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   <title>知兵之将 - 楚漢太平記</title>
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   <updated>2008-05-17T04:50:54Z</updated>
   <subtitle>古代中国・秦末楚漢時代の死闘を巡る、項羽、韓信、劉邦、張良といった大いなる知勇の者どもを描く長編小説。毎週月～土に更新しています。</subtitle>
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   <title>二十二　骸骨は帰る（２）</title>
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   <published>2008-05-01T03:07:11Z</published>
   <updated>2008-05-01T03:51:27Z</updated>
   
   <summary>もう、亜父は前線に立つことは、できなかった。...</summary>
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      もう、亜父は前線に立つことは、できなかった。
      体は麻痺したように感覚を失い、今ここで陣営に座って、何をしているのかの判断も、付きかねるようになった。
「―　そうか。手の者と、会見していたのであるか。」
亜父は、正気に帰って、思った。
彼は、亜父に対して項王を除くべく上書して来た者を、密かに捕らえるべき旨を配下に命じたばかりであった。
「もう、私は戦うこともできぬ。せめて、跡を濁しては、ならない―」
亜父は、独語して、その後にまた意識を混濁させた。
誰かが、面前で話していた。
亜父は、その者の説得に対して、そうだそうだと、うなずいていた。
亜父は、口走った。
「趙が、漢から寝返ると言うのか、、、これで、楚は勝てる。」
面前の者は、言った。
「楚は、一挙に滎陽を陥とされよ。漢王は、逃げることでしょう。手負いの漢王を、韓信が動いて捕らえます。これで、関中に至るまで、天下は平定です、、、」
亜父は、聞いた。
「、、、それは、漢左丞相韓信の、意向であるのか、、、」
面前の者は、答えた。
「韓信を、退けぬ状況に追い込むことこそが、肝要なのです。亜父よ。どうかこの密約を進めたまえ、、、！」
だが、話すことができたのは、ここまでであった。
亜父は、客の前で座したまま、動かなくなった。
亜父は、人と会うことも、もはや叶わなくなった。
彼は後の事を、項伯に任せた。
そして趙からの使者は、項伯を疑って、密約の事を彼に言わなかった。
（この男は、漢に通じる、、、）
密かに亜父の陣に潜り込んでいた蒯通は、交渉の相手が項伯に代わったことを見て、退き下がるより他はなかった。
亜父と、蒯通と、陳平。
三人の策士が、際どい暗闘を行なっていた。
だが、三人のうちで最も老いた者が、一足先に去ろうとしていた。
翌日の、朝。
臥せる亜父のところに、項王がやって来た。
亜父は、項王の前で、目を開けることがなかった。
項王は、座したままで、彼の傍らにいた。
長く長く、そのままであった。
亜父が、目を開けた。
彼は、目の光を感じて、言った。
「夕刻で、あるか―　もう。」
夏の最も暑い、日暮れの頃となっていた。
項王は、座ったままで、一日を過ごしていた。
「おお、、、覇王よ。」
亜父は、項王の姿を目に見たとき、残された渾身の力で、体を起こした。
項王は、言った。
「よくぞ、今まで軍を率いてくださった。感謝します。」
彼は、深く頭を下げた。
亜父は、言った。
「もはや、私はあなたの側に仕えることは、できません、、、帰郷して、死ぬことをお許しください。」
項王は、言った。
「亜父よ。あなたまでが去ったならば、私はもはや、誰もいなくなってしまいます―」
亜父は、言った。
「あなたが、私を大事に思ってくださるのか。この世の誰も眼中にない、覇王のあなたが。」
項王は、言った。
「もちろんです。」
亜父は、言った。
「ならば、それだけでもこの消え行く老体は、黄泉に楽しんで赴けるこの世の思い出と、なりましょう。あなたの武勇は、後世までも忘れられることが、ないでしょう。その天才の心に住まうことができたのは、この居巣の田舎匹夫にとって、またとない痛快事です。」
項王は、涙を必死に押さえていた。
彼の若さが、亜父には眩しかった。
亜父は、言った。
「我が王よ。しかし、漢にはこの亜父が怒ってあなたの元を去ったと、宣伝なされよ。それは漢王が、望んだことです。この亜父が項王から怒って去ったと聞けば、あの漢王は手を打って喜び、項王いよいよ組し易しと、心に傲慢が生じることでしょう。その漢王に、存分にあなたの力を、思い知らせてやりなされ。あの男や陳平は、策であなたを陥れようとします。あなたは、力であの者どもに立ち向かうのです。勝負の果ては、天より他に知るところはありません。私は、憂いを持たず、死んでいくことにします。あなたが今後もそのままに進んで、進み尽くすことが、この去り往く老体にとって、最も憂いなきことなのです。」
亜父は、項王の手を取った。
今は、その両人の手の上に、項王の涙が溢れた。
亜父は、微笑んで言った。
「天下のことは、もはやこの老体の出る幕では、ありません。肉体はこの戦場で朽ち果て、骸骨だけを乞うて、帰郷したいと存じます―　大王、後は任せましたよ。」
亜父と項王との間に、夕闇が深くなっていった。

亜父は、楚の官位を全て返上して、車に乗って戦場を去って行った。
郷里の居巣から現れたときと同じく、車に乗った無位無官の老人に、戻った。
居巣へと帰るまでの時も、彼にはなかった。
彭城に着くまでの中途で、亜父范増は死んだ。
世間では、項王に怒ったゆえに背中に瘍ができて死んだのだと、噂された。
しかし、亜父は項王のことを怨んでなど、いなかった。
彼の死は、つまらない人生の老後を思いの他楽しく生きられた満足感で、一杯であった。彼は、軍を離れて、枯れ木のように朽ちて死んだ。

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   <title>二十三　俺だけが生きろ（１）</title>
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   <published>2008-05-02T02:37:23Z</published>
   <updated>2008-05-02T02:48:40Z</updated>
   
   <summary>亜父范増は去ったが、楚軍の滎陽城への攻撃は、いささかも衰えない。...</summary>
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      亜父范増は去ったが、楚軍の滎陽城への攻撃は、いささかも衰えない。
      今は項王が再び陣頭に立って、漢軍を追い込んだ。
漢王を追い詰め、そして倒すことは、楚軍全ての執念となった。
敖倉と結ぶ甬道（ようどう）は、すでに破られてしまった。
滎陽には漢の将兵に加え、王の行宮に詰める官吏や女たち、それに漢が降した諸国の王候たちまでが、詰め込まれていた。
彼らは、一日城内に留まるだけで、食を消費する。
もはや、残された食の量を計算してみれば、あと一月生き長らえるかどうかで、あった。
かといって、この大人口を楚軍に見つかることもなく逃すことは、全く不可能な事と知れた。
漢は、最終的な決断を下した。
七月の朝、日の明けぬ時刻。
まだ暗い行宮に、漢王の命により、一人の将軍と一人の高官が、招集された。
将軍の名は、紀信。
かつて、鴻門の会で、漢王を守って項王の陣営に赴いた一人であった。
高官の名は、御史大夫周苛。
周苛は、いとこの周昌と共に、漢王の沛での旗上げ以来の家臣であった。漢王の出世と共に、これまで謹直の能吏として漢王を支えつづけて来た。
二人が通された控えの間に、軍師の陳平が現れた。
「奥で、大王がお待ちです―　紀将軍、来られよ。」
陳平は、まず紀信を、奥の間に誘い入れた。
「御史大夫は、しばし待たれよ。将軍との話が終った後に、参りませ―」
陳平は、周苛に告げて、紀信と共に奥の間に消えた。
奥の間には、すでに漢王が座っていた。
「平伏の礼などは、よい、、、もっと、近くに。」
彼は、かしこまる紀信を、手で招き寄せた。
それから、漢王は将軍に対して、諄諄と話し出した。
―　済まぬ。今夜、余の身代わりとなってくれ。
紀信は、漢王から今夜に行なう重大な決意を、打ち明けられた。
紀信が命じられたことは、これからこの行宮に留まって、秘密の作戦の指揮者となることであった。
漢王は、紀信の手を取って、言った。
「お前の家族は、末代まで漢が養うだろう。漢のため、天下のためだ。済まぬ、済まない、、、」
漢王は、涙を流した。
紀信は、漢軍で最も単純な武将であった。
単純に、漢王を信じ、彼を君主として崇めていた。
紀信は、今日初めて漢王から優しいねぎらいの言葉を、掛けられた。普段の彼の主君は、倣岸不遜を絵に描いたような、野人であった。これまでの、人を人とも思わぬ主君の振る舞いと、今手を取って涙まで流す親しさとの落差に、紀信の心は震えた。
紀信もまた、感激のあまりに、いつしか涙を流していた。
彼は、声を詰まらせながら、漢王に言った。
「臣は、これまで大王のために、何一つはかばかしい功績を挙げることが、出来ませんでした、、、その臣に、大王は大役を仰せつかった。こんな嬉しいことは、ございません！」
主従は、二人して泣いた。
涙の声は、周苛が残る控えの間にまで、漏れ聞こえて来た。
やがて、陳平が、再び奥から顔を出した。
「次に、御史大夫―　通られよ。」
周苛は促されて、陳平に従って奥に進んだ。
漢王が、座して待っていた。
紀信は、すでに今日これからの任務のために、勇躍して去った後であった。
「―　入れ。」
漢王の声は、冷たかった。
ついさっきの涙声は、どこかに置いてしまっていた。
周苛は、主君の変わり身の早さに驚きもせず、御前に進んで平伏した。
漢王は、言った。
「この俺がお前を選んだのは、これから申し付けることが、最も難しい役目だからだ、、、凡庸な武将どもでは、決してできぬ。」
周苛は、答えた。
「―　それがしは、沛以来、大王に従って参りました。大王と共に漢の創業をつぶさに見た一人として、それがしの命は漢と一体でございます。たとえそれがしが戦場に果てたとしても、我が親族の昌が、引き続き大王に仕えております。どうか、それがしを憐れんで、昌のことを今後重用してくださいませ。」
漢王は、すでに己の役目を分かっている周苛の聡明を喜び、にやりと笑った。
漢王は、彼に為すべき任務を伝えた。
漢王は、周苛に言った。
「今夜の役目などは、突っ立っていればよいだけだ。あの能無しで、十分に務まる、、、しかし、苛よ。お前の役目は、能無しではできない。」
周苛は、主君の言葉に喜びもせず、平伏して承った。
漢王は、言った。
「お前は、俺がいなくなった後、滎陽の守備の全権を握る。この城市で、一兵卒が尽きるまで戦え。」
周苛は、平伏したままで、言った。
「、、、大王の本音を、申し上げましょう。」
漢王は、言った。
「言ってみろ。」
周苛は、言った。
「漢以外の諸侯は、将兵もろとも、ここで全部死ねばよい。その方が、漢のために好都合だ。」
周苛は、顔を上げた。
彼の漢王に向けた視線は、厳しかった。
返す漢王の視線もまた、厳しかった。
だが、漢王の表情は、笑っていた。
彼は、言った。
「やはり、お前は能無しではないな。」
周苛は、軽く目を伏せた。
漢王は、付け加えて言った。
「―　だが、お前だけは、死ぬ必要はないぞ。」
周苛は、それに答えることもなく、再び平伏した。

