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十二 七十にして立つ(1)

(カテゴリ:104動乱の章

楚の各地が、次々に動き始めた。江東でも、淮水流域でも、北の沛でも、雲のように群雄が沸き起こって独自の動きを始めた。江東の項梁は、陳勝が敗れた後の楚の器を受け継ぐために、兵を急いだ。

だが、楚の土地は広大であった。辺境に行けば、戦乱など何一つ気にせずにのん気に暮らしている人々も、少なくなかった。
居巣は、淮水のずっと南、巣湖のほとりにある城市であった。
平原に位置して水が豊富で、米を適当に作って湖水の魚を捕っていれば何不自由なく暮らせる土地であった。
生存競争の必要などない土地で、全体的に田舎臭い楚の中でも、本当の田舎であった。楚の他の土地では争乱が起こっているのに、住民はしごくのんびりしたものであった。
その田舎の居巣で一人、俺は田舎者とは違うと見栄を張って生きてきた男がいた。
范増は、これまで官職にも就くことがなく、郷里の城市で草莽のうちに暮らして来た。
書などを好んで集め、雨の日には読んで過す生活を続けながら、郷里で誇り高く生きてきた。回りの食って寝ることしか知らない田舎者たちとは違って、俺は書を好んで文明の息吹に触れている人間なのだと、見栄を張って暮らしてきた。
見栄を張ったが、こんな田舎では話相手もない。彼は、郷里の住民を心中で限りなく軽蔑しながら、住民にはちょっと面白い叟(じい)さまとして尊敬されて、気付くともう七十歳になっていた。
項梁が淮陰を収めて淮水を渡った頃の、ある日。
自分の家で、范増老人はいつもの者どもに熱弁を振るっていた。
「たとえ三戸と雖(いえど)も、秦を滅ぼすものは、必ず楚ならん、、、この言葉は、楚人ならば誰でも知っているものであった。見よ、ついに楚は秦に向けて立ち上がった。この戦いは、楚と秦との天下を賭けた決戦となるであろう。楚人であるならば、今は誰もが国のために身を捧げなければならない。」
歳は取っているが、老いて崩れることもなく、折り目正しい老人であった。
居合わせた、馴染みの男の一人が言った。
「戦となれば、また米の供出があるんですかいな、、、参りましたなあ。」
別の男が、言った。
「なに、その時には魚取って食えばいいんだ。魚は腐っちまうから、供出のしようがないからな。」
さっきの男が、答えた。
「魚だけでは、生きていけんだろうが。」
もう一人の男が、言った。
「森に入れば、栗があるわい。あらかじめ貯めておけば、そうそうひもじいことにはならん。何ごとも、智恵というものだよ。」
「森に入るんなら、羊桃(サルナシ)の実でも集めて、酒でも造るか。」
「あー、それはいいな。あれほど美味いもんはない。」
「どうせ働くなら、見返りがなけりゃやる気も出ないからな。何ごとも、智恵というもんだ。ははははは!」
こんな連中の会話を聞いて、范増老人はまたも不機嫌であった。いつもの住民たちの、いつもの態度であった。天下の風雲に思いを馳せるほどに大それた考えなど、彼らの生活には何の必要もなかった。
ついに、范増は意を決した。
彼は、居合わせた者どもに、告げた。
「私は、行く。」
男たちが、聞いた。
「便所にですか?」
「叟さまも、下のものが早くなりましたな、、、」
范増は、一喝した。
「笨蛋(ばかもん)!」

翌日。
范増老人は、旅装を調えた。
県庁から無断で調達して来た馬車に、彼は乗り込んだ。郷里の出身の若い厩司御を怒鳴りつけて、旅立つための御者とした。
彼は、思った。
(このような時代が来るとは、、、この范増、大楚国のために一肌脱がずにおられようか!)
范増は、七十年間を空しく過してきた先に、今やっと自分のなすべき使命が見えたと感じていた。これまで、自分は何かできる人間だと思い続けて、結局何もしてこなかった。そうしてとうとう、七十になってしまった。もう自分はおしまいだと、思っていた。それが、今にわかに起った天下の風雲を目の当たりにして、いても経ってもいられなくなった。彼は、自分にまだ羞恥心が残っていたことを、喜んだ。何もしないでこのまま死ぬことを恥だと思う心が、七十の彼を動かしたのであった。
見送る郷里の男たちが、口々に嘆き合った。
「この居巣にいれば、何不自由なく暮らせるというのに、、、叟さまは、あのお年で何をあせっておられるのか?」
「まことに、可愛そうなお方だ。せめて、お健やかに、、、」
彼らの嘆きなど、今の范増老人には聞く耳も持たなかった。
馬車は、のどかな田舎道を、からからと音を立てて走っていった。

項梁軍は、景駒軍と対戦するために、一路泗水に沿って北上していた。
景駒は、陳勝の敗北を聞いた秦嘉に擁立されて、楚王を名乗っていた。景駒は留(りゅう)に駐屯して、彭城の東まで兵を進めていた。
「居巣から、使者が来たと聞いたが、、、」
項梁は、陣営で軍吏に聞いた。
軍吏は、答えた。
「― それが、詳しく聞いてみると、ただの自称なだけのようです。追い返しますか?」
項梁は、しばし考えて、言った。
「いや。居巣からの人物など、これまで我が軍に投じて来たことがない。今は、楚人であるならばどんな者でも我が手元に力を集めなければならん。いいさ。通せ。」
やがて、軍吏が老人を伴って、やって来た。
「居巣の、范増と申します。項上柱国との会見が叶い、まことに身の光栄にございます。」
項梁は、彼の非常に年老いた姿を見て、思わず深々と拝礼した。
「叟(そう)のようなお方が、千里を遠しとせずに来られたとは、、、恐縮です。」

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各章アーカイブ

           
第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



終章~太平の章