殷通の前に、項羽が現れた。
以前、殷通の屋敷で項羽が狼の目を見せたとき、殷通はその尋常ならざる殺気のためにすくみ上がったものであった。しかし今日再び顔を見せたこの若者の態度は、怒りも知らぬように落ち着き払っていた。この不思議なほどに美しい大男は、確かに武将としての優秀な資質を備えていた。
殷通は、自分の計が成ったことを喜んで、項羽という存在の本質を忘れた。この男が、いったい自分に飼い慣らせる獣であるのかという問いを、頭に浮かべることがなかった。それで、彼は項羽に対して桓楚を呼び出すように申し付けた。
「なに、奴を処罰などせぬわ。今は、兵をまとめる将が必要なのだ。項籍、お前も今後は江東軍の武将として、叔父と共に働くがよいぞ。」
笑顔で話し掛ける郡守を見て、項梁は思った。
頃合は、よし。
彼は、項羽の方を振り向いて、言った。
「― 行く可(べ)しっ!」
項羽が、跳ね飛んだ。
次の瞬間、郡守の首は、胴体と離れていた。
「俺に誰も近寄らせるなっ、籍!」
項梁は、叫んだ。
彼らの周囲には、官吏たちが十数人取り巻いていた。全員、あまりの一瞬の出来事に、剣を抜いて撃ちかかることができない。項羽は、彼らを狼の目で睨み付けた。官吏たちは、震え上がって後じさりした。
項梁は、首が離れた殷通の胴体から、郡守の印綬の入った袋を引きちぎった。
そして、みずから印綬を手に持って、高らかに宣言した。
「郡守の権は、天の帰すべきところに帰す!これより、この項梁が会稽郡守の任を受け持つこととする!郡の百官どもは、よろしくこの項梁の指揮に従うべし!」
殷通の手の者たちが、異変を聞いて殺到して来た。
項羽は、邸内に進入して来た者たちを、一人づつ撃殺していった。ものすごい、腕力であった。手にした剣を振り払うだけで、男たちは遠くに吹っ飛んでいった。彼の精密な剣先の術は、郡守の首を一瞬で叩き斬った。今や、大人数の襲撃に対しては、武器を力で用いることによって敵をなぎ倒していった。叔父から学んだ剣術は途中で投げ出した彼であったが、学ばずとも彼の剣は自らの力に合わせた秘術を会得していた。わずかの時間で、敵の数十人が郡守と道連れとなった。
項梁は、青ざめて声も出せない官吏たちに対して、命じた。
「郡の全ての官吏を、郡役所の庭前に集合させよ!一人残らず、呼び集めるのだ!早く行け!」
叱咤されて、彼らは飛び出して行った。
郡役所の庭前に、郡の百官が集結した。
彼らの前に、項梁と項羽がいた。
項梁は、言った。
「今や、無道の秦に対して各地で反旗がひるがえり、秦の滅亡は天が命じることと相成った。この江東の土地もまた、天の命じるところに従うべきである。これより、この項梁が会稽郡守となる。横に控える項籍は、副将である。江東諸州は官民総力を挙げて、我が指揮のもとに討秦に力を尽すべし。」
一同は、ひれ伏すより他はなかった。
項梁は、項羽に言った。
「籍。お前は、郡内の各県から子弟を募って、兵を集めよ。この私は、呉中の有力者を結集する。」
項羽は、叔父に言った。
「かしこまりました。」
項羽は、早速配下の項荘や呂馬童を集めた。
項羽は、彼らに各県を回って、土地の子弟を集めるように言った。
呂馬童は、言った。
「もはや、郡内の各県も全て反秦で一致している。我らが一声掛けるだけで、続々と集まってくるだろうよ。」
呂馬童たちは、勇躍して各県に散っていった。
彼らが戻って来たときには、八千人の子弟が付き従っていた。
この八千人こそが、今後諸国を震え上がらせることになる江東の精鋭軍の、始まりであった。
反秦の旗の下に結集した子弟たちは、呉中の郡役所前に集められた。
整列する彼らの前に、項羽が立った。
彼は、言った。
「― 皆よ、勝ちたいか!」
衆が声を一つにして、答えた。
「― 諾(おお)!」
天をもつんざく、勢いであった。項羽は、喜んだ。
「― 皆は、勝ちたい。そして、この私は、勝つ!」
項羽は、明るい顔で叫んだ。子弟たちは、一目でこの若者の魅力に引き込まれた。彼と共に戦うならば、秦軍などは何ほどでもないように、思われた。
「わあ!」
八千人の明るい歓声は、呉の城市の隅々にまで響き渡った。
その若者たちの大はしゃぎの横で、老獪な項梁は呉中の豪傑たちを組織していた。
彼は、これまでの顔見知りたちをそれぞれ校尉、候、司馬といった官職に就けていった。これらの官職は全て、軍を各段階で統括する下士官の役目であった。
ある者が、項梁から任命されることがなかった。彼は、不審に思って項梁に訴えに行った。
項梁は、彼に言った。
「君は、以前に呉中で葬儀があったときに、一方の責任者となってもらったな。」
男は、答えた。
「、、、確かに。」
項梁は、言った。
「そのとき、君は配下の者どもを十分指揮できなかったであろう。だから、官職を与えることができないのだ。」
男は、不満げに言った。
「しかし郡守どの、あの時は仕様がなかったんですよ、、、私の下にいた者たちは、私の全然知らない奴らばかりでした。もっと私と気心の知れた者たちならば、もっと首尾よくできたんですよ、、、」
項梁は、微笑んで言った。
「― 戦場の指揮は、葬儀よりも厳しいのだ。普段仲の良い者と共に働けるような機会など、戦場は与えてくれないのだぞ。君を外したのは、勝つためだ。君を憎んで、やったわけではない。」