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   <title>二十三　俺だけが生きろ（２）</title>
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   <published>2008-05-03T02:05:23Z</published>
   <updated>2008-05-03T02:27:02Z</updated>
   
   <summary>今夜の作戦の内容は、以下のごとくであった。...</summary>
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      今夜の作戦の内容は、以下のごとくであった。
      行宮の女二千人に甲（よろい）を負わせて武装させ、兵卒に偽わらせる。
紀信は、王の乗用車である黄屋車（こうおくしゃ）に乗り込み、漢王を偽る、
薄暮の後、戦場がよく識別できなくなってから、偽の漢王軍は城の東門から出撃する。
楚軍の目が東門に集中した隙を突いて、本物の漢王と少数の車騎だけが、城の西門から脱出する、、、
狡猾、かつ残酷な作戦であった。
「漢の諸将高官は、行宮に集まるべし―」
夕刻になって、軍師陳平から、各人に伝えられた。
夏候嬰、樊噲、周勃、廬綰ら漢の重鎮たちが、行宮に急いだ。
中尉の周昌もまた、招集された中にいた。
彼らは、本日ついに大王が最後の決戦に出るという報を聞き、驚き恐れて駆け付けたのであった。
彼らは、いよいよ主君と共に討ち死ぬのかと、悲壮であった。
だが、行宮の奥に通された彼らに告げられた内容は、これより西門から逃げ出すという、勇ましくもない結末であった。
「いまだ城内には、諸侯と兵卒が残っている。彼らに、これからのことを知られてはならない。諸将高官は、大王と共にこのまま関中まで、突っ切るように―」
漢王の隣に控える陳平が、各人に申し渡した。
各人は、沈痛な面持ちで、聞いていた。
漢王の別の隣には、周苛が控えていた。
彼は、漢の高官の中で一人だけ城内に残る役目を、仰せつかっていた。
周苛は、言った。
「項楚との戦は、この滎陽で終わるわけには、いかない。漢は、いつか必ず項王に勝つだろう。諸君は、漢王の股肱として、何としてでも生き延びるのだ。」
彼は、全てを覚悟して、毅然たる表情で各人を見回し、叱咤した。
彼は、中尉の周昌にも目を向けた。
周昌は彼のいとこで、彼と同じく沛の旗上げ以来、漢王に付き従って来た。
だが周昌は、彼のことを直視できず、うなだれるばかりであった。
「以上だ。もう、時間がない。諸将高官は、直ちに逃げる用意をせよ。夏候嬰は、俺の馬車を操れ。廬綰、樊噲は、俺の馬車に陪乗せよ―」
漢王は、そう言い残して、席を立った。
もう、漢王の股肱たちに、逡巡する猶予は与えられなかった。
残る役目の周苛に、周昌が声を掛けた。
「これが、最後なのか、、、苛よ。」
周苛は、いとこを誘って、彼と最後の話をしようと、衆の輪から離れた。
二人きりとなった周昌は、周苛に言った。
「大王は、、、大、王、は、ひどすぎる。」
周昌は、どもる癖があった。沛の時代からの、ことであった。
周苛は、若い頃から変わらない彼をいとおしんで、彼の肩をとんとんと叩いた。
周昌は、言った。
「あの人は、仁君でない。」
周苛は、嘆くいとこの言葉に、首を横に振った。
彼は、言った。
「だがあのような君主でも、彼以外に天下に太平をもたらす希望は、ない。彼だけが、この乱れた世に勝ち残る力を、持っているのだ。それを、我らはずっと見て来た。彼が選ばれたのは、もはや人間の為すことではない。天が何を考えているのか、私は知らない。だが私は、漢王のためではなく、天下のために、ここで命を捨てる、、、昌。後は、頼んだぞ。」
「苛よ、、、」
周昌は、ううと泣き叫んだ。
周苛は、軒先から見える夕空を、見上げた。
「沛から、ずいぶん遠くに、来てしまったものだ―」
暮れ迫る夏の夕空は澄み渡り、雲は吊るしたように動かなかった。
だが、空の下の世界は、いまだ戦に乱れ続けている。いつになったら、人間たちは戦に倦んで、これを止めるのであろうか。
今、彼らは、漢王の行宮の一室にいた。
外では、行宮の女たちを使って、今夜の偽軍が慌しく編成されていた。
二千人の妾たちに、にわかに甲（よろい）が配られて、武器が手渡された。
彼女らにもまた、これからの役目については、何一つ告げられることがなかった。ただ、合図があれば進めと、告げられただけであった。
女たちの群れの中から、何人かの姿が取り除けられていた。
大王の最も深い寵愛を受ける戚氏がいないのは、当然のことであった。
管氏、趙氏、薄氏の三人は、西魏王の後宮から接収された、妾たちであった。
三人は、今日の午後になって、他の漢王の身辺に仕える多くの妾たちから、引き離された。別室に待機させられた彼女たちは、不審に思った。
管氏は、言った。
「―　これは、何かあるんだよ。」
彼女は、勘が鋭かった。
趙氏は、蒼ざめていた。
「ひょっとして、大王といっしょに、殉死させられるとか？」
管氏と趙氏は、すでに漢王の夜伽の順番の中に、入っていた。寵姫は、主君が死ぬときには殉死する。それを、世間では婦徳などと称して、賞賛する。寵愛されたからには、覚悟せよとでも言うのであろうか。
「いやだ！」
まだうんと若い趙氏は、正直に叫んだ。
薄氏が、うろたえる彼女の手を持った。
「考えても、もう致し方ありません―　天に、任せなさい。」
管氏は、落ち着いたままの、彼女を見た。
「あなたは、哀れだね、、、まだ大王から、そんなに呼ばれてもいないのに。」
三人は、ただただ泣いた。
生きることも死ぬことも、君主の妾たちには、選択の道など与えられていなかった。ただ、政治とか軍略とかいう、人間を手駒として扱う世界の、なすがままであった。

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   <title>二十四　勝たなければ（１）</title>
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   <published>2008-05-05T02:38:12Z</published>
   <updated>2008-05-05T02:44:20Z</updated>
   
   <summary>日が落ちて、遠くの情景がよく見渡せなくなった頃に、滎陽城の東門が開いた。...</summary>
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         <category term="203背水の章" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suzumoto.s217.xrea.com/blognovel/">
      日が落ちて、遠くの情景がよく見渡せなくなった頃に、滎陽城の東門が開いた。
      項王の軍には、城内から伝えられてあった。
―　本日、漢王自ら戦場にて決戦すべし。楚軍は堂々の陣を張り、勝負せよ。
報を聞き、城外で楚軍は待ち構えていた。
やがて東門から、確かに甲（よろい）に身を固めた兵卒が、隊伍を組んで現れた。
その中央には、華麗に装飾された、黄屋車があった。
犛牛（からうし）の尾を取り付けた旗印が、車の左方に高々と掲げられている。これを、左纛（さとく）と言う。君主が親征する車であることを、示している。
兵卒の展開が済み、両軍の間合いが取られた後。
楚の強兵が、一斉に襲い掛かった。
戦闘は、一方的な殺戮であった。
当たり前で、ある。
だまされたことに楚軍が気付いた時には、二千人の偽兵はことごとく斬り殺されていた。
楚の健児たちは、自分たちが斬り捨てた兵卒の正体が、ただの宮妾であったことを知って、愕然とした。
捕獲された黄屋車が、乗り込んだ主人ごと、項王のもとに届けられた。
項王は、車の中から出てきた男を、怒りに打ち震えながら、睨み付けた。
「漢王は、どこだ、、、！」
紀信は、項王のあまりに恐ろしい目を直視しようとしたが、本能がすくみ上がって、目をそらした。
それでも、覚悟した彼は、言った。
「もう、逃げた後だ。」
この戦のために、包囲する兵卒はみな、城の東側に移っていた。
そのわずかな隙に、漢王と股肱たち、それに王に選ばれた女たちは、夜陰に紛れて遁走してしまった。
紀信は、火あぶりとなった。
項王は、漢王の卑怯な策に拳を振り上げて、目の前の机を粉々に砕いた。
「これが、漢王なのか！、、、劉邦とは、このようなことをする、男なのか！」
彼を分別ある大人として、心の底で敬して来た自分が、愚かであった。
項王は、死んだ叔父の項梁の代わりを、漢王に見ていたのかもしれない。
だが、漢王は、項梁とも、亜父范増とも、まるで違った。
彼は、大人の最も汚らわしい部分を見せ付けられたような心持ちがして、荒れに荒れた。
彼の乱心を見かねて、呂馬童が近寄って、言った。
「漢王は、君主なのです、、、策を用いるのは、君主として、当たり前のことです。」
項王は、振り向いた。
彼の目には、涙があふれていた。
「私は、こんな汚い策など、使いたくない！、、、姦策を使うぐらいならば、私は王などになりたくない。騅を駆って、ただ一人で進みたい。一人で進んで、そして、果てるのだ！」
呂馬童は眉をひそめ、しかしなだめる声で、主君を諌めた。
「あなたは、すでに万軍の長、覇王なのです。楚は、あなたの力が作りだした、国なのです。決して王を捨てるなどと、仰せられるな、、、」
彼は、どこまでも正直な彼の主君を、憐れんだ。しかし、それでは漢王に勝つことはできないとも、思った。
同じ頃、漢王の一行は滎陽から遠く離れて、隣接する成皋（せいこう）に向けて落ちて行った。
車に乗せられた管氏・趙氏・薄氏の三人は、車内で囁（ささや）き合った。
「―　逃げた？」
「―　逃げている。」
「―　他の子たちは？」
「―　分からない。」
「―　でも、あの戚氏も逃げている。ひょっとして、私たちは選ばれたのかも、、、」
もしそうであるならば、嬉しかった。
二千人いた妾の中で、いま漢王と共に逃げている女は、ごくわずかであった。
だから、嬉しいはずなのに、三人はなぜか、また涙が溢れて来た。
三人は、止まらなく流れる涙の中で、言い合った。
「―　残された子たちは、どうなったんだろう、、、」
「―　振り返っても、憐れんでも、どうにもならない。」
「―　だから、今しか泣くことが、できない、、、」
「―　そう。死んだら、おしまい。」
「―　主上に飽きられても、もうおしまい。」
「―　ほんのわずかの時しか、私たちには許されない。この世は楽しいから永遠に生きたいなんて、誰が言ったんだろう？」
「―　この世で楽しく生きるためには、うんと多くの人を踏みにじる。それが、この世の掟、、、そうなんだろうか？ねえ、そうなんだろうか？、、、」
急ぐ車中は、激しく揺れた。
暗闇の中を、車馬の一行は進んで行った。
漢王は、成皋の守備を固めた後で、関中に戻るつもりであった。関中に戻れば、丞相の蕭何が働いて、再び兵を整えるであろう。
「彭越と、黥布を使うか、、、仕方がない。」
漢王は、車の座で独語した。彼は、自分の国が勝つために、人の涙など気にしている暇はなかった。
こうして、滎陽城は、次の日の朝になると、主君が逃げ出したことを知った。
取り残されて哀れなのは、諸侯たちであった。
もと西魏王の豹が、いきり立った。
「見捨てられた！、、、可悪（おのれ）！寝返ってやるぞ！」
豹は、周囲の者たちに向けて、あからさまに漢王を批判した。
残余の将兵を統率する周苛の耳に、豹の言葉が伝えられて来た。
その日の、午後。
諸侯たちが、周苛の前に招集された。
周苛が、現れた。
右手には、生首をぶら下げていた。
彼は、首を諸侯の前に据え付けて、言った。
「裏切る者は、かくのごとし―　ここで、戦え。」
諸侯は、斬られた豹の首を見て、震え上がった。

