「勝ったぞ!沛は、我らのものだ!」
夏候嬰は、朝の城門から、劉邦の一団を迎えに街道に出て行った。
横には、同じく沛県の官吏の、任敖がいた。
呂家の次兄の、呂釋之もいた。
皆、劉邦が逃亡してからこの方、劉邦党として地下で沛の城市を固めてきた者たちであった。
今、地下の集まりは表に出て、一つの新しい政治集団と変貌しようとしていた。
夏候嬰たちは、街道の向こうからも歩いてくる一団と、合流を果たした。
呂釋之は、蕭何たちに言った。
「妹は、わが兄と共に、父老たちを従えて城門で出迎え申すでありましょう、、、ところで、劉季どのは?」
蕭何は、答えた。
「、、、周勃が呼びに行っているが、まだ戻って来ない。困ったものだ。」
せっかくの入城の日であるのに、将はまだ現場に着いていなかった。
一団は、仕様がないのでそのまま待ち呆けた。
日は、どんどん昇って行った。
ついに、昼前になった。
ようやく街道の向こうに、馬車の影が見えた。
馬車の前を、男が小走りで進んでいた。
周勃であった。
馬車の馬が真っ直ぐ走らないので、横にいて馬の手綱取りをしている様子であった。御者は、どうやら大した腕前ではなさそうであった。
やがて御者をする人物と、乗っている主人の正体が明らかとなった。
御者を仰せつかっているのは、劉邦の義弟の廬綰であった。彼は、これまで劉邦と逃亡生活を共にしていた。
そして、主人は― もと泗水の亭長、劉邦その人であった。
「廬綰、、、揺らすな、揺らすな!落ちるだろうが、ははははは!」
黄色い歓声が、聞こえてきた。彼の両の手は、女どもを侍らせるのに塞がれていた。女の供給だけは、逃亡生活中でも決して欠かさなかった劉邦であった。逃亡生活を続けている間に、彼は野生の本性がどうやらますます顕わとなったようであった。
「、、、ようやく、お帰りになったようであるな。しかし、、、あれは、、、」
一団を待つ城門で、呂家の長兄の澤が顔をこわばらせた。
彼は、横の妹を恐る恐る見た。
妹の呂雉は、笑っていた。
いや、笑っていなかった。顔が、引きつっていた。喜ぶべきを中断されて、強張らせた表情であった。夫の女遊びなどは今に始まったことではないが、目の前で見せられるのは、これが始めてであった。兄は、見て見ぬふりをすることにした。
とにもかくにも、劉邦は廬綰、周勃、樊噲、灌嬰、呂釋之、夏候嬰、任敖、それに蕭何と曹参らを引き連れて、沛の城門に入って来た。
父老たちが、劉邦を出迎えた。彼らは、劉邦が城門の前に来ると、一斉にひざまずき頓首して出迎えた。
「お待ちしておりました― 劉県令。」
劉邦は、直ちに真面目な表情を作って、頓首して返した。変わり身の早さは、相変わらずであった。
劉邦は、父老たちを立ち上がらせて、言った。
「県令とは、あまりにも話が早すぎはしませんか?、、、それがしは、もと一亭長の身分に過ぎません。」
劉邦の言葉に、父老たちは返した。
「いいえ。貴公以外に、沛県を統べる人物はおられません。貴公は、昔より秀でたお方でおられた。どうか、この沛県をその手にお取りになるよう、切にお願い致しします。」
まあ、まあ― とその場は謙遜して、劉邦は県令の申し出を辞退しておいた。大きな贈り物は、いったん辞退するのが礼儀というものであった。父老たちの信用を固めるための仕草ぐらいは、劉邦はきちんとわきまえていた。
劉邦は、妻とその兄に対面した。
「ようやく、帰って来ることができた。阿雉、お前のおかげであるぞ。」
劉邦は、呂雉に声を掛けた。
彼は、自分のいない間に彼女が一人の女傑に成長していたことなどは、知らなかった。
だが呂雉もまた、ここで私情を出すほど愚劣ではなかった。彼女は、先ほどと一転して表情を和らげ、深く拝礼して言った。
「お帰りなさいませ、、、子らも、みな息災でございます。ご安心なさいませ。」
劉邦は、妻の肩を軽く叩いて、微笑んだ。横にいた呂澤が、ようやく安心して声を立て笑った。まことに、場を作るのが上手な男であった。
劉邦はその後も何度か父老の推挙を辞退して、他の有徳者を沛の長として立てるべきだと謙遜した。
「この沛県で長とするべきならば、蕭何か曹参であろう。」
劉邦は、このように言った。しかし、この二人が今さら劉邦を差し置いて、県令の位を受けるはずがない。いくら有能であっても蕭何と曹参では、沛の子弟たちが納得するべくもなかった。周囲をじらせ意見を固めさせて、ようやく劉邦は受けた。それは、人々の野心を全て吸い上げて、自分の傘の下で動くことを承認させるために取った、彼一流の手続きであった。劉邦は沛の者たちに押し立てられて、ついに沛県の長として立った。
「― これより、沛公と称する。」
劉邦は、宣言した。もはや彼は、沛を基盤とした一つの独立した諸侯となったのであった。
沛公となった劉邦は、県庁に入った。
蕭何、曹参、夏候嬰らが後ろに従った。
沛公は、県令の官邸に陣取った。かつて亭長として官吏たちに軽く見られていた男は、今や県令に代わって官吏を統率することとなった。
沛公は、まず夏候嬰を呼び出した。
沛公は、言った。
「― ようやく、お前に報いることができる時が来た。もう俺は、沛公だからな。」
夏候嬰は、笑って答えた。
「そんなこと、結構ですよ、、、もっと大事なことが、今はあるでしょう?」
沛公は、聞かなかった。
「お前に、爵位をやろう。沛公の名で。お前は、沛公旗下の最初の爵持ちだ。」
沛公は、辞令の簡を夏候嬰に渡した。彼は、その場で七大夫に封建された。加えて、太僕(たいぼく)に任命された。太僕とは、君主の馬車を司る官職である。
夏候嬰は、沛公の辞令を、涙ながらに受け取った。
「ああ― これがあるから、俺は公に、公に、、、」
沛公は、夏候嬰に言った。
「俺の御者は、お前だ。必ず、俺に着いて来い!」
「― 必ず!」
夏候嬰は、言った。
それから、沛公は蕭何と曹参を呼んだ。
沛公は、蕭何に言った。
「お前を、沛の丞にする。県庁は、お前が統率しろ。人民を、安堵させるように気を使えよ。」
蕭何は、答えた。
「― かしこまりした。」
さらに、曹参に言った。
「― 周りを攻めた方が、よいと思うが、、、お前は、どう思う?」
曹参は、答えた。
「今は、非常の時です。攻めないと、周りから攻め込まれます。すぐに兵を募って、県の外に打って出ましょう。」
沛公は、言った。
「よし、早速やれ、、、それと、決起のために、ぱあっと儀式が必要だな。県の者たちを集めて、盛大にやろう。盛大に。」
曹参が、言った。
「― 県令の首でも、刎ねましょうか?」
県令は、父老たちが決起した際捕えられて、現在県庁の獄に放り込まれていた。
沛公は、言った。
「あー、、、県令ね、、、」
曹参は、意地悪く言った。
「門出の祝いに、血祭りに上げましょうか?」
沛公は、別に今さら県令のことなどどうでもよかったが、彼が住民に憎まれていることは計算していたので、言った。
「― あいつならば、殺しても沛の誰も悲しまない。士気を上げるのに、ちょうどよいかもな。」



