇と項燕と名乗って蜂起した知らせを聞いて、舌打ちをした。
「― あつかましい、奴らだ!」
始皇帝が崩御して以降、挙兵の機会をうかがい続けてきた彼であった。だが、先んじられた気がした。項燕という名前が楚人にもたらす宣伝効果は、彼らによって覿面(てきめん)であることが証明された。だが、使ったのは自分とは別の奴らであった。ことここに至れば、江東の兵をまとめて自らも早く蜂起に参加しなければならない。項梁は、郡の権力を握る機会を狙っていた。
そうこうしているうちに、郡守の殷通から、郡役所に出頭するように申し付けて来た。
項梁は、項羽を呼んだ。
「これから、郡役所に向かう。お前も、付いて来い。」
項羽は、言った。
「敵地の、真っ只中ですね。」
項梁は、言った。
「― そうだな。」
項羽は、以前郡守の殷通の前で秦との決別を宣言した。むろん、それ以来彼は郡役所に行くことなどはなかった。
郡役所に着いた二人に、出迎えの官吏が言った。
「ここから先は、項氏お一人で郡守と会見願いたい。随従のお方は、ここで待機願います。」
項羽は、眉をひそめた。
しかし、項梁は言った。
「ならば、行かずばなるまい。籍よ、ここで待機せよ。」
彼は、ここが勝負の時だと思った。今日一日が乗るか逸るかとなるであろうと、予感した。(― 今日を切り抜けられないようでは、大秦に勝てぬわい。)
項梁は、きっぱりと郡主の官邸に入って行った。
郡守の殷通が、満面の笑顔で項梁を迎えた。
「よく来られた。さ、席にお着きなされ。」
項梁は一礼して、言われるままに席に座して殷通に向かった。この江東に来てからずっと、互いに便宜を図り合って来た二人であった。項梁は土地の顔として殷通に統治の実績を与え、いっぽう殷通は前科者である項梁を庇護した。互いの肚の中を見せない、同盟関係であった。
項梁は、聞いた。
「― 本日は、何のお呼びでございましょうか?」
殷通は、答えた。
「決まっておろう。蜂起の、打ち合わせであるよ。」
郡守の身でありながら、彼はさらりと答えた。
鼻白んだ項梁に、殷通は続けて言った。
「江水(長江)の向こうは、全て秦に背いた。反乱の火は、今やとどまる所を知らぬ。これは、天が秦を滅ぼそうとしているのであろう。先んずれば人を制し、遅れれば人に制せられるという。この会稽郡も、反秦の軍を挙げなければならぬ。その軍の指揮を、貴公に任せたいと思うのだよ、、、どうだ、引き受けてくれるであろう?貴公は、楚の項燕の末裔ではないか。」
項梁は、この秦の高官のあっさりとした造反の言葉を聞いて、その真意を疑った。
(― 罠におびき寄せて、俺を殺すつもりではないか?)
郡守といえば、秦の地方の役職の頂点である。彼の地位より上の官吏など、秦帝国にはそれほどいない。それが、秦を裏切って自ら江東の王になろうと言うのか。これは、怪しい。いや、高官だからこそ、このようなことを企むのか。自分に与えられた仮の権力が大きいから、いざとなればその権力を本当に自分のものにしようと、思い立つのかもしれない。
殷通は、思っていた。
(土地の実力者は、味方にするか、殺すかだ―)
彼は、少なくともこの項梁の首さえ刎ねれば、江東であえて反乱できる者などいないことを見抜いていた。陳勝の蜂起は急速であったが、まだ情勢はどちらに転ぶか混沌としていた。彼が掴んでいた咸陽の現状では、二世皇帝は趙高に取り込まれて耳目を塞がれており、丞相の李斯は皇帝に目通りすることすらできないという。その趙高は、自分の権力拡張に熱心なばかりで、現在の大反乱すら軽視しているというのである。ここしばらくの秦政府の対応のまずさは、そのような事情が背景にあった。
殷通は、自らの政治的な勘によって、この江東を我が資産として両天秤を掛ける絵を描いていた。もし陳勝がこのまま勝てば、勝ち馬に乗って反秦に参戦する。だがもし陳勝が敗れれば、北上して背後から反乱軍に攻めかかり、得点を稼ぐ。それが、彼の目論見であった。項梁は、江東の人心を得るために一時的にでも味方としなければならなかった。だがもし味方になることを拒めば、そのときは殺すのみであった。
項梁は、しばし熟考した。
そして、このときは受ける以外にないと、思った。受けなければ、この場で殺されるだろう。
項梁は、言った。
「― つつしんで、お受けいたしましょう、、、」
殷通は、彼の受諾の言葉を聞いて、哄笑した。
「そうか!そうか!、、、これで、江東は我らがものぞ!」
殷通は、目論見が当って上機嫌であった。彼は、項梁に言った。
「貴公が軍を統べるとなれば、今どこぞに逐電している桓楚も、安心して帰ってこれようぞ。貴公と彼を、並んで江東の将軍に任じようと思っておる。」
殷通が桓楚を将軍にしようと言うのは、項梁への牽制に間違いなかった。桓楚は、項羽と仲が良いと言っても、生粋の郡の軍官なのである。郡守の命には、逆らえない。
このとき、項梁に一計が浮かんだ。
彼は、殷通に言った。
「ならば、さっそく桓楚を呼び戻さなければ、なりません。幸いなことに、桓楚は我が甥の籍と連絡を取っているようです。籍に命じて、桓楚を召還させましょうぞ。」
殷通は、機嫌よく彼の提案を受けてしまった。項梁は、退席して甥のところに向かった。
項梁が官邸から出て来たのを見て、項羽は安堵した。
「よくぞ、お戻りで―」
項羽は、破顔した。
笑った彼の表情は、いまだに少年の初々しさをそのまま残していた。一度笑い掛けられれば、誰もが惹き付けられる魅力のある、美顔であった。
項梁は、甥に耳打ちした。
「その美顔を、鬼に変えろ― 付いて来い。」
項羽は、叔父の言葉の意味を、あらかた理解した。
二人は、並んで再び邸内に入って行った。




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