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   <title>二十四　勝たなければ（２）</title>
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   <id>tag:suzumoto.s217.xrea.com,2008:/blognovel//3.1370</id>
   
   <published>2008-05-06T04:56:19Z</published>
   <updated>2008-05-07T00:17:14Z</updated>
   
   <summary>河水（黄河）の南では、にわかに戦線が動き出した。...</summary>
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      河水（黄河）の南では、にわかに戦線が動き出した。
      漢王が滎陽から逃げて、関中に後退したことは、修武に陣を敷く趙軍にも、伝えられた。
韓信は、漢王のにわかな撤退のことを聞いて、顔を曇らせた。
「やはり、滎陽にはいられなかったか―」
趙軍は、夏の間ずっと修武に留まっている。
この間、漢からは兵卒を送る要望が続けられただけで、趙軍への出馬の依頼はなかった。
結果は、籠城に耐えられなくなっての、遁走であった。
韓信は、思った。
「楚軍は、強い。項王は、真の覇王だ。やはり、一撃がなくては、項王の楚の勢いを翳らせることが、できないだろう。だが楚軍に、一撃を与えることができるのは、、、」
韓信は、空を眺めた。
後ろから、声がした。
「―　国士無双が、動くのです。」
韓信は、はっとして振り返った。
蒯通が、彼の後ろにいた。
いつものように、無表情に立っていた。
韓信は、彼に言った。
「蒯通、、、ここ最近、お前は何か私に隠していないか？」
蒯通は、首を横に振った。
彼は、亜父范増と密かに会見したことを、告げなかった。
（、、、もはや、亜父が死んだ以上、楚と合従する見込みは、潰え去った。）
楚にこれ以上期待ができないからには、彼は率先して楚を叩きのめすべきだと、判断を切り替えていた。己にとって最大の利益を得るのが、縦横家の外交術であった。
蒯通は、代わりに現状について、語り出した。
「最近、事態は急変しました。漢王は単身で逃れ、関中に引き込みました。いずれまた兵卒を率いて立ち戻ることでしょうが、もはや漢王では楚を破る見込みは、ありません。あなたも、そう考えるでしょう？」
韓信は、答えた。
「残念ながら、その通りだ。私も常々申しているとおり、漢王は今こそ諸方の友軍を活用しなければ、ならない。」
蒯通は、考えた。
（だが、敗れ続けの漢王では、いくら彭越や黥布などを使っても、項王の威勢を削ぐことはできない。項王の威勢を砕く兵を起こせる人物は、天下にただ一人だけ。今、ここにいる、、、）
蒯通は、今ここにいる目の前の男を見た。
その男が、蒯通に言った。
「だが、漢王はいっこうに、この趙に援軍を求めようとしない。」
漢王が申し付けて来たのは、守備のために兵を送ることばかりであった。
漢王は、自分でその兵を費消して、このたび滎陽から逃げた。
蒯通は、韓信に言った。
「それは、漢王が自分の力だけで、項王に勝とうと固執しているからです。漢王の意図は、明らかなのです。」
彼は、韓信を見据えた。
韓信は、その不気味なまでに虚ろな目を見たとき、背中に冷や汗が出そうであった。いくら近しくしても、彼の底の深さを計ることは、韓信にできなかった。
韓信は、苦悩する表情を見せて、蒯通に言った。
「確かに、そうなのだ。しかし、、、」
蒯通は、韓信に畳み掛けた。
「もはや漢王は、戦の指揮を根本から誤っています。彼の意向に従うことは、天下のためならず、その上にこの趙国にとっても、怨嗟を生むばかりなのです。あなたが天下と民のことをあの漢王よりもお考えならば、どうしてこれ以上彼の指揮に従う必要が、あるでしょうか？」
蒯通は、困惑する韓信の表情を見て、思った。
（もう、少しだ、、、）
韓信が、漢王からの自立を思い立つだけで、よい。
そうすれば、蒯通は趙王の張耳と手を組んで、彼を第二の覇王として世に送り出すであろう。
韓信ならば、戦で項王に勝てる。
そして、この蒯通がいれば、漢の張良や陳平にも負けぬ。
韓信は、蒯通の暗い虚ろな目を見て、つぶやいた。
「そんなことをして、よいわけがない、、、そうだ、よいわけが、ない。」
蒯通は、言った。
「漢王を、信じてはなりません。」
韓信は、言った。
「やめろ！、、、誰が、聞いているか。」
蒯通は、構わず続けようとした。
そのとき、侍従の兵卒が、来客を告げた。
「賀安楽と申す者が、参りましたが―？」
韓信は、明るい声で、応えた。
「おお！、、、小楽か。通せ、通してくれ。」
彼は、蒯通をかわすことができたので、久しぶりに現れた小楽の来訪を、喜んだ。
蒯通は、内心舌打ちしながら、退席した。
入れ替わりに、小楽が陣営に現れた。
「お久しぶりで、ございます―　韓子。」
彼は、すでに庶人となって、いったん楚に帰っていた。
再び現れた小楽は、すっかり成長していた。
もはや、少年時代を通り過ぎた、彼の風貌であった。年若い者だけは、確かにこの忙しい時代にあっても、時間を経験していた。
韓信は、彼の手を取って、再会を喜び合った。
小楽は、言った。
「私はこのたび、我が郷里の江東から、韓子の郷里の淮陰までを巡って参りました―　仰せに、従って。」
韓信は、聞いた。
「そうか！、、、楚は、どのようであるか？」
小楽は、言った。
「民は、強いです。戦が続いても、歯をくいしばって生き続けています。早い終戦だけを、願って―」
小楽の伝える話は、韓信にとって、耳に痛すぎる内容であった。
項王の戦は、楚の郷里を甚だしく疲弊させ、兵の損失のために泣かない家とて見当たらなかった。
韓信は、嘆息して言った。
「楚の惨状もまた、この趙と何ら変わるところがない。戦は、早く終わらせなければならない。覇を争うなど、愚かなことだ、、、」
小楽は、彼の嘆きにうなずいて、彼にとって明るい話題を付け加えた。
「淮陰では、林家の方々も、無事でおられました。」
韓信は、声色を明るくした。
「そうか！媼（ばあ）さんも、元気であったか。」
小楽は、にこやかに言った。
「林媼も、阿梅さんも、私が韓子のことを告げたら、涙を流して喜んでおられました、、、」
韓信は、聞いた。
「何か、言っていただろうか？」
小楽は、答えた。
「林媼は、あまりに泣いて、もはや言葉もありませんでした。それで、阿梅さんが代わりに私に言伝てられました、、、」
林媼さんは、苦しみ過ぎていた。それほど、郷里には悲しいことが多すぎた。それで、出世した韓信のことを小楽から伝え聞いて、心が弾けるように泣き通してしまった。
阿梅が、二人のために、気丈に韓信に対して言葉を伝えた。
―　もはや大功を挙げられたあなた様と、私たちは違う世界に住んでしまいそうです。ですが、あなたが困ったときには、どうかこの淮陰での生活を、思い出してください。私たちは、あなたが昔から変わらない心で進まれることを、願っております。
彼女の言葉を伝え聞いた韓信は、深い吐息を漏らした。
「ああ、、、私は淮陰に、いつ戻ることができるだろうか―？」
しばらく二人は、無言の時を過ごした。

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   <title>二十五　夢と欲望（１）</title>
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   <published>2008-05-07T04:08:55Z</published>
   <updated>2008-05-07T04:09:35Z</updated>
   
