天下のどの土地を回ってみても、みな同じように争乱の最中であった。全土を力で押さえ付けていた秩序が揺らいだとき、かくも激しい動揺が起こるのであろうか。
韓信は、陳勝軍の崩壊を見て、陳から逃亡した。
彼は、はじめて戦争の実態を目の当りにした。文献で学んだこととは、凄絶さがまるで違った。人間は、戦争の中で本当に狂ってしまう。彼の脳裏には、これまで見たこともなかった種類の人間の顔という顔がこびり付いていた。敗走を始めた兵たちの、恐怖に怯えた顔。城市を守る住民たちの、引きつった顔。取った城市になだれ込んで掠奪を始めた兵たちの、ゆがみ切った笑い顔。
韓信は、次から次へと起る戦争の渦の中で、何もできなかった。何もできずに、多くの人間が死んでいった。最後は、秦軍の来襲が必至である状勢を見て、逃げ出した。
「私一人が生き延びたところで、いったい何になるというのだ?― 役立たず!結局のところ、私は役立たずだ!」
韓信は、全てが空しくなってしまった。
彼は、郷里の淮陰のことを思った。
(林媼さんは、どうしているだろうか―?今までずっと各地を回っていて、淮陰にはずいぶん戻ったこともない。)
淮水の流れが、懐かしかった。日がな釣りなどして、林媼さんが哀れんで飯を食わせてくれた頃のことが、思い出された。あの頃の韓信は淮陰の嫌われ者として過していたが、今となっては最も楽しい時代であった。
(林家の阿梅は、どうしているだろう?― もう、年頃だよな、、、)
内気な少女の阿梅のことを思い出して、ふと心が慰められた直後に、韓信はがばと跳ね起きた。
「このままでは、楚が危ない―!秦軍は、楚の全てを亡ぼすだろう!、、、」
彼は、今打ち捨てられた邑で、夜の寒気をしのいでいた。住民は、どこかに去っていた。秦軍を、恐れて逃げたのであろうか。それとも暴徒と化した陳勝軍を、嫌ったのであろうか。あるいは、住民は軍のために徴発されて、全員邑を引き離されたのかもしれない。とにかくこの土地も、戦乱に巻き込まれるのは間近であった。
「淮陰に、帰らなくては、、、今すぐに!」
韓信は、郷里の危機を思った。
淮陰の城市は、比較的平静であった。
しかし、県令はすでにいなかった。逃げたのか、死んだのか、聞いてみても定かでなかった。
だが、それで住民の自治ができているかといえば、必ずしもそうでなかった。
不穏な噂が、外から聞こえ始めていた。
「東陽県で、県令が殺されて令史の陳嬰が推戴されたということだ。配下の少年どもは陳嬰の下で蒼頭軍と名乗って、周囲を攻略する用意をしているらしい。」
「まずいな、、、あそこの奴らは、気性が荒い。攻めて来たら、踏み付けられるぞ、、、淮陰人は、のん気者だからなあ。」
住民たちは気がかりでならなかったが、城市の行く末を導く者は、誰もいなかった。
県令がいない中で、城市を取り仕切っているのは父老たちであった。
父老たちは、久しぶりに戻って来た青年を迎えて、彼の意見を聞いていた。
「― 江東から、項梁の軍が北上して来ました。彼の軍は、楚の希望です。この淮陰は、直ちに項梁のもとに使者を送って、全面的に帰順するべきです。」
韓信は、直近の状勢を踏まえて、父老たちに進言した。
父老の一人が、聞いた。
「張楚の陳王は、もうだめなのであるか?」
韓信は、答えた。
「生死はいまだ不明ですが、すでに国は存在していません。今は、楚の中で最も有望な勢力に付いて、楚の力を結集するべき時です。淮陰が項梁の傘下に入れば、東陽の蒼頭軍とて手出しはできません。」
秦軍に蹂躙されないためには、広大な楚の各勢力が一つになって当らなければならなかった。韓信が現在の状勢を見回したとき、楚には大きな勢力が二つ残っていた。
一つは、黥布の率いる軍。黥布は、番君(はくん)という称号を持つ南方の呉芮(ごぜい)という実力者の娘を、妻としていた。黥布は、楚の南方の勢力を味方としていたのであった。彼の軍の強さは、秦の本軍を撃破したことでも証明されていた。
もう一つは、江東の項梁の軍であった。このとき項梁のところには広陵の召平という者がやって来て、召平は陳勝の名で項梁を上柱国に任命した。じつは召平はすでに陳勝が敗北した知らせを受けていて、直ちに項梁を動かすために偽りの任命を行なったのであった。項梁はこれを受けて、満を持して江を渡り北上している最中であった。
韓信は、言った。
「項梁軍の進路を空けて進ませれば、他の勢力はやがてその下に集まらざるをえません。この郷里の将来を、決してお誤りなされないように―」
韓信は、父老たちに伏して願った。
彼の里の父老もまた、韓信の前に座っていた。
彼は、郷里で生きる道を見失っていた韓信を、淮陰の外に連れ出した。彼は、韓信の才を信じていた。韓信の進言は、必ず郷里を救うであろうと、彼は思った。
父老は、韓信に言った。
「お前の言うことに、間違いはなかろう。淮陰は、項梁軍に帰順することにする。ときに、韓信― お主は、これからどうするのか?」
父老の問いに、韓信は答えた。
「私は、項梁軍に投じようと思います。楚のために、私の軍略をかの軍で生かすべきだと決意いたしました。」



