「― 遅かったね。」
虞美人の邸宅に馬を走らせた項羽を待っていたのは、以前と何一つ変わらない彼女の姿であった。
「― 遅かった。だが、ようやくここに、来ることができました。」
項羽は馬から飛び降りて、門前に立つ彼女に言った。
虞美人は、わざと不機嫌な目つきをして、項羽に言った。
「大騒動が始まってから、この彭城も水盆をひっくり返したような有様だよ、、、毎日が危なくって、しようがない。よくもこの私を、今まで放っておいたもんだね?」
実際は、彼女は最近の大騒ぎに対して、何一つ怯えてなどいなかった。これまでの日常が崩れていくことに、彼女は未練を持つどころでなかった。虞美人は、そういう女であった。
「― 申し訳ない。」
項羽は、頭を下げて謝った。
虞美人は、きゃらきゃらと笑った。
「あなたは、なんにも変わってないね!変わってないね!」
項羽は、彼女の以前と変わらない笑顔を見て、心の底から安心した。
項羽は、虞美人を見つめた。
彼女は、始めて二人が会った時と同じ、白玉の笄(かんざし)を付けていた。彭城の外を馬で走らせた夜のことが、思い出された。
項羽は、笄に触れ、それから彼女の艶のある髪をなぜた。
(もう、何も言うことはない―)
項羽は、虞美人を抱きしめた。
しばらくの間の、無言の抱擁があった。
項羽は、彼女の髪に顔を埋めて、接吻を続けていた。
そのとき腕の中の虞美人が、言った。
「― 満足しているんじゃ、ない?、、、ひょっとして。」
項羽の、動きが止まった。
「あなたは、北辰星になって天下を動かすんでしょう?、、、まだあなたは、ちょっと戦に勝っただけじゃないの。にわか将軍なんて、この彭城に吐いて捨てるほどやって来たよ。もしあなたがそいつらと同じ男でしかないんだったら、すぐこの手を離して。そんな男は、私の仲間じゃない。」
項羽は、ゆっくりと手をほどいた。
彼は、虞美人に言った。
「私は、、、そいつらとは違います。」
虞美人は、言った。
「さあ、どうかな?」
項羽は、むきになって言った。
「違います!」
虞美人は、笑って言った。
「じゃあ、それを見せなさい。あなたの力を、もっと天下に見せてやりなさい。私に天下を贈るって言ったのは、いったい誰?、、、あなたよ。あなたならば、できる。あなたは、他の男たちとは、違うんだから!、、、秦を亡ぼすために、進むんだよ、項羽!」
虞美人は、項羽を叱咤した。
彼女の激励の声は、底抜けに明るかった。
「もちろん、、、私は、誰にも負けません!」
項羽は、強く答えた。
彼女に押されることこそが、項羽の心が望んでいたものであった。
邸宅の中で、項羽は虞美人に言った。
「私は、自分が戦の場に立ったときに、恐ろしい力が湧きあがって来るのを感じるのです。」
二人は、今日で彭城を去る項羽のために、褥(しとね)の中で枕を並べていた。
虞美人が、横の項羽に聞いた。
「戦場で、変わってしまうんだね。項羽?」
項羽は、答えた。
「ええ。自分でも信じられないほどの、力です。なのに、それが自分以外のものであるとは、思えないのです。たぶん、私は心の中に恐ろしいものを飼っているのでしょう。それが戦場で解き放たれたとき、私ははっきりと意識を保ちながら、破壊を始めるのです。戦を始めて、ようやく自分の隠されたものに気付きました。」
虞美人は、思った。
この子は、最も純粋な人間なのだ。
だから、ほとんど獣に近い本能を持っている。道学者たちの言う常識とは違って、純粋な人間とは獣に近くなる。それを、虞美人は体で感じていた。
虞美人は、項羽に言った。
「それは、あなたの天命だよ。押し留めることなんか、できはしない。」
項羽は、彼女に顔を向けた。
灰色の目は、確かに獣の目であった。白皙の美顔は、近くで見るとますます美しかった。彼の肉体の全てが、本能のままに動くことを要求している、不思議で美しい一匹の獣であった。
(この子は、止めちゃだめだ。走らせなきゃ、、、それが、この子の天命。)
虞美人は、項羽の胸に顔を埋めた。
彼女は、言った。
「あなたが思うとおりに進めば、人間たちはきっと、あなたに従うしかなくなる。それは、人より大きな魂を持って生まれた者にとって、致し方のない生き方だよ。その行き着く先がどうなるかなんかは、天に任せればいいさ、、、」
虞美人は、項羽の胸に、顔をすり付けた。
常の男であるならば、本能のままに進む男に対して、女は危ぶむ。そのような無謀な男を、虞美人はこれまで多く見て来た。
だが、この項羽に対しては、彼女は不思議なまでに無謀を感じなかった。彼には、生命としての力と智恵が備わっているように、感じられた。
項羽は、虞美人に言われて心を決めた。
心の中にある力のままに、生きるであろう。
項羽は、惜しむように虞美人の肌に手を掛けた。
彼は、項梁に命じられて、これより彭城を立つこととなっていた。秦軍を側撃するために、別働隊を率いて出撃する任務であった。これまでの敵よりもさらに強力な秦との、さらに凄絶な戦が、項羽の前に待っていた。