   <summary>漢王は、関中に戻ったのもつかの間、再び兵を集めて繰り出した。...</summary>
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         <category term="203背水の章" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      漢王は、関中に戻ったのもつかの間、再び兵を集めて繰り出した。
      しかし今回は、南の武関から出て、宛と葉（しょう）の間に現れた。
袁生という謀士が、漢王に説いた策の結果であった。
「―　君王が武関から出られれば、項王は必ず君王を追って南下します。君王は塁壁を深くして守りに徹し、よって滎陽・成皋の戦線を休ませます。その間に韓信にお命じになって河北を鎮定し、かれに燕・斉と連ねさせたまえ。その後に君王が滎陽に戻られても、遅くはありません。楚は備えるところが多くなり、兵力は分かれざるをえず、一方で漢は休んだ後に再戦するのですから、漢が楚を破ることは必然でしょう。」
まことに適確な、進言であった。
すでに、楚よりも多くの勢力を自陣営に引き込んでいる、漢なのである。
漢は、各地に戦線を作って包囲網を敷き、項王の鼻面を引き回すのが、最も良い。
項王は、漢王の首だけを狙っているのであるから、漢王が滎陽のずっと遠くに現れたならば、自ら決戦に赴かずにはいられない。漢王は項王と決して戦わず時を稼ぎ、その間に韓信らの漢の別働隊が、項王の他の軍を削り取って行く。つまり近代兵法で言う、外線（がいせん）戦術を袁生は漢王に薦めたのであった。
漢王は、この策を容れて、自軍を南に出した。
果たして、漢王を追って、項王は急ぎ南下して来た。
さきに漢王と通じて九江に入っていた黥布が、漢王に加勢した。
彼は、自分の党数千人を再び集めて、戻って来た。いずれも、さきに項王に攻められて、散り散りになった者たちであった。
漢王と黥布は、塁壁の専守に徹して、項王の攻撃を防いだ。
項王は、何らの手応えも得ることができなかった。広大な戦場で、行き惑うばかりであった。
その頃、楚の背後を、彭越が襲った。
彭越軍は、南下して下邳にまで現れた。
項声らが指揮するこの方面の楚軍は、彭越軍と戦ったが、ついに敗れた。
彭越は、支軍が倒せるような弱い敵ではなかった。このままでは、楚都の彭城すら、危なくなるかもしれなかった。
項王は、歯ぎしりした。
「、、、私が、行く！」
彼は、彭越を撃つために、東に取って返すことを決めた。
配下の諸将は、大いに懸念して、項王を諌めた。
「どうして、大王が自ら西に東に赴く必要が、ありましょうか、、、？」
だが、そのような配下の諌言を、項王は聞かなかった。
（私しか、勝てる者はいない―！）
楚は、そのことごとくが、彼一人によって作り出された、国であった。
項王という一個の天才の武勇が、歴史の進む道をねじ曲げて、彼のために覇王の座を用意した。
項王だけが、どんな強大な敵でも、打ち破ることができた。
そして項王だけが、集団という匿名の力に抗って、水流を変えることができた。
彼が進まなければ、全ては一幕の夢として、消えてしまうだけであった。
だから、彼は自ら進み、自ら戦った。
西に、東に、南に。
項王は、敵を破った。
彭越軍は、ひとたまりもなく敗走した。
しかし彭越軍は、死んでいない。
盗賊集団の彭越軍にとって、攻められれば逃げるのは、常の戦法であった。
項王が去れば、また息を吹き返すに違いない。
そして項王は、また戦場を去るより、他はない。
彼は、今度こそ、漢王と戦わなければならない。
漢王こそは、この中国の天下で、たった一人彼の武勇にひれ伏さない、不敵な男であった。
その、不敵な男。
彼は、項王が彭越によってきりきり舞いさせられる樣を眺めて、ほくそ笑んだ。
「奴も、これだけ敵が多くては、叩き切れまい、、、勝てる、勝てるぞ！」
漢王は、今さらながらに、自分の勢力が項王よりずっと大きいことを、確認した。
彭越は、漢のために楚と戦う代償として、梁一国を要求して来た。
漢王は、彼の望みを容れてやった。一国で彭越を買えるならば、安いものだと思い直した。兵を貯えているとはいえ、しょせんは、盗賊である。あり余るほどの欲を抱えているが、策略を知るところがない。野望はあっても、その大きさは、漢王と比較にならない。漢王は、大盗賊なのである。
漢王は、黥布を従え、彭越をそそのかして、またも項王の優位に立った。
漢王に、色気が出た。
「よし、、、成皋に進む。」
彼の軍議の席での発言に、諸将は驚いた。
友軍の将として参加していた黥布が、懸念して言った。
「まだ、御身を項王の前にさらすのは、時期尚早というものです。項王の力は、衰えておりません。」
夏候嬰もまた、立ち上がって発言した。
「大王が成皋に至れば、項王は直ちに襲い掛かって参るでしょう。そうすれば滎陽さえも、危なくなります。ここは、彭越、それから韓信に兵を出させて、さらに楚軍を叩かせるべきかと存じます。」
しかし、漢王は、聞かなかった。
「俺がこのままで悠長に待っていれば、そのうち項王は倒れてしまう。それでは、この漢王が楚を倒したことにならぬ。」
夏候嬰は、眉をひそめた。
「大王。それは、、、」
あまりにも、項王を甘く見過ぎている。
夏候嬰は、漢王の心底が見えた。
漢王は、軍事の勝者と言われたがっていた。
彼が自ら兵を率いたこれまでの戦績は、敗北続きであった。
（大王は、誰かのおかげで自分が勝ったと、言われたくないのだ、、、）
そのために、勇躍して出陣する。
しかし、己の都合だけを計算に入れて、果たして強大な敵と立ち向かうことが、できるのだろうか？
冴えない顔を向ける諸将を尻目に、漢王は覇気を隆々と高めていた。
（俺こそが、天下の英雄なのだ、、、見てろ、孺子（こぞう）どもめ！）
彼が孺子と呼んだのは、いったい誰であったろうか。

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   <title>二十五　夢と欲望（２）</title>
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   <published>2008-05-08T05:38:04Z</published>
   <updated>2008-05-08T05:38:43Z</updated>
   
   <summary>最近の戦線の動きは、河北の趙でも、当然のごとく話題となった。...</summary>
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         <category term="203背水の章" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      最近の戦線の動きは、河北の趙でも、当然のごとく話題となった。
      修武に置かれた陣営で、趙王に昇った張耳を、趙の諸将が囲んでいた。
趙将の一人が、言った。
「成皋に入った漢王の、戦いのこと。皆様は、いかがに思われるか、、、？」
探るような、低い声であった。
言った将軍は、在席の者たちを見回した。
張耳は、床机（しょうぎ）にもたれ掛けながら、諸将を総攬する位置にあった。
誰も何も発言しないのを見て、王が自らぼそりとつぶやいた。
「漢王は―　血迷った、な。」
王の発言に、諸将の目の色が変わった。
張耳は、続けた。
「項王に、またも正面から戦いを挑もうとしている。自惚（うぬぼ）れも、大概にするべきだ。早晩、尻をまくって逃げ出すことであろう。」
王の発言は、諸将を活気付かせた。
「いったいその漢王に、趙はまたしても合力するべきなので、ありましょうか？」
将軍の一人が、疑問をぶつけた。
「あのような戦下手に、趙国がどうしてこれ以上、振り回されなくてはならないのか？」
別の将軍が、もっと厳しい疑問を出した。
「いったい、漢王は趙に何をしてくれるというのか！、、、趙は、漢の属国にあらず。堂々の、大国であるぞ！」
また別の将軍の言葉は、もはや憤りに近かった。
王を囲む趙将の輪は、次第に熱を帯びて来た。
いったんは漢に敗れた趙であったが、趙王となった張耳は、必ずしも漢の走狗ではなかった。彼は慎重に漢の動向を探りながら、趙人の独立心を挫かずに保つよう操縦していた。思惑あっての、ことであった。いま、趙人の漢王への疑問は、弾ける寸前にまで高まっていた。張耳は、自ら水を差し向けた後、しばし彼らの語るに任せていた。
また一人の将が、張耳に言った。
「漢は、西魏王を見捨てて斬り殺しました。漢王の諸侯に対する本心は、すでに見えたり。働くことだけ命じておいて、要らなくなったら蹴飛ばすのが、漢王なのです。」
隣の将が、声を重ねた。
「それは、盗賊のやり方だな！」
次の隣の将が、雷同した。
「さよう！漢王は、盗賊なのだ。」
雷同の言は、続いた。
「その通りだ。」
「まことに、その通りである。」
「盗賊に、加勢してどうする。盗み取られる、だけだ！」
そうだ、そうだと声を続かせて、陣営の声は、高まる一方であった。
張耳は、そろそろ締める頃だと、思った。
彼は、再び発言した。
「だが―　お前たちでは、漢には勝てぬ。」
諸将は、にわかに声を詰まらせた。
張耳は、続けた。
「国と国との関係は、力あるのみだ。わが国は、漢より弱い。だから、負けたのだ。力の無い狗が強い熊に向けて吠え立てるのは、肉塊にされる元であるぞ。」
諸将は、返す言葉もなかった。
しょげる面々を見回しながら、張耳は思った。
（一点、、、ただ、一点のことだけが、足りないのだ。）
すでに、趙の諸将に反漢への機運は、みなぎっていた。
しかし、雑魚をいくら連ねたところで、大魚とはならぬ。
（あの宝貝（バオベイ）は、、、まだ動かぬか！）
彼が目指す宝貝は、いまだに漢軍の将として、留まっていた。
その宝貝つまり左丞相韓信は、漢軍の陣営にあった。
彼もまた、漢王の最新の作戦を聞いて、その拙劣さを嘆いた。
「だめだ、、、大王が成皋に移ったことによって、滎陽は陥ちるであろう。滎陽が陥ちれば、成皋は必ず共倒れとなるしかない。」
項王の神速の用兵は、数日を待たず滎陽、成皋の両城を襲うであろう。
滎陽は、すでに食も尽きて、直ちに陥落するより他はない。
滎陽が陥落すれば、成皋は裸の城となる。
漢王は、成皋で項王の猛攻にさらされることとなろう。
彼の隣には、副将で仮左丞相の、曹参がいた。
曹参は、言った。
「大王に、急ぎ伝えましょう。逃げる用意を、なされよと。」
韓信は、曹参に聞いた。
「仮左丞相、、、大王は、いったい私に、何を期待しているのか？」
曹参は、彼の問いに、答えた。
「漢将として、敵を倒すことです。」
韓信は、返した。
「だが、大王は私の進言を、聞こうとしない。このような戦いでは、趙の国人を納得させることが、できない。私は、行き迷うばかりだ―」
曹参は、答えなかった。
彼は、思い悩む眼前の若い男を見て、思った。
（この男が、ひとたび兵を動かせば、殊勲は間違いない、、、それは、私にすら、分かる。）
ゆえに、彼は君主である漢王の考えもまた、分かった。
曹参は、一人の人間として、この才能ある若者を憐れんだ。
しかし、彼は漢の組織のために、この男を一人で歩ませてはならなかった。
曹参は、思った。
（今ならば、私の目で押し留めることができるだろう、、、だが、彼がいつか自ら一人で歩み始める決意を、なした時には？）
その時には、斬らなければならないだろうか。
漢という、組織の力が。
曹参は、今はそれ以上考えることを、止めにした。

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   <title>二十五　夢と欲望（３）</title>
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   <published>2008-05-09T04:55:25Z</published>
   <updated>2008-05-10T03:30:15Z</updated>
   
