「韓さん、、、!」
彼が帰って来たのを聞いて、阿梅が媼さんの家にやって来た。
彼女は、もう昔の少女ではなかった。
今、彼女は最も美しい時期に差し掛かっていた。時の流れは誰にも等しく与えられるはずのものであったが、韓信は阿梅を見て、まるで自分がこの幾年かの間なにもしないでいたかのような衝撃を覚えた。それほどに、人は変わる。時代よりも、変わる。韓信は、輝く彼女を見てしばしの間言葉を失った。
阿梅は、韓信に言った。
「― ごめんなさい。」
韓信は、阿梅に言った。
「、、、私は、何年も淮陰の外にいて、君たちのことを忘れていた。その間に、君はこんなにも変わっていた。仕様がない、ことだよ、、、」
阿梅もまた、静かに泣き始めた。
韓信は、彼女の前で黙って座るばかりであった。
媼さんが、湯を持って来てくれた。早春の蓬(よもぎ)をわずかに煎じた香りが、すがすがしく室内に漂った。
彼女は、韓信に言った。
「王孫。あんたは、昔言っていたね― あんたは、いずれ王になるって。」
昔、韓信が言った軽口であった。やがて王になって、阿梅を嫁に取ってやろう。
媼さんは、言った。
「とうとう、こんな時代になっちまった、、、あんたはこれから、王を目指すのかい?」
今やどこでもかしこでも、男たちはむき出しの野心を見せて走り始めていた。男たちが集団で走り始めたら、手に負えなくなる。どこまで行ってしまうのが分からないのが、彼女にとってため息の出る元であった。しかしこの戻って来た韓信は、当今流行りの男たちの欲望とは、別のものを持ち続けていた。それが彼女にとって嬉しかったし、そのために彼女はこれからの彼を阿梅と共に歩ませることができないのが、残念であった。
韓信は、媼さんに答えた。
「― わからない、ね。だが、私は行かなければならない。」
彼は、思った。
(一兵卒として、行こう、、、一人で!)
彼は、淮陰の者たちから離れて、一人で戦乱の中に飛び込むことに決めた。彼には、己の地盤を率いて諸侯として立つことなど、似つかわしくなかった。兵法家として、下から戦を知って己を役立つ人材にしなければならないと、決意した。これからの楚国と、郷里のために。
韓信は、阿梅に言った。
「この戦乱は、いつ終わるかも分からない。家の人を、誤らせてはならないよ。無理に戦うぐらいならば、逃げたほうがいい。それから絶対に、野心なんかを持たせてはならない。いま乱世に飛び出て来ている奴らは、普通の人間では歯が立たないほどの強者ばかりだ。私は、恐ろしい奴らが互いに食い合うところを、もう何度も見て来た。そんなところに、家や周りの人を飛び込ませてはならないよ、、、元気で、いておくれ。必ず。」
阿梅は、答えた。
「はい、、、」
今はすれ違ってしまった二人の、別れの時であった。
媼さんは、思った。
(この子は、きっとここに帰って来る。途中で死ぬような、子じゃないさ、、、早く戦乱を、終わらせておくれ。)
韓信は、いつこの淮陰に戻って来ることができるであろうか。しかし戦乱は、まだ始まったばかりであった。
召平の誘いを受けて江水(長江)を渡った江東の精鋭たちは、年の明けた二月には一路北へ向けて進軍していた。
東陽から、陳嬰が参軍することを申し出て来た。
陳嬰は、配下の蒼頭軍に東陽の王に推戴されかけていたが、彼はいきなり王となることなどが空恐ろしかった。戸惑う彼に、母親が言った。
「このわしが陳家に嫁入りして長年になるが、お前の先祖で高位に昇った者があるなどということなど、聞いたことがないわ。それが、いきなり王になると言う。やめとけやめとけ、お前は血筋としても、本人の器としても、王になどなれるはずがない。不祥なことだ。それよりも、この東陽を手みやげにして、誰かの下に付くことを考えろ。強い奴の下に付いておれば、うまくいけば侯ぐらいに封ぜられるかもしれん。」
陳嬰は、母親の言葉をもっともだと思った。
「なるほど、そうですね。でも、もし失敗したら、、、」
母親は、笑った。
「その時でも、お前は目立たないから逃げられるって、わはははは!」
母親にこう言われたので、江東軍から連合の申し出の使者が来ると、陳嬰は軍吏たちを集めて言った。
「江東軍を率いる項梁は、楚の名族で代々将軍を出す家であった。いま決起するに当っては、やはり将にふさわしい人物を戴くべきであろう。この東陽を挙げて彼に従えば、秦を倒すこともできるだろうよ。」
彼はこのように説得して、ついに全軍を江東軍と合流させた。
項梁が淮水を渡ると、西から黥布の軍も参戦して来た。新たに参戦した黥布の軍と、蒲将軍という者が率いていた兵とを合わせて、六万から七万の兵力となった。
項梁は、全軍を集めて宣言した。
「淮陰も帰順して、淮水以南は全て我らの掌握するところとなった。だが北にいる景駒が、いまだ我らに帰順しようとしない。これよりさらに北上して景駒を討ち、楚を統一することとする。」
数万の兵の群れの中に、韓信はいた。
彼は、項梁の横に立つ、副将の姿を見た。
「項籍、、、以前、彭城で見たあの美少年は、彼であったか。」
項籍すなわち項羽は、彭城で韓信が見たときには、型破りで純情な美少年であった。今、将として立つ彼は、叔父の片腕として自信に満ち満ちた顔つきをしていた。
「江東の兵は、皆彼を軍神のごとく崇めているという。あの若さで、すでに人を魅せる将となったか。」
韓信は、いまだ見ぬ彼の実力に、好奇心を懐いた。



