張良は、配下の一同を連れて、下邳を離れた。
表向きは、楚王景駒に投じると称していた。
しかし、張良は真っ直ぐに沛公のもとに赴いた。
「― 下邳の、張良?、、、博浪沙の、張子房か!」
博浪沙の張良の名前は、沛公もまたよく知っているところであった。彼が楚に潜伏しているという情報は、彼も以前から聞いていた。しかし、これまで二人は出会う機会を逸していた。その二人は、ついに会見することとなった。
「張良子房で、ございます。沛公には、始めてお目にかかります。」
沛公は、張良の君子然とした涼やかな表情に、嘆息の声を漏らした。
「ほう、、、俺は、博浪沙の男のことを、もっと化け物のような勇士だと思っていたが、、、これは、驚いたよ。全く、女性のようではないか。」
沛公は、人物に対して正直な印象を述べる男であった。これによって人を怒らせることもあるが、それも彼の持ち味のうちであった。彼は張良に女性のようだと言ったが、別に侮りの気持ちを含めているわけではなかった。しかし、張良にとってはずいぶん失礼な言葉であった。
張良は、今は彼の批評などを受け流した。
彼は、沛公に言った。
「それがし、いささか学んだ兵法をもって、沛公のためにお役に立てようと思い馳せ参じました。今は、公にとって乗るか反るかの大事な時です。どうか、それがしを陣営にお留めください。」
張良は、美顔を沛公に向けて上げた。
沛公は、言った。
「見事だ。張子房、、、まさに、見事な男だ。」
沛公は、喜んでいた。まるで、美女を見ているかのような、表情のほころびであった。
「女どころか男にまでも、美人に弱い。まあ見境のないお方だ、、、」
夏候嬰が、後ろでにやにやと笑いながら、小声で横の近習の男に言った。沛公お気に入りの義弟の廬綰であった。彼は、旗上げ後も変わらず、義兄のそばに常に付き従うことを許されていた。
廬綰は、少しむっとした。
「― なぜ、私に言うのだ。」
夏候嬰は、言った。
「いや、、、何も?」
こうして張良は、沛公の陣営に留まることとなった。
それからしばらく後、彭城の東で江東軍と楚王軍とが、激突した。
項羽は、精鋭の兵を率いて、自ら先陣を切って敵兵に突入していった。
将が先頭に立った突撃などは、敵にとって常識破りのものであった。
「弩兵などは、正面にしか弓を撃つことができぬ、、、直ちに、側面から突入だ!」
項羽は、兵たちに怒号した。雷鳴のような、音声であった。その声に味方は奮い立ち、敵は恐れおののいた。正面に展開した弩兵は、錐をもみ込むような横殴りの突撃を食らって、たちまち陣を崩した。
「副将を、死なすな、、、行け!」
敵がひるんだ頃合を見て、時は良しと黥布の部隊が総攻めに移った。
黥布の率いる南楚の兵は、野鼠のように動作が機敏であった。戦場ではいったん火を点けたならば、その強さは誰にも止めることができなかった。しかし性は気紛れで、持続的な用兵には不向きの者たちであった。これらの兵を統率して士気を維持するには、並の人物では足りない。有体に言えば、神威を思わせる外見が必要であった。ひときわ目立つ巨体でしかも顔に黥(いれずみ)を入れた異相の黥布は、彼らを率いるのに最も適確な人物であった。
黥布の攻撃を受けた楚王軍は、もはや陣形を持続させることができなかった。
「沛公の軍は、何をしているのかっ!、、、どこに、行きおった!」
秦嘉は、戦場でうなった。
側面から押し出すべき沛公軍は、戦場に現れなかった。
張良の献策を容れて、楚王を見限ることに決めたのであった。
結局のところ楚王軍は、大敗した。秦嘉はいったん胡陵に逃げてもう一度引き返して戦ったが、一日で敗れた。秦嘉は敗軍の中で落命し、楚王景駒は魏に亡命していった。
江東軍は、楚王の勢力を一掃した。楚の統一は、成ったのである。
項梁は、全軍の将として彭城に入城した。
後ろに従うのは、黥布。
謀士の范増も、従っていた。
蒲将軍、呂臣、陳嬰といった者たちも、項梁と共にあった。
范増が、項梁に言った。
「景駒の残党の朱鶏石と余樊君が、降伏を申し出て来ました、、、決して、降って来る者を拒まれますな。」
項梁は、答えた。
「楚人同士で、そのような争いを続けている場合ではないわ、、、速やかに、力をまとめ上げなければならん。沛公の軍は、どうしているか?」
范増は、言った。
「沛公はすでに我らに内応して、兵を動かしませんでした。彼らもすぐに、降って来るでしょう。」
項梁は、言った。
「秦軍は、間近にまで迫っている。新しい楚の体制作りを、急がなければならぬ。」
項梁は、張良子房が動いて沛公を戦わずして寝返らせたことに、安堵していた。
項梁は、強兵を率いる沛公についての情報を聞いて、降れば必ず戦力となるであろうことを期待した。
(聞けば、元はただの亭長だったというではないか、、、そのような人物も、一軍の長として出てくるものであるのか。乱世であるな。)
項梁は、物思いにふけりながら、広大な彭城の通りを進軍していた。
横から、彼に声が掛かった。
「梁。籍は、どこに行ったのだ?」
声を掛けたのは、項梁の兄の項伯であった。
彼はもと張良と共に下邳に潜伏していたが、項梁たちの旗上げと共に、項氏の一員として彼らのもとに合流していた。
項梁は、兄に答えた。
「どこぞに、行っておりますわ― この城市の、知った女のところに。この彭城に我らが留まるのは、今日を限りですからな。」
項梁は、甥の行動に苦笑した。