   <summary>夜。...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suzumoto.s217.xrea.com/blognovel/">
      夜。
      韓信は、自室で独りであった。
彼は火も灯さず、夕闇が落ちて広がるに、任せていた。
「いけない、、、もう、何も見えない。」
彼は、夜になってしまったことにようやく思いを馳せて、燭台を探した。
しかし、足元がよく見えない。
韓信は、自室で突き転びそうになった。
真っ暗闇の中で、彼は腰を屈めながら、行き迷った。
「、、、月？」
後ろから、ほのかな光が差した。
ようやく、足元が明るくなった。
韓信は、後ろを振り向いた。
しかし、後ろに窓などなかった。
光の元は、人の形をして佇んでいた。
「―　黒燕。」
彼女は、金で飾られた瀟洒な燭台を手に提げて、部屋の隅にいた。
韓信は、声を掛けた。
「暗い、、、もっと近くへ、来ておくれ。」
黒燕は、聞いた。
「私に近づいて、欲しいですか？」
韓信は、答えた。
「ああ。頼む。」
黒燕は、言った。
「いやですよ。あなたは、私を望んでいない。」
そう言って、黒燕は部屋の隅に沿って、歩き出した。
韓信の机は、部屋の中央にあった。
彼女の持つ燭台の光が、中心にいる韓信を巡って、歩み進んだ。
黒燕は、言った。
「望めば、すぐに得られる近さにあるのに―　あなたは、手を伸ばそうとしない。あなたは、愚者のようです。あなたは、何を望んでおられるのですか？」
韓信は、黒燕と光を目で追い追い、言葉を聞いた。
黒燕は、答えない男を急きたてて、もう一度問いを重ねた。
「あなたは、いったい何を、望んでいるの？」
韓信は、答えた。
「私は、天下の平定を望んでいる。」
黒燕は、彼の答えに対して、言った。
「―　ならば、死になさい。」
韓信は、咽の奥を鳴らした。
黒燕は、言った。
「もうあなたは、淮陰の一匹夫でないのです。あなたの名前は、この国の誰もが知っています。名を挙げた者には、虫たちが近寄って来ます―　毒虫も、また。美しい、夜の蛾もまた。」
燭台の火に惹かれて、一匹の小さな蛾が、迷い込んで来た。
蛾は、火の周りを飛んだ。
「それが、この世の習い。大きな火は、人のわざわい。」
黒燕は、燭台を動かして、蛾にかざした。
蛾は、いぶられて、潰れて落ちた。
韓信は、言った。
「だが、今もまだ、人のわざわいとなる大きな火が、残っている。私がいなくても、火は人を焦がし続けるだけだ、、、」
黒燕は、言った。
「そう。項王は、夢を追って、人を殺す。漢王は、欲をたぎらせて、人を泣かす。あの二人は、正直だよ。自分が人のわざわいである運命を、受け入れている。だから、強いんだ。だけどあなたは、まだじっと座り込んだままだ、、、」
韓信は、声を絞って、言った。
「黒燕、、、もっと、私を照らしてくれよ。」
黒燕は、彼の望みに対して、微笑んで言った。
「私から、歩み寄ってほしい？、、、それとも、あなたからこちらに来る？」
韓信は、言い掛けた。
「それは―」
言葉を選ぶ間も、なかった。
黒燕が、ひらりと飛ぶように舞い、韓信の側に侍った。
闇の中を飛ぶようなその軽やかさに、韓信は驚いた。
近づいた彼女の呼吸する声までが、韓信の耳に入って来た。
彼女は、韓信の耳元で囁いた。
「私は、あなたの側にいるよ。あなたの事が、好きだから。」
韓信は、彼女を見て、言った。
「私は、この世にいても、良いのだろうか―？」
黒燕は、言った。
「あなたの周りに集まって来る虫たちは、何も毒虫ばかりじゃない、、、あなたには、まだまだ為すべきことがある。受けなさい。わが義父は、あなたのために、趙王の位を差し出す用意があります。あなたは、項王よりも、漢王よりも、君主としてふさわしい。天下の平定を望むならば、あなたがその才を使ってやってみなさいよ。まず、進んでみるの。進んで取れば、そこから新しいことが、始まるのだから、、、」
韓信は、下を向いて、物思いに耽った。
黒燕は、彼のそのような姿が、かえって微笑ましかった。義父の張耳や蒯通にとっては、神経を苛立たせる彼の性であったが、今の彼女はむしろ思った。
（欲まみれで人を踏みつける漢王なんかよりも、この世の誰も見ようとしない項王なんかよりも、この人の方がずっと人らしいじゃないか―　こんな英雄が、いてもいいじゃない。）
自分は、策略を抜かして韓信のことが好きになっているのかも、しれない。
（、、、少しだけ？）
彼女は、ふと思った。
黒燕は、言った。
「―　漢王には、気を付けるのよ。」
韓信は、言った。
「蒯通も、そのように言う。」
黒燕は、言った。
「いいえ。蒯通も、我が義父すらも、あの男の恐ろしさがよく分かっていない。あの男は、無から欲望だけで這い上がった男よ。」
それは彼女の、鋭い予感であった。

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   <title>二十六　勝つのは俺だ（１）</title>
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   <published>2008-05-10T03:23:52Z</published>
   <updated>2008-05-10T05:30:06Z</updated>
   
   <summary>漢王は、項王を侮っていたのであろうか。...</summary>
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         <category term="203背水の章" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suzumoto.s217.xrea.com/blognovel/">
      漢王は、項王を侮っていたのであろうか。
      おそらく、そうであろう。
彼は項王を恐れぬほどに不敵であったが、敵の強さを正しく量る目を、持たなかった。
漢王が成皋に入ったという報を聞いてから、項王が再び中原に現れるまで、数日も要らなかった。
彼は、愛馬の騅を駆って、誰よりも先に現れた。
着くや否や、滎陽に留めておいた残余の兵卒を叱咤して、総攻撃を命じた。
「この私に、続け！遅れる者は、斬る！」
滎陽城を陥とせば、その先に漢王のいる成皋城が見える。
「漢王！、、、今度こそ、逃さぬ。私は、お前に必ず勝つ！」
城壁の内から、雨のように弩（いしゆみ）が飛来した。
項王は、盾で防ぐことを禁じ、ひたすら進むことを命じた。
弓を受けて、兵卒は針鼠のようになった。
項王は、倒れることを許さなかった。
進んだ先には、無数の落とし穴が掘られていた。
落ちた穴の中には、鋭利に尖らせた乱杭が仕込まれていた。
項王は、怯まず進むことを命じた。
城壁に辿り着いた兵卒の頭上に、棘（とげ）を生やした巨大な棍が、振り下ろされた。
連挺（れんてい）という、守城武器であった。城壁の上から棍に太綱をくくり付けて振り下ろせば、振り子となって壁下の敵に痛打を与える。弓矢と違って、何度でも振り下ろして、敵を倒すことができた。
項王は、うなりを挙げて打ち込まれた巨大な棍に、あやうく殺されそうになった。
騅の素早い動きが、項王を救った。
彼の周囲にいた歩卒たちは、棍に叩きのめされて、直ちに息絶えた。
大将として、これほど敵の間合いに近づくのは、無謀に過ぎた。
しかし、項王のこれまでの勝利は、無謀をあえて冒して来たゆえに、得られたものであった。
項王は、大音声で叱咤した。
「―　項王、ここにあり！敵兵、我を撃てるか！」
恐るべき声は、晩夏の雷鳴よりも、空気を震わせた。
城内の兵はおろか、城外の攻める歩騎たちまでが、恐れて一瞬手を止めるほどの、項王の気迫であった。

滎陽が陥ちたのは、その日の夕刻であった。
城内は、すでに食も尽きて、意気沮喪していた。
そこに、項王の霊気を受けた楚兵どもが、襲い掛かった。
彼我の勢いの違いが、一日で結果を出した。
あまりの早さに、成皋に入ったばかりの漢軍は、何もできなかった。
これで、成皋は孤立した。
項王は、兵卒を成皋に続々と送り込んで、強烈に包囲した。もう、敵は戦えない。
漢王が成皋に入ったことは、漢をまたも窮地に落とし込んだだけであった。
陥ちた滎陽城の中から、守城の将が、楚軍によって捕らえられた。
周苛と、彼の配下の樅公（しょうこう）の両名であった。
周苛は、項王の前に引き出された。
項王は、彼に聞いた
「周苛、、、漢王の、配下であるか。」
周苛は、うなずいた。
項王は、聞いた。
「お前一人で、守っていたのであるな。逃げた漢王の、ために。」
周苛は、答えた。
「そうだ。」
項王は、言った。
「漢王などは、仕えるに値しない人間だ。人を置き去りにして、自分だけが逃げる。」
周苛は、言った。
「その通りだ。」
項王は、言った。
「ならば、この私に従え。従えば、三万戸の上将軍にしてやろう。」
周苛は、言った。
「答えよう―」
直後、項王の顔が、ひきつった。
周苛は、面前の項王に、唾を吐き掛けたのであった。
項王は、顔を拭い取って、激怒した。
「―　貴様！」
周苛は、言った。
「項籍！、、、武勇で、この中国を治められると思うな！人食いの、虎狼めが。お前などは、漢の敵ではない。禽獣は、速やかに人間の支配に服すがよいわ！」
項王は、怒りに燃えた。
「―　私は、人間だ！」
周苛は、応じた。
「もし人間ならば、お前のような人間は、この世に要らぬ！」
項王は、拳を震わせて、言った。
「どうして、そのようなことを言うのか、、、！」
周苛は、言った。
「俺は、沛のつまらぬ小吏よ。つまらぬ人間だから、お前のような生き方が、心底から嫌いなのだ。せいぜい、強がるがよいわ。いずれ、お前には死だ！」
周苛は、項王を嘲笑った。
項王は、叫んだ。
「―　烹（に）ろ！、、、烹て殺せ！」
周苛は、最後に項王に言い放った。
「だから、お前は亡びるのだ、、、は！は！は！はは！ははは！」
周苛は、引き立てられて行きながら、笑い続けた。
彼の笑う心は、いつしか自嘲に変わっていた。
（高官などに、ならず、、、）
彼は、瞼を閉じて、遠い沛の郷里を懐かしんだ。
（、、、できれば、郡吏のままで、ありたかった。）
周苛と樅公の両名は、烹殺された。

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   <title>二十六　勝つのは俺だ（２）</title>
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   <published>2008-05-12T04:12:50Z</published>
   <updated>2008-05-12T04:26:09Z</updated>
   
