「この下邳をさらりと明け渡したのは、やはり張子もまた江東軍が楚の柱となるべきだと、見られたからなのでしょう?」
韓信の問いに、張良は答えた。
「その通りです。」
韓信は、聞いた。
「ならば、このまま項梁の下にお着きになられるのですか?」
張良は、答えた。
「いや― その前に、しておかなければならないことがある。」
韓信は、張良の思惑をすぐに推測した。
「沛の劉邦を、調略することを考えておられる―」
張良は、うなずいた。
「そうです。景駒・秦嘉ごときは潰えるべきですが、その配下の沛公軍は、強い。江東軍と沛公軍とが衝突すれば、両者ともに無傷では済まないでしょう。二頭の牛が争えば、背後にいる黒熊が隙を突いて襲い掛かり、両者は肉塊となるのです。項梁と沛公が争うことは、何としても避けなければなりません。」
章邯の指揮する秦軍が、すでに猛威を振るっているのである。
なのに、秦以外の諸国は足並み揃わず、それどころか互いに勢力範囲を広げるために戦などまでしている。これでは、秦の思う壷であった。今は、楚の勢力を大きくしなければならない。張良は、これから沛公のところに赴いて、彼に楚の大道に就くべきことを説くつもりであった。
張良は、言った。
「沛公の軍は、これまでの戦でその精強さを示しました。その上、彼は蕭何という良い民政家も従えているようです。しかし彼のそばには、戦略を立てる者がいない。沛県の向こうにある世界を見通すべき者が、いないのです。それは、彼にとって惜しい。沛公は、もっと大きくなるべき存在なのです。」
韓信は、昔彭城で劉邦の一行と会ったときのことを、思い出した。
とにかく奇妙な、人物であった。
そのくせ、底知れぬ奥深さを秘めていると予感させる、男であった。
韓信は、敬愛する張良が劉邦と結び付く図を考えると、なかなかに小気味の良いものを感じた。
韓信は、張良に言った。
「張子。では、あなたはこのまま沛公の軍師として、共に進むつもりでいるのですか?」
張良は、答えた。
「― 彼が私を受け入れれば、そうしてもよいかもしれない。だが、まだまだ秦との戦は始まったばかりです。楚の中で誰の陣営に入るかなどは、今は考えるべき時ではない。強秦と当るためには、大戦略を立てなければなりません。」
麗花が書庫に静かに入って、張良の後ろに座っていた。
張良は、間もなくこの下邳を離れることになるであろう。彼女もまた、着き従うことであろう。その赴くところ全てが風雲の只中である、主従であった。
麗花が、口を挟んだ。
「韓子― あなたは、これからどこに行かれるのですか?」
韓信は、答えた。
「私は、すでに江東軍の旗下に入っております。沛に劉邦がいるのならば、江東軍には項羽がおります。項羽は若年ですが、江東の兵たちは皆彼を仰ぎ見ております。私は、彼に非常に興味を持ちました。できれば、彼と共に兵を動かしたいと思います。」
麗花が、言った。
「項羽― 韓子が心引かれる男であるのならば、よほどの人物なのでしょう。」
韓信が、答えた。
「今、こうして戦が始まった以上は、勝つべき将だと直感した男に付くのが正しいと、私は思います。戦とは、恐ろしい。決して負けては、ならないのです。」
張良が、言った。
「我らは、共に黄生より兵法を学んだ、乱世の知を持つ者―」
張良と韓信は、向き合った。
張良は、韓信に言葉を続けた。
「― 我ら二人は、それぞれ学んだ兵法を持って、この時代になすべきことをなさなければなりません。戦が無いに越したことはありませんが、いざ乱れた天下を鎮めるためには智と力を用いることに、躊躇してはならないのです。それが、兵法の教えるところ、、、あなたも、お分かりのはず。」
張良は、韓信に師の黄生の言葉を告げた。
― 勝て。しかし、勝った後こそが、恐ろしい。
張良は、言った。
「今は、勝つことを考えるべき時代です。」
韓信は、答えた。
「黄生のお言葉、、、勝った後こそが恐ろしい、ですか。」
韓信は、無言で瞑目した。その時が、いつか来るのであろうか。



