下邳に向けて進む項梁軍は、城市を接収するために先遣隊を送り込んだ。
その部隊の中の一人が、城市の城壁や通りのことを、懐かしく思い出していた。
「この城門の下で、私は初めて黄生にお会いした、、、あれから、私は兵法家を目指すようになった。張子の邸宅で、私は兵法を学んだ。ずいぶん前のことのようににも思えるし、昨日のことのような気もする、、、まずは、張子のところに行かなければならない。」
彼が諸国の古戦場を回っていた間に、彼の師の黄生は去ってしまった。兄弟子の張良は、この下邳に留まり続けた。韓信は、下邳に戻ることがないままに、今の戦乱を迎えてしまった。今は、同じ兵法家として、張子と共にこの戦乱を切り拓いていかなければならない。彼は、下邳の通りを奥に進んでいった。
韓信は、項梁軍の軍中で、妙な噂を聞いていた。
彼は現在軍吏の一人として働いていたが、同輩たちが下邳を取り仕切る実力者のことについて噂するのを、横で聞いていた。
「下邳を取り仕切っているのは、張良子房だ。あの博浪沙で、始皇帝を襲った男だ。彼が生きていたというのだから、驚きであるよ。」
「― よく秦の追求を逃れて、今まで生き延びてきたなあ、、、それだけでも、恐るべき人物だ。」
韓信は、その内情をよく知っているために、口を出すこともなくにやにやとしていた。
話の輪の中の一人が、言った。
「彼が今まで秦の目をくらますことができたのには、秘密があるらしい。」
「秘密?どんな?」
「― 兵法だよ。」
「兵法か。」
「そうだ、兵法だ。彼は、博浪沙での試みに失敗した後で、黄石公という者から兵法を伝授されたという。彼は、今やその兵法を会得しているのだ。」
「大したものだな、兵法とは。」
感心する軍吏たちに対して、始めて韓信が口を開いた。
「兵法というのは、何も魔術ではないぞ。明らかに目的への道を進むための、将の技術なのだ。君たちも、学んでみると分かるよ。」
韓信に対して、軍吏の一人が言った。
「新入り。知らんくせに、生半な意見をするな。」
韓信に対して「知らない」とは大した彼の批評であったが、韓信は反論することもなく、半ば苦笑するだけであった。
にやにや笑う韓信に対して、軍吏は言った。
「張良子房が伝授された兵法は、太公兵法というのだぞ。太公望呂尚の天下取りの秘訣が書かれた、門外不出の兵法なのだ。太公望という称号は、周の太公こと文王が望んでやまなかった人材であったゆえに付けられたもので、彼は周の文王・武王の二代に仕えて軍師となり、武王の代に殷の紂王をついに牧野の決戦で亡ぼし、、、」
知っている歴史を語ろうとした彼であったが、韓信にはその話の一部が腑に落ちなかった。
「太公兵法?― なんだい、そりゃあ?」
軍吏は、得意げに言った。
「それ見ろ。知らないじゃないか。門外不出の兵法だよ。お前が知っている、はずがない。」
彼は、張良の邸宅の書庫にも入ったが、そのような名前の兵法書など聞いたことがなかった。
だが、軍の中に広まっていた下邳の張良についての噂話には、彼が黄石公から秘伝の太公兵法を伝えられたという逸話が、必ず含まれていたのであった。
これは何かあると勘付いて、韓信は張良に会ったときに太公兵法について聞いてみようと思ったのであった。
城市の奥にある張良の邸宅は、以前のままに残っていた。
「― お久しぶりで、ございます!」
麗花が、韓信を笑顔で迎えてくれた。
彼女は、もはや大人の女性の年となっていた。すでに昔の初々しさは消えて、代わりに淑やかな美しさを湛えていた。主人の張良のことを信じて共に歩んでいることだけが、全く変わりのないところであった。
「麗花。久しぶりだね― 下邳は、これから前線となる。私は、江東軍の一員として、この城市にやって来た。」
「もはや、行き着くところに行くのみでございましょう、、、時代の流れは。それより他に人が知ることは、できそうにありません。」
奥から、君子の姿が現れた。
「ようやく、再開できたね― 韓子。」
韓信は、張良の以前と変わらぬ姿を見て、にこりと返した。
「これからが、我らの動くべき時代です― 張子。」
韓信と張良は、以前と同じく書庫に入って会話していた。
韓信は、太公兵法のことについて、張良に聞いた。
「この書庫の兵法は、全て読んだつもりですが、、、まだ私が目を通していないものが、ありましたか。」
張良は、微笑んで答えた。
「何ということは、ありません。あなたの、理解の内ですよ。」
張良は、立ち上がって書庫の奥から、一巻の簡を取り出した。
「時々、来客する者に向けて、私の学んだ兵法について語ることがあるのですよ。これが、太公兵法です。もっとも、門外不出であるために、余人の前でこれを開くことは、ありません。」
韓信は、ずけずけと言った。
「― 開いてみても、よいですか?」
張良は、答えた。
「― あなたならば。」
韓信は、紐をほどいて、簡の端を開いた。
開巻劈頭に、
太公兵法 三巻
と、墨で書かれてあった。
韓信は、そのときにやりとした。
彼は、簡を一気に開いた。
「やはり、、、」
それ以降は、一個の文字も書かれていなかった。
張良は、言った。
「これから、書くのですよ― 『太公兵法』を。」
韓信は、言った。
「手の込んだ、いたずらですね。」
張良は、言った。
「軍略、ですよ。」
彼は、笑いながら韓信に説明した。
「この噂を流すことによって、二つの効果がある。一つは誰も知らない知識を私が持っていることが知れ渡れば、敵は私の用兵に対して『太公兵法』による意外の策があるのではないかと、勘ぐって混乱する。もう一つは、味方に対してです。私が未知の知識に基づいて発言しているのだと思い込ませて、私の立てた策を受け入れ易くするのです。今は一番大事な時。使える策は何でも使わなければなりません。」
智恵なき者は、この世界に秘密の知識があると勝手に憶測して、目がくらむものである。だが真の智者は、知識とは誰にでも得ることができる範囲以上のものなどありえないことを、知っている。どこででも得られる知識を、何の気なしに通り過してしまうのか。それとも、知識の山から選んで掴み、かつ自分で整理することができるのか。それが、智者と不智者を分ける、真の分水嶺であった。