   <summary>兵という凶器を操って、戦という殺し合いの場で結果を出せるかどうかという、武将とし...</summary>
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         <category term="203背水の章" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suzumoto.s217.xrea.com/blognovel/">
      兵という凶器を操って、戦という殺し合いの場で結果を出せるかどうかという、武将としての才能について、漢王は項王に遠く及ばなかった。
      せっかくの漢軍の優勢が、たちまちにふいになった。
敵を侮った漢王は、当然の報いを受けた。
敵と正面から立ち向かったのは、殊勝であった。しかし、敵を知らず、自軍を知らず、国家の資源を浪費して、自分の身すら危くなった。
誰か他人の力を借りない限り、漢王に将才はない。それが、結論であった。
だが、漢王には、一つだけ凡将にはない才能があった。
「―　逃げる！」
彼は、成皋に入ったその時から、自分の判断が過ちであったことに気が付いた。
楚軍は信じられない速度で滎陽を陥とし、怒涛のように成皋を押し包んで来た。
その敵軍の勢いを見た瞬間に、彼は逃げる判断をした。
「逃げるぞ。夏候嬰！馬車を出せ！」
夏候嬰は、呆れた。
「真っ先に逃げて、守兵はどうするのですか！」
漢王は、部下を一喝した。
「守兵など、知るか！奴らは、俺の命を狙っているのだ。俺が逃げることが、大事だ！、、、おーい、物ども、ぐずぐずするな！包囲される前に、逃げ出せ！」
漢王は、漢軍の首脳たちに、成皋を捨てて逃げることを命じた。
富強な漢軍にとって、兵卒などは使い捨てである。王と、首脳たちが生き残れば、いずれまた再起できる。漢王は、その結論に飯時を選ぶような自然さで、至った。
極限の瞬間に、情などに迷わされず、己の利益を計算して素早く動く。
己が生き残るために見せるここぞという時の漢王の判断力は、動物的ですらあった。漢王の、大才であった。
夏候嬰の御する馬車は、城の北門から遁走した。
成皋は、項軍が包囲してから、程なく陥ちた。

「負けた、、、」
夏候嬰の御する馬車は、主君を乗せて、全速力で逃げ出していた。
漢王は、爽快なまでに速く、それなのに揺れもせず進む夏候嬰の運転が、何よりも好みであった。
「負けた、、、」
彼は、座席に腰を降ろして、頬に快く当る風を、敗残の身の慰めとしていた。こんな敗走は、いったい何度目であろうか。
夏候嬰は、振り向きもせずに、馬の手綱を精妙に操っていた。
後ろの男が主君であり、王であるから、彼に従うのは是非もないことであった。彼には、勝ち残ってもらわなければならない。すでに漢は、天下の大諸侯なのである。沛以来ずっと付き従って来た夏候嬰が、今さら裏切るわけにはいかない。漢王国は、漢王のものだけでなくて、沛以来の者どもの国でもあった。
後ろで、漢王がわめき散らした。
「負けた！負けた！、、、また、負けた！」
漢王は、頭を抱えた。
「どうして、こんなに弱いのか！なんで、項羽一人に勝てないのか！」
夏候嬰が、振り向きをせずに、主君に言った。 
「項羽は、それだけ強いのです。お言葉ですが、大王が正面から戦って、勝てる相手ではありません。」
漢王は、怒りと嘆きをないまぜにして、言った。
「俺は、もと沛の泗水の亭長だ。馬に跨り剣で斬り結ぶのは、俺のするべきことではない。俺の配下が、項羽と戦わなければならん。なのに、俺の配下は、束になってもあいつに敵わない。なんと俺の下には、人がおらぬことよ。能無しだ。全く、能無し揃いだ！」
夏候嬰は、むっとして言った。
「能無しで、申し訳ないですな！」
勝てないならば、無理に戦ってはならない。
それが、主君の取るべき判断であった。
なのに、今回の漢王は敵を侮って、攻撃を強行した。その判断が、悪いのである。責めは、全て漢王にあるはずであった。
夏候嬰は、言った。
「大王。あなたこそ、もっと己を知られよ。あなたのために、またも何という惨敗だ、、、」
漢王は、座席から怒鳴った。
「己のことぐらい、知っておるわ！」
夏候嬰は、返した。
「ならば、なんで項羽に勝つ見込みもないのに、戦ったのですか！」
漢王は、苦渋の声色で、返した。
「黙れ！、、、俺には、俺の考えがある。今の俺は、のうのうと引き籠っておられないのだ。戦って、俺もまた勝てることを、見せ付けなければならない。だが、、、」
とたんに、漢王の中に、屈辱と怒りの感情がこみ上げて来た。
「―　今ごろ俺の敗北を、笑っているか、、、孺子（こぞう）！」
漢王の脳裏に、項王の姿が写った。
彼の若く、勇ましく、そしてあまりに美しい姿が、羨ましく妬ましかった。漢王には、決してないものであった。
だがすぐ後に、項王には到底勝てそうにないと、思った。彼は、神人であった。神人に嫉妬するのは、よくない。
それで、漢王は考える先を変えた。
自分がまたも武勇の名を傷付かせた中で、あの若い天才は、さらに天下に浮かび上がるであろう。
「俺は、奴にも劣るというのか―！」
漢王の額に、青筋が走った。
そのとき、彼にひらめくものがあった。
「夏候嬰。」
漢王は、前に向けて声を掛けた。
「はっ！」
答えた夏候嬰に対して、漢王は、命じた。
「―　このまま、北へ向かえ。」
夏候嬰は、聞いた。
「北？、、、どちらへ？」
漢王は、言った。
「河を、渡るぞ。修武に、行く。」
夏候嬰は、ぴんと来た。
「―　韓信の、ところへ。」
漢王は、答えた。
「お前と、俺の二人だけだ。」
夏候嬰は、一息付いた。
「大王、、、あんたには、呆れる。」
漢王は、笑った。
夏候嬰も、笑った。
漢王を乗せた馬車から、敗走の最中にも関わらず、高笑いが聞こえて来た。
漢王は、意気高らかに叫んだ。
「俺が、天下の主だ！、、、俺が行くところに、人は道を空ける！」
夏候嬰は、気合の抜けた声で応えた。
「なんという、人だ、、、」
漢王は、自ら招いた敗北を、自らの手で勝利に変えるために、北へ進んだ。


―　第八章　背水の章・完

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   <title>一　盗賊王が盗む（１）</title>
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   <published>2008-05-13T02:30:25Z</published>
   <updated>2008-05-13T02:30:52Z</updated>
   
   <summary>広大な河水（黄河）の上を、取り立てて目立った特徴もない一艘の渡船が、進んでいた。...</summary>
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      広大な河水（黄河）の上を、取り立てて目立った特徴もない一艘の渡船が、進んでいた。
      船の上には、老いた船頭と、それから他に漕ぎ手が二人。
客もまた、二人しかいなかった。
船頭は、南岸から載せた二人の客を、さっきからずっとじろじろと眺めていた。
河の中途まで、船頭と客とは何の会話もなかった。
ようやく中途に差し掛かった頃、おもむろに船頭が語り掛けた。
「―　あんたら、何者だ。」
右の男は、答えた。
「廐司御で、ある。」
廐司御と言えば、郡県に属する馬車の運転手であった。まことに、けちな卑官にすぎない。確かに、男の服装は、地味そのものの官服であった。しかし、立派な体格をしている。
左の男は、答えた。
「県の属吏で、ある。」
だが、その風貌は、属吏というよりは浮浪人のようであった。
毛布で出来た粗末な褐（かつ）などを着込んで、顔は煤けて真っ黒であった。
その上、髭は無造作に切り取られていた。
（―　嘘だ。）
船頭は、見抜いた。
彼は、属吏と称する男から漂う汗の匂いで、すぐに分かった。
女を毎夜不自由無く抱いている男からは、匹夫とは違う匂いがする。精気の脂が、前夜の褥できれいに拭い取られているのである。
（この歳で属吏ごときならば、現世の快楽に手を伸ばす志を諦めた、取るに足らぬ小人だ。そのような奴が、色欲を満たして生きる力など、あるわけがない。こいつは、欲のままに生きて、死なずに生き残っている奴だ。間違いが、ない。）
いくらみすぼらしい風体をしていても、多くの客を見て来た船頭は、見通すことができた。
船頭は、思った。
（身分を隠して、何をしようというのか―）
船頭仲間は、この時代、当然追い剥ぎもする。
金目のものを持っていそうであったり、人質として儲ける見込みがあれば、容赦なく襲う。船の上では、逃げようもないからであった。
若い漕ぎ手たちは、船頭からの指図を待って、ちらちらと目配せする。
船頭は、いまだ動かずにいた。
「おい、船頭。」
左の属吏と称する男が、声を掛けた。
船頭は、答えた。
「何だ。」
属吏と称する男は、彼に言った。
「言っておくが、金などないぞ。」
船頭は、びくりとした。
属吏と称する男は、相手が飲まれたと見て、言葉を畳み掛けた。
「俺たちを対岸まで連れていけば、後でくれてやれるかも知れないがな―　だが今は、お前たちに渡した船賃で、我慢しろ。それ以上は、銭一枚すら持っていない。というか、乗る前に全部河に捨てた。」
浮浪人のような属吏が、にやりと笑った。
船頭は、思った。
（こいつ、間合いを知っている、、、）
彼は、この属吏が後ろ暗い世界の住人であることを、直感した。
属吏と称する男は、言った。
「本当に、ないぞ。ここで脱いで、見せてやろうか？」
そう言って、上着の前をはだけた。
本当に、全部脱いでしまいそうな、男の勢いであった。
船頭は、手を振って制止した。
「止せ、、、男の裸など、見たくもないわい。」
男は、薄ら笑って、手を止めた。
白い肌に、黒子が目立つ胸であった。
たとえ船頭たちがこの客を襲おうとしたとしても、彼の横にいる廐司御の腕力があれば、三人ともかえって河に叩き込まれたであろう。
廐司御と称する男は、無言で睨みを聞かせていた。
船頭は、それ以上の問答を止めた。
こうしている間に、船は北の対岸に向けて、進んでいった。
対岸から向こうは、趙の版図である。
（そういえば、俺は趙に行くのは、これが始めてだな、、、）
属吏と称する男は、ようやく見えて来た対岸の地を眺めながら、思った。
船は、渡し場に着いた。
渡し場には、趙の官吏が常駐している。
二人の男は、官吏に見咎められたりしないように、このような目立たない服装をしていたのであった。
船頭は、属吏と称する男との別れ際に、彼に拝礼して言った。
「ご尊名を、教えていただけませんか？」
船頭は、この男がただものではないと、結論していた。
男は、言った。
「そのうち、誰でも知るようになる―」
船頭は、言った。
「我は目に一丁字すらない賤民でございますが、我が船頭仲間の一人に、身を隠した一個の賢者がおります。候公と、申す者です。よろしければ、彼をお引き立てくださいませ。」
男は、言った。
「身を隠している以上は、乱世に連れ出すわけには参るまい。その候公には、世が平らかになる時に立たれよと、申すがよいさ。」
そう言い残して、男と廐司御は呵呵大笑しながら、歩き去って行った。

