対局は、終わった。
期待通り、万勝も少年の敵ではなかった。
少年は、強面の男を前に打っても、少しも乱れることがなかった。彼の後ろに、劉邦が構えていた。彼は対局中一言も口を挟まなかったが、不思議なほどに、味方に安心感を与える男であった。一時的に不利となったように見えても、少年は慌てる気配すらなかった。劉邦は流れが分からなかったが、少年の正しさを信じた。そして信じたのは、正しかった。途中から、少年の優勢はもはや動かし難いものとなっていった。
劉邦は、がっくりと肩を落とす万勝に向けて、勝ち誇って言った。
「よーし、もう参っただろう。こいつは神童だ。お前ごときでは勝てん。これからはもう、万勝なんて名前は止めるんだな。さあ、金よこせ。」
「ぐ、、、」
劉邦は、しぶしぶ出された袋一杯の金を受け取った後、半分抜き取って返してやった。
「お前も、身ぐるみ剥がされては明日も生きていけないだろう。もっと精進するんだな。天下には、上には上があるんだぞ。お前も、万勝という名前に恥じないように、もっと腕を磨けよ!」
万勝は、神妙になって頭を下げた。
(追い詰めないのが、肝心だ。これで、こいつ今後俺に頭が上がらないな、、、大もうけだ。)
劉邦は、ほくそえんだ。
劉邦は、少年を連れて外に出た。神童の少年は、これまで知らない世界を見たような気がして、とても明るい表情をしてこの遊び人に付き従っていた。
そのうち、夏候嬰と会った。項氏の一族の者が、羽という字(あざな)の少年を探しているという話を、劉邦たちに伝えた。
「項羽か。お前は?」
劉邦は、少年に聞いた。
「はい!」
少年は、答えた。
劉邦は、彼の頭をなぜて、項羽に言った。
「項羽。己の能力に、自信を持つことだ。お前には、天から与えられた才能がある。それを上手に使えば、必ず道が開けるぞ、、、ほら、お前の分だ、取っとけ。」
劉邦は、今日の金を分けて、少年の手に渡してやった。もちろん劉邦の方が分け前が大きかったのだが、そんなことはどうでもよくて、少年は見たこともない世界の大人に助けられたような気がした。
十数年前の、とある一日のことであった。
沛公は、すっかり忘れていたことを、成長した項羽を前にしてようやく思い出した。
「そうか、あのときの、項羽だな!、、、思い出した!」
項羽は、答えた。
「あの時は、とてもお世話になりました!」
項羽は、とびきりの明るい表情をした。十数年が経って少年はまれな美丈夫に成長していたが、沛公に見せた素直な笑い顔はどうしようもなく可愛らしく、昔と全く変わっていなかった。
項梁は、甥と沛公が知己であったことを、いぶかしんでいた。
項羽は、叔父に十数年前の経緯を説明した。
項梁は、話を聞いて言った。
「おお、あのときは、お前のことをずいぶんと叱ったものだ、、、なんとお前が沛公に、助けられていたとは。我らが下相に向けて落ちていく、途中のことであったな。」
項羽は、言った。
「これまで多くのことが、ありました。しかし、このお方ほど私に明るい言葉を掛けてくださった人は、ありませんでした。」
項羽は、それから再び沛公に向き直って、言った。
「まさかあなたが、こうして一人の諸侯となっていたとは夢にも思いませんでした。そしてこれから私と共に戦うとは、何という運命でしょうか!、、、共に、戦いましょう。あの時のように、私たちはきっと勝利します!」
彼は、沛公に満身の好意を持って言った。
「それにしても、見事な武将になったもんだ、、、そうだな、また勝って大儲けすることにしよう。」
沛公、項羽、それに項梁までが、大笑した。
沛公もまた、この昔と変わらない笑顔の武将に、大いに好感を持った。彼がつい先日襄城で兵を阬(あなうめ)にした残虐さを秘めているとは、今の沛公にはとても想像のできないものであった。
楚軍は、亢父から東阿に向けて出撃した。
総軍の指揮は、武信君項梁。
将として、司馬龍且、沛公劉邦、そして項羽がいた。
楚軍は、東阿に籠城する田栄と呼応して、章邯の秦軍に対して後詰決戦に挑んだ。
このとき秦軍は、戦い過ぎていた。どんな強兵でも、長らく戦を繰り返せば次第に消耗する。東阿を包囲した線までが、攻勢の限界点であった。秦軍は、楚と田栄の軍に敗れた。反秦勢力が、久しぶりに見せた勝利であった。
秦軍は、斉攻略をあきらめざるをえなかった。
章邯は、敗軍をまとめて撤退しながら、反省した。
「いけない。やはり諸国の奥に、楚が構えている。楚が健在な限り、他の国を叩いてもとどめを刺すことにならない、、、」
章邯は、思った。
(王翦将軍ならば、こんな戦況のときにどうするであろうか?―)
彼は、次の一手について、沈思黙考した。
一方。
勝利した楚軍は、意気軒昂であった。
項梁は、東阿に籠城していた諸将を招いて、会見した。
田栄の他にも、自殺した魏王咎の弟の魏豹もまた、籠城の一員であった。
項梁は、二人に言った。
「斉と魏とは、共に再興して我らと共に秦に当っていただきたい。お二方は故国に戻られて、国人と協力して反秦の兵を再び挙げられるように。」
楚は、今回の戦で秦に唯一当るべき国であることを、見せ付けた。それでも項梁は、これら他国の貴公子に対して、最大限の外交的配慮をもって説得したつもりであった。
項梁は、魏豹に対して言った。
「すでに楚王に申して、楚から魏再興のための兵をお貸しする手配をしている。貴公は、これを率いて魏に戻り、国を継がれるがよい。」
魏豹は、かしこまって了解した。
田栄が、項梁に言った。
「我らが籠城している間に、こともあろうに一部の国人どもが田假(でんか)を立てて、斉王にしおった。田角が宰相、田間が将軍を名乗って居座っている。武信君は、これをどう思うか?」
田儋が戦死したことを聞いて、斉の国人たちは直ちにもと斉王建の弟の田假を立てて、新たな斉王とした。秦軍から斉を防衛するために、国の体制を何としても継続させたのであった。だがいざ東阿が救われて田儋の従弟の田栄が復帰すると、彼の一族の勢力と新しい斉王の勢力とが相並ぶ事態となってしまった。田栄は、斉の権力を受け継ぐのは自分たちでなければならないと、このとき憤っていた。
項梁は、困って田栄に言った。
「貴国の国人が、立てた君主でありましょうが。今は、国内で揉め事をしている時期ではござらん。国内のことは、国内で治められませい。」
田栄は、ならばそうするとだけ言い残し、兵を率いて自国に戻って行った。



