趙高が良いと言えば、二世皇帝が勅許したも同然であった。
胡亥はこの頃何も聞きたくないとばかりに、宮殿の奥で女たちと空しく笑い呆けていた。そこに、趙高が賊の憂いを追い払う策と共に、章邯を連れて来た。
趙高は、胡亥に言上した。
「丞相李斯の長男李由は、三川郡守の地位にあるも関わらず賊を函谷関より内に入れる失態を犯しました。しかしこの場に及んでも丞相は、何の策も出さずに空しく時を過しておりました。父子の怠慢は、いずれ厳しく詮議しなければなりません。ところが本日、この章少府が陛下の宸襟(しんきん)を安らかとすべき策を、献上して参りました。」
趙高は、章邯を紹介する際にも、丞相への悪印象を皇帝に植え付けることを忘れなかった。
章邯は、趙高の言葉など全く無視して、謹んで策を上奏した。
「― 阿房宮の刑徒を用いますので、しばらくの間は工事の中断となるでしょう。何とぞ、お許し願います。」
胡亥は、言った。
「― ああ、構わん、構わん。刑徒など、どうせまたすぐに集まるというものだ。さっさと片付けてしまえ。」
そう言って、胡亥はあはははは、と笑った。
かくして、将軍の印綬を与えられた章邯は、早速軍の編成に取り掛かった。
大赦を告げられた刑徒たちは、彼の予想通り沸き返っていた。章邯は、彼らに多くを説明せずに、これより近在に侵入した賊の征討のために全員兵として戦うべきことを、命じた。
「功ある者には、爵が与えられるであろう。お主たちは、名誉ある者として郷里に帰還することができるのだ。」
帰師は、遏(とど)むることなかれ。
『孫子』九変篇の、言葉である。
郷里に帰還できることを知った兵は、怒涛の勢いを得ることができる。これを迅速に用いるならば、どのような敵もその帰還への道を防ぐことができない。
章邯は、軍吏たちに命じて、刑徒たちをてきぱきと分隊に組織していった。
その手際の良さは、少府などの文官のそれではありえなかった。
章邯の仕事を見ていた丞相李斯は、怪訝に思って彼に聞いた。
「将軍、、、貴公は、一体どうして兵を知っているのか?」
章邯は、答えた。
「それがしは、かつて王翦将軍の下で軍吏を勤めていた者です。将軍と共に、幾多の戦役を経験して来ました。」
王翦将軍は、始皇帝の六国併合のために、最大の功績を立てた名将であった。
北に強力な趙の軍を破り、東しては燕王を遼東の果てまで追い詰めた。大軍を与えられれば与えられるほど、将軍の指揮はますます冴えに冴えた。
楚平定の戦役では、六十万の兵を駆って見事に広大な楚国を征服した。六十万の兵を長らく留め、にわかに動かし、長躯して敵軍を捉えて殲滅し、各地にくまなく兵を分派して楚王を虜にした。その用兵は、何一つ滞ることのない水の流れのようであった。
王翦将軍は、戦の合い間のたびに、配下の軍吏たちを集めて教育した。
彼は、軍吏たちに言った。
「わが秦軍は、もとより天下に比類なき明快かつ公正な軍法を貫いている。たとえ趙や楚の軍に多くの名将勇士があって、斉や魏の軍に豊富な物資と鋭利な武器が備わろうとも、決して秦の軍法に勝つことはできない。」
将軍の言葉を親しく聞いていた軍吏の中に、章邯がいた。将軍の兵は、駆け出しの彼にとって強烈な印象を与えた。
章邯もまた、王翦将軍のように兵を率いる将となることを、夢見ていた。だが、秦帝国の事情は、それを許さなかった。急激に拡大した帝国は、大量の官吏を必要した。多くの武官が、文官に転入された。章邯もまた、統一が完成した時に軍吏を離れた。計数に明るかった彼が転じた先は、少府配下の役所であった。間もなく彼は少府の官職を得ることになったが、官吏の生活は彼にとって長らく砂を噛むような、味気のないものであった。
その彼が、今ついに秦帝国の将軍に任じられることとなった。
章邯は、軍営で思った。
(― 王翦将軍の兵を受け継ぐのは、この私だ。秦は、六国を併合した国なのだ。もとより、その兵は天下に冠たる法を備えている。将が兵を用いれば、敗れるはずがないのだ。どうして荊舒(けいじょ)の川猿ごときに敗れることなど、ありえるだろうか?)
軍吏が、報告に来た。刑徒たちに手渡すべき武器が、足りないという。
「五万人にしか、渡すことができません。」
章邯は、答えた。
「構わん。それだけで、十分だ。」
李斯は、彼に聞いた。
「敵は、数十万だ。武器なしで、どのように戦うのか?」
章邯は、答えた。
「途中で、武器を調達すればよいのです。」
李斯は、怪訝に思った。
「― そのような武器庫が、どこにあるのか?」
章邯は、李斯の疑問に答えた。
「大きな武器庫が、あります、、、驪山陵がね。」
李斯は、その言葉にぎょっとした。章邯は、事も無げに、続けた。
「驪山の始皇帝陵の表面には、化粧石として無数の敷石が敷き詰められています。ちょうど、手に持って投げるのに適当な大きさです。行軍の途上であれに立ち寄って、各人に拾わせて戦場に行かせます。石礫を投げて、敵に当らせるのです。」
李斯は、声を高めた。
「石ごときで、戦はできるわけなかろうが、、、!」
章邯は、にこりと笑った。
「あなたは、戦争というものを分かっていない。兵の最大の武器は、鋭利な刀剣でも遠くに飛ぶ弓弩でもないのです。ただの石礫でも、法に従って整然と運用すれば、法のない敵兵を破ることができるのです、、、まあ、ご覧になられるがよい。」
全軍の編成は、成った。
「― 出撃!」
整然と、軍が東に向けて行軍していった。つい先ほどまでただの刑徒であったとは、とても思えない兵であった。李斯は、魔術を見ているような気分で、章邯の軍を見送った。