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   <title>一　盗賊王が盗む（２）</title>
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   <published>2008-05-14T03:57:03Z</published>
   <updated>2008-05-14T03:57:44Z</updated>
   
   <summary>趙軍は、修武の城内に陣営を置いていた。...</summary>
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         <category term="204国士無双の章" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suzumoto.s217.xrea.com/blognovel/">
      趙軍は、修武の城内に陣営を置いていた。
      すでに、朝夕は肌寒い季節となっていた。
朝はようやくほのかに暁の明るさが空の端を覆い始めた頃で、鶏鳴を聞くにも、城門が開くにも、まだ早い。
（昨日の、晩―）
韓信は、自室で床に着きながら、うとうとした頭で考えた。
頭の中はまだ覚めておらず、混乱する思考は途切れ途切れであった。
（黒燕が、ここにいた。）
彼は、添い寝をしていたはずの黒燕が、どうして横にいないのだろうかと、不審に思った。
再び、睡気が頭の中に、ぶり返した。
しばらく浅い眠りに沈んだ後に、また韓信は意識の世界に戻って来た。
（なんだ。夢の中の、ことだったか。）
彼は、思い直した。
それから、少し頭を傾げた。
（、、、いや。）
彼は、ようやく思考を進めた。
（確かに、横にいた。）
韓信は、昨晩のことを思い返した。
（そうだ。決してみたので、あった、、、）
彼は、ようやく黒燕に対して、夜を共にするように願ってみたのであった。
もちろん、黒燕が拒むわけがなかった。簡単な、ことであった。
夜着に着替えた彼女が、微笑んで侍っていた。
ほのかに照らされた彼女の姿は、持ち味のあの艶やかさではなくて、むしろ愛惜しさに満ちていた。
（なのに―）
韓信は、思った。
（今、いない。）
彼は、重い頭を、床に押し付けた。
（笨蛋（ばかもの）だな―　この私は。）
彼は、せっかくの夜を、睡魔が襲うに任せてしまった。
少し横にならせておくれ、と彼女に言ったのが、結局のところ、昨晩の意識の最後であった。
確かに、昨今の彼は、神経をすり減らす毎日であった。
南の戦線は、予想した通りに、漢軍にとって最悪のものであった。
趙軍の諸将の間では、無益な戦への怒りが、沸騰する寸前であった。
韓信は、内と外との状況の渦中にいた。彼の意思は、漢にとっても趙にとっても、否応なしに大きな意味を持っていた。
彼は、意を決しなければならなかった。その時は、すぐ先に迫っていた。
（その前に、喜んでいられない。そんなことを、私は思ったのだろうか、、、？）
韓信は、昨晩の恥ずかしい始末について、何とか正当化しようとした。
（情けなし。漢王などだったら、飯を食うように、やり遂せていたろうに、、、）
自分と国の、進退のことも。
もっと近しくて、隠微なことも。
彼は、とりとめもない思考の中で、黒燕の姿を目の裏に描いた。
彼女が横にいなくなったのも、当然だと思った。
（済まなかった。だが、今日こそは、、、）
手足はいまだに眠っていて、思うように動かなかった。
頭だけで考えるのは、縛られたようで苦しかった。
（頭だけ考えて、手足が動かない。今の、私のようだ―）
遠くから、朝一番の鶏鳴が、聞こえて来た。
（今日、こそは、、、）
彼は、決意したつもりで、再び眠ってしまった。
どのくらい、眠ったのであろうか。
気が付くと、閉じた瞼を通す光の量は、かなり増えていた。
しかし、日が明けるには、まだ早い。室内が、何とか見通せるぐらいの明るさであった。つまり、少しまどろんだ程度にしか、時は過ぎていなかった。
気配を、感じた。
人の、気配のようであった。
（黒燕？）
韓信は、最初に思った。
瞼を、開け閉めした。
（彼女、ならば、、、）
謝らなければ、ならない。
韓信はそう思って、首を上げようとした。
眠る四体に力を入れて、体を動かした。
彼は、ようやく上体を上げた。
昨晩彼女がいた、床の左横を向いた。
誰も、いない。
（こちらでは、なくて、、、）
彼は、首を回して、反対の右横を向いた。
靴先が、見えた。
（―　誰？）
寝所の床に、土足で入るのは尋常ではない。
韓信は、顔を上げた。
女では、なかった。
背の高い男が、いた。
汚れた頬をして、まるで浮浪人のようであった。
韓信は、驚愕して、顔を強張らせた。
男は、韓信に言った。
「ようやく、起きたか。言え。お前の印綬は、どこだ！」
男は、恐ろしく低い声で、左丞相の印綬の置き所を、韓信に尋ねた。

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   <title>ニ　巨悪ここにあり（１）</title>
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   <published>2008-05-15T02:49:54Z</published>
   <updated>2008-05-15T03:04:00Z</updated>
   
   <summary>韓信は、驚きのあまりに床から飛び出そうとして立ち上がれず、腰を抜かした恰好となっ...</summary>
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         <category term="204国士無双の章" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://suzumoto.s217.xrea.com/blognovel/">
      韓信は、驚きのあまりに床から飛び出そうとして立ち上がれず、腰を抜かした恰好となって、見下ろす男に対した。
      彼は、もつれそうになる舌から、ようやく声を出した。
「大王！、、、どうして、ここに。」
彼から大王と呼ばれる男は、一人しかいない。
彼を遠征軍の長に任じた男、漢王劉邦であった。
漢王は、韓信を見下ろして、言った。
「どうしてもこうしても、あるか。この趙は、俺の国だ。兵権を、返してもらうぞ。言え！印綬は、どこだ！」
韓信は、言われるままに、褥（しとね）の下に手を伸ばした。
彼の愛用の長剣が、下から取り出された。寝る時には、床の隙間に長剣を挟んで、危急の時に備えていた。
印綬は、長剣の柄に結わえ付けられてあった。
「ふん。」
漢王は、彼から長剣をひったくって、さっさと印綬を外した。
韓信から印綬を取り上げた彼は、漢軍の兵権を全て回収した。
「次は、趙王だ―！」
漢王は、長剣を韓信に放り投げて返した後、もう韓信に背を向けて、室から出ようとした。
韓信は、長剣を抱えたまま、呆然と漢王の背中を見た。
もし彼が項王ならば、このとき迷わず、長剣で漢王を真っ二つに斬っていたであろう。
しかし、韓信は項王の蛮勇を持つには、あまりに性が平凡人であった。
漢王は、それ以降韓信に何も声を掛けず、どかどかと足音を立てて、寝所から去って行った。
漢王がここにやって来たのは、全くの不意討ちであった。
彼は、夏候嬰ただ一人を連れて、大胆にも朝まだ明けぬ頃に、修武の城内に入り込んだ。
「―　我らは、漢からの急使である。通せ。」
夏候嬰は、城門を閉める門衛に、言上した。
門衛は、通すことを渋った。
「使者ならば、節旄（せつぼう）がなくては、、、」
国家の使者ならば、委任のしるしとして節旄という飾り付きの旗を持つのが、外交上のきまりであった。門衛は、そのことを言っていた。
夏候嬰は、門衛を一喝した。
「急使であるぞ！、、、事は、一刻を争う。まさか急使を追い返すのが、お主の職務であるとでも言うのか。吟味などは、後にしろ！」
門衛は、二人の息急いた調子と、やつれた身なりを見て、彼らが本当の急使であると思ってしまった。急使ならば、外交の儀礼の外として扱わなければならない。
急使と称して二人は、まんまと城内に入り込んだ。
漢王は、まず漢軍の副将である曹参の陣営に飛び込んだ。
「曹参！、、、今日は、忙しいぞ。」
「あ！」
叩き起こされた曹参は、漢王の姿に驚いた。
漢王は、曹参と夏候嬰に、直ちに作戦を命令した。
曹参は、否応なしに漢王の味方である。
漢王は、曹参の名を使って、韓信の陣営に入り込んだ。
漢王が突如として韓信の寝所に現れたのは、このような経緯であった。
このときすでに、曹参と夏候嬰は、漢軍を率いて趙王張耳の寝込みを襲っていた。
全くの不意を突かれて、張耳の陣営は完全に包囲された。
韓信のもとを去った漢王は、悠然として張耳の陣営に乗り込んだ。
「―　趙王。兵権の印綬、差し出してもらおうか。」
漢王は、張耳の前に現れて、要求した。
張耳は、震える手で印綬を渡した。
漢王は、漢軍と趙軍の両方の印綬を手に持って、号令した。
「全軍の将官に、告げよ。直ちに我が前に、集まるべし。兵権は、この印綬にあり！」
朝の修武城内は、にわかに騒然となった。
この頃、遠く離れた南の戦線では、漢軍の股肱たちが成皋城を捨てて、めいめいに逃げ出している最中であった。
軍師の陳平は、漢王が城に入るや否や逃げ出したことを聞いて、内心それ見たことかと嘲笑っていた。配下の進言を聞かない罰が降ったのだと、彼は思った。彼は漢王が逃げ出すことを予想して、わざと成皋に入るのを遅らせてゆるゆると進み、無様な遁走を避けることができた。
しかし、その後で漢王が取った行動を聞いたとき、彼は舌を振るって驚いた。
（漢王、身一つで、趙を盗むか。なんという、恐るべき男！）
誰にも守られず、君主の体を他国の本拠地に送り込んで、国を奪ってしまう。
とても、天下を二分する大王の、行動ではない。
（、、、野人！）
漢王は、まさに野人であった。
陳平は、感嘆しながら、漢王の手際を思った。
（もし、彼が兵を挙げて趙の軍を回収しに行ったら、どうであったか。それこそ、趙の思う壺だった。きっと張耳は、ござんなれと河を閉じて、一戦構える態勢を取ったであろう。そして、蒯通は今度こそ趙と楚を、合わせたであろう。その時に、あの韓信が漢王に付いた可能性は、おそらく低かった、、、）
漢王は、誰にも気付かれることなく相手の懐に潜り込み、相手の腹の中で大王であるという事実を使って、兵権を奪い返した。趙は、一粒の猛毒を腹の中にねじ込まれて、死んだ。
それにしても、何という鮮やかな飛躍であろうか。
何という、大胆な権力者であろうか。
その手腕は、始皇帝すら越えていた。
陳平は、このときこそ、観念した。
（敵わぬ！）
自分は、漢王に到底敵わない。
（あの野人には、到底敵わない！―　天下は、彼のものだ！）
もはや、陳平の今後の仕事は、彼を勝たせるまでだ。勝たせて、皇帝にまで仕立て上げるより、他はない。そう彼は、修武から遠い空の下で、思った。

