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二〇 定陶の戦(1)

(カテゴリ:104動乱の章

楚軍に、急報が入った。

新手の秦軍が、出現したという。
早朝に定陶の城下に近づいた秦兵は、すでに楚軍に接近していた。
「兵数は、それほど多くない、、、包み込め!」
武信君項梁は、敵兵を観察して攻めるべしと判断した。
楚秦の両軍は、交戦した。
半刻の間に、優劣が見えた。
秦軍は、楚軍の猛攻に崩れ、後退を始めた。
勝利を重ねる楚軍には、秦兵といえどももはや敵するべくもない。楚軍は、後退を続ける秦軍を追って、前進した。
戦場は、定陶からいささかの距離を離れた土地に移った。
兵卒たちは戦闘に必死で気付かなかったが、その土地は不思議であった。
秋草が、一本残らず抜き取られていた。
地面からは、小石一つすら取り除かれていた。鏡面のように均された土地が、およそ一里四方に広がっていたのであった。
突然、退却していた秦軍が、左右に開いた。
その向こうには、人間と馬と材木と金属を規則正しく配列した、整然として鮮やかな構築物があった。
視界に現れたものは、十倍の数の秦軍であった。
これまでにない、数。
これまでにない、威容。
これが、秦の精鋭であった。楚軍は、いま六国を踏み潰した秦の本物の精鋭軍を、とつぜん目の当たりにさせられてしまった。
秦の版図に及ぶ各地から集められた、様々な顔をした秦兵があった。北方の遊牧民らしい、顔があった。西方から来た、長身碧眼の者もいた。はたまた巴蜀から召集された、泳ぎに巧みな小人も混ざっていた。姿形は様々であったが、皆秦軍の漆黒の甲(よろい)を纏って、一つの統一された集団となっていた。彼らは寸分の隙もなく、軍法の掟によって縦横の隊列に編成されていた。
木でひときわ高く組み上げられた台上に、総指揮の将軍、章邯がいた。
彼は、片膝をついて眼下に現れた川猿どもの群れを、眺め降ろしていた。
「― 弩。」
章邯は、昂ぶることもなく台の上から軍吏に申し渡した。
一斉に、ものすごい数の矢が敵に向けて放たれた。その射撃の密度と正確さは、楚軍などとは比べものにならなかった。楚兵は、前にいる者から順番にばたばたと倒れていった。
(弩は、集中した敵に対して最も効果的である。密度高く敵に浴びせ掛ければ、敵は攻勢を削がれて動作が止まる。まずこれが、第一の段階―)
章邯は、息をつかせず次の指令を出した。
「― 車。」
弩兵の間から、数百乗の戦車が突進した。驀進する車の列が、敵兵に真っ直ぐ突っ込んでいった。通っていく道から、楚兵が割れた。搭乗する戦車兵は、長大な戈(か)を武器として持っていた。戈とは、前に突き出た刃と横に飛び出た刃とを組み合わせた槍である。戦車兵はこれを左右に振り回して、進路にある敵兵をなぎ払うのである。敵兵を殺傷するというよりは、敵の隊列を乱して混乱と恐怖を起こさせることが、主要な用途であった。
(戦車は、費用がかさむ上に戦場を選ぶ。こうした平坦な土地でなければ、完全な効果が出ない。まことに、使いにくい兵器だ。もはや、時代遅れの兵器であるといえよう。それでも、使いようによっては敵兵を崩すことができる。これが、第二の段階―)
章邯は、前日のうちに戦場の一里四方の障害物を、ことごとく取り除かせていたのであった。この一戦を完璧なものとするために、将は全ての準備を怠らなかった。
「― 歩騎。」
章邯が、第三の指令を出した。歩兵と騎兵の混声部隊が、左右に分かれて突進した。両翼から、敵を挟み込む態勢であった。
この時代の騎兵は、後の時代ほどに決定的な戦闘力を持たない。鐙(あぶみ)がまだ発明されていない時代においては、騎兵は馬を駆って縦横に駆け回るわけにはいかない。この時代の騎馬部隊は、簡便な戦車部隊の役割である。歩兵と直協して、馬上から敵を弓矢と刀剣で殺傷する。機動力はさほどでもないが、大数の歩兵と共に敵を粉砕する主力であった。
楚兵は、確かに強い。小部隊どうしで遭遇戦を行なわせれば、楚兵は秦兵はおろかどこの国の兵卒よりも勇猛に戦うことができた。だが、秦軍には楚軍よりも上回る、兵卒車馬を運用するための法と技術があった。秦軍の軍吏には、信頼があった。彼らは、兵卒の戦場における功績罪状を、逃さず記録することができた。この監督の下にあってこそ、秦兵は組織として最も強い力を発揮することができた。
すでに弩と戦車により隊列を乱された楚軍は、指揮命令の系統を失い始めていた。兵卒に、恐怖が伝染し始めていた。息をつかせず左右から猛攻を受けて、楚軍はただの無秩序な集団に変わり始めていた。
「― 仕上げだ。楚軍の将を、ことごとく討ち取れ!」
章邯は、残余の部隊にも総攻撃を命じた。ここまで来れば、後は戦闘ではなくて、兵たちが功績を得るための殺戮だけであった。

戦闘は、終わった。
「敵将項梁、確かに討ち取りました。」
軍吏の報告を受けて、章邯は軽くうなずいた。
「そうか。」
彼にとっては、当然の結果を出しただけであった。感銘など、何もなかった。
章邯は、軍吏に言った。
「― それよりも、今回の戦の賞罰を、急いで行なえ。秦帝国の法は健在であることを、兵卒たちに分からせるのだ。法だけが、秦を守ってくれる。賞罰に、時を置くでない!」
章邯にとっては、今はこちらの方がより重要であった。
すでに、彼は今後の戦の方針について、考えを進めていた。
「これで楚は、しばらく立ち直れまい。このまま、楚を征服するべきか―?」
彼は、中国の地図を頭に描いた。
楚は、広大であった。王翦将軍は、楚征服のために六十万の兵卒を動員した。
章邯は、思った。
「できるかも、しれない。だが、王翦将軍の頃と今とでは、秦の立場の有利不利が違ってしまっている。今の守勢に立つ秦では、一つの敗北が致命的となりかねない。それに―」
彼は、もう一つの地理的条件を、考慮に入れた。
「― 楚は、南に行けば行くほど米作となる。それは、我が率いる秦兵の口に合わぬ食だ。現地で掠奪により兵を養うことが、できなくなる。まことに、楚はこんなことによっても守られている。」
楚は、淮水を南に渡れば次第に米作地帯となっていく。ここに麦や黍を常食とする者たちが攻め入れば、食に困窮することになるであろう。速攻での進撃が、不可能となるのであった。
章邯は、目を閉じて黙考した。
「この広大な楚を、最後に追い詰めて倒すために、まずは、、、」
しばらくの後、彼は目を開いた。
しばらくの後、彼は目を開いた。
彼は一人、つぶやいた。
「― 趙か。趙は、河北の要。趙が倒れれば、河北は平定される。河北が平定されれば、天下の三分の二は秦の押さえるところとなる。そして、趙は楚よりも亡ぼすのに、より易い国であるか。」
章邯は、早くも次の作戦を、詳しく計画し始めていた。

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第一章 兵法の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 宦官の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


                      
第十章 垓下の章



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