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   <title>ニ　巨悪ここにあり（２）</title>
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   <published>2008-05-16T03:18:21Z</published>
   <updated>2008-05-16T13:33:39Z</updated>
   
   <summary>―　漢王には、気を付けるのよ。...</summary>
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      ―　漢王には、気を付けるのよ。
      以前に黒燕が韓信に与えた忠告を、彼は今になって噛み締めるどころか、この男の真の恐ろしさに彼は打ちのめされてしまった。
韓信は、いまや印綬を取り上げられて、無位無官に落とされた。
無位無官の者に、指揮する権限はない。
彼は、呆然としながら、朝の陣営で置いてけぼりにされた。
漢王は、修武城内に駐屯する趙・漢の諸将百官ことごとくを、自らの前に召集した。
印綬を握った漢王は、彼らが考える間を与えず、すかさず組織の原理を発動した。
漢王は、諸将百官の任命権者として、片っ端から更迭を行なっていった。
漢王は、趙の将官すべてを、罷免した。
さらに、漢軍の中で確実に自分に忠誠を誓っている曹参などを除く疑わしい将官もまた、取り除いた。
こうして、張耳と韓信に影響された将官は、一人残らず追放された。
大粛清の任免は、延々と続いた。
終わった時、趙国は完全に漢の傀儡国家と化していた。
漢王は、宣言した。
「中原で、漢はまたしても楚に敗れた。今後、漢はこの趙を本拠地として、項王に当ることとする。余もまた、この趙に本陣を置く。」
このまま居座る理由は、楚と戦うためだけではない。
漢王には、思惑があった。
漢王の狙いは、このとき明らかに張耳と韓信の二人であった。彼らの野心の源を、徹底的につぶすこと。そのことに、彼は全力を注いだ。疑わしい同盟国と強力な配下を骨抜きにすることを、漢王はこのとき項王と戦うことよりも、優先した。大敵に正面から戦って勝てないならば、脇の獲物を喰らえ。それが、漢王の貪欲な勝利への道であった。
漢は、趙国を手に入れて、再び強大となった。
漢王は、更迭を終えた後、再び張耳のもとにやって来た。
漢王は、すっかり表情を改めて、にこやかな長者顔でかつての兄貴分に面会した。
彼は、猫なで声で張耳に話し掛けた。
「趙王―　あなたは、ご高齢だ。この際、太子に政（まつりごと）の権を譲られよ。太子には、わが娘の魯元公主を娶わせることにしたいが、如何（いかが）かな？」
漢王は、顔いっぱいに笑みを浮かべて、張耳に提案した。
漢王は張耳を引退させ、太子の張敖を自分の婿にして、かれを一生支配することに決めた。
もはや、勝負はあった。
提案を受けた張耳は、今はもう漢王に笑顔を返していた。
「もったいなき、お言葉でございます。漢と趙とは、唇歯の間柄となって、共に項楚と戦うことを誓いましょうぞ。」
張耳は、慣れた君子流の挨拶で、漢王に答えた。
両者は、笑い合った。
漢王の笑いには、勝者の毒が込められていた。
（残念だったな、張耳。）
張耳の笑いの後ろには、苦い無念が沈み込んでいた。
（ついに俺は、こいつに勝てなかったか！）
任侠の世界で結び付いて以来、長らく続いた二人の虚虚実実の関係は、もとは匹夫の漢王が出世して勝利した。もとは大任侠であった張耳は、ついに漢王に組み敷かれて、終わろうとしていた。
漢王は、次に韓信を呼び出した。
韓信は、重い足取りで、漢王の前に現れた。
「―　座れ。」
漢王は、韓信に命じた。
韓信は、言われるままに、座った。
漢王は、下命した。
「韓信。お前を、改めて趙の相国とする。」
相国、すなわち漢でいえば蕭何の就いている丞相と同じである。家臣としての最高位に移らされたことを、意味していた。
だが韓信は、喜びもせずに、うなだれて答えた。
「承知しました、、、」
漢王は、気にせず命令を続けた。
「相国の名で趙から兵を徴集して、直ちに斉を攻めろ。曹参、灌嬰を副将として付けてやろう。」
横で聞いていた曹参は、朝の発令によって漢の右丞相に昇格していた。
彼は、思った。
（厄介払い、だな、、、）
韓信を、趙から追い出して別の戦に放り出すのが、漢王の真意であると読めた。韓信の名声は、大きすぎる。形だけ栄転させて、彼に群がり集まる野望を散らして挫くことが、この国士無双の軍略家を取り扱う、漢王の最上の方法であった。
曹参は、思った。
（大王にとって、斉との戦など、もはやどうでもよい。おそらく、大王は韓信に戦わせないつもりであろう、、、）
曹参は、漢王の底意地の悪さを、思った。だが、死生を賭けて戦う君主としては、致し方のないことであった。
漢王は、韓信に対して、言った。
「河北の平定、骨折りであった。今後とも過たず、漢のために働け。」
韓信は、ようやく顔を上げて、漢王に言った。
「―　趙国は、疲弊しています。軍を募ることは、できません。」
漢王は、言った。
「趙は、俺の国だ。この国をどう扱うかは、俺が決める。お前が軍を募ることができないならば、一人で斉に行くがよい。お前は、軍人であろうが。戦う以外のことを、考えるな。」
漢王の言葉は、言外に警告を出していた。
彼は、韓信に言った。
「直ちに、斉に向かえ。それまで、俺はこの趙に留まることにする。」
漢王は、そう言い残して、席を立った。
韓信は、下座に取り残された。
彼のところに、これまで漢王の後ろにいた夏候嬰が、歩み寄って来た。
「相国―」
夏候嬰は、力の抜けたような韓信の手を取って、立ち上がらせた。
彼は、韓信を連れて、陣営にまで送っていった。
道すがら、彼は小さい声で、韓信に話し掛けた。
「相国。あなたは、もう私より、ずっと位が上です。ですが、年齢は私の方が上です。それで、どうか年齢の長幼に免じて、私の言葉を、聴いていただけませんか？」
「はい、、、」
韓信は、黙ってうなずいた。
「年長者として、話します。許されよ。」
夏候嬰は、韓信の肩を、ぽんと叩いた。
「君は、強すぎる。そして、弱すぎる―」
夏候嬰は、自分より韓信を励ますつもりなのか、たしなめるつもりか、それとも漢王の家臣として牽制を込めてか、彼に言った。
「それでは、人を利用する漢王に、使われるばかりだ。だが、あきらめろ。残念ながら、それが君の器だ。たとえ無念であったとしても、こんご漢王に勝とうなどと、決して思ってはならない。もし君がそう思ったとき、君は漢王の恐ろしさを、もっと知ることになるぞ。」
そう言った後、夏候嬰は一礼して、韓信のもとを去った。

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   <title>三　奪われて進む（１）</title>
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   <published>2008-05-17T04:50:20Z</published>
   <updated>2008-05-17T04:50:54Z</updated>
   
   <summary>陳平は、成皋にまで進んだ楚軍の西進を阻むために、漢兵を並べて防禦に当っていた。...</summary>
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      陳平は、成皋にまで進んだ楚軍の西進を阻むために、漢兵を並べて防禦に当っていた。
      守る将兵たちは、このまま項王軍が関中まで突っ切るのではないかと、震えて恐れていた。
陳平は、彼らに言った。
「案ずることは、ない。楚軍の破壊力は確かに恐るべきであるが、彼らが狙う漢王は、すでに趙に逃げてしまっている。楚軍は、勇戦するばかりで戦略を知らない。我が方の広大な戦線を活用して固く守れば、やがて勢いは尽きるより他はないのだ。」
東では、彭越が早くも活動を再開していた。この鼠のような盗賊は、決して死ぬことがない。楚軍は、またも彼に向こう脛を噛み付かれて、悲鳴を挙げることであろう。
陳平は、思った。
（それでも、項王の神威はいまだに衰えていない。彼が率いる江東の強兵は、諸国の恐怖である、、、）
遺憾ながら、漢軍の誰をもってしても、項王とその兵を叩きのめすことができない。
（もし、できるとすれば―　それは、ただ一人か。）
陳平は、しかし首を横に振った。
（彼は、用いることができない。もう、彼の役目は、終わったのだ。終わらせなければ、ならない。）
陳平は、いま脳中にある男の名声が、これ以上漢王を翳らせることの政治的な損失を、憂えた。
（漢王は少しも勝っていないのに、彼だけが赫々たる戦果を収め、すでに世の語り草となっている。このままでは、漢を勝たせたのは韓信であるという評判が、世に固まってしまう。それは、何としても避けなければならない。漢は、漢王が受けた天命により、勝つのだ。後世の歴史には、そう書かせなければならない。たとえそれが、真実と違うものであったとしても―！）
彼は、漢王配下の名将として、このまま終わらなければならない。じじつ、彼はいま漢王により実質的な力を奪われて、終わらせられようとしていた。
陳平が憂うその男は、このとき修武の陣を引き払い、一人で北に向かう用意をしていた。
彼の横には、鄧陵子と小楽の二人がいた。
小楽は、漢王の仕打ちに、憤りが止まなかった。
「何という、詐欺師であるか。何という、厚顔の君主であるか！功績隠れもない韓子を、まるで追い出すように、北へ向かわせるとは！」
鄧陵子は、怒る彼の震える肩を、手で掴んだ。
彼は静かに、小楽に言った。
「小楽よ。これが、政治なのだ。政治とは、人間の常の善悪が、通用しない世界。漢王は、我らよりもより多く、政治家であった。」
小楽は、やり場のない怒りの余りに、声を挙げて泣いた。
彼は、涙声で言った。
「才あり、力あって、世に名を高めると、人は善を捨てなければ、ならないのですか！、、、鄧陵子、そうなのですか！」
鄧陵子は、泣き続ける彼の肩を持って、目を閉じた。
韓信は、彼らと声を交すこともなく、うつむいたままで、彼の行李を荷造りしていた。
行李の中には、彼が作成した斉国の地図が、何十枚も詰め込まれていた。斉は趙を上回る大国で、貯える兵数も数十万を数える。しかし、以前に項王の侵攻を受けて、国土はひどく痛んでいた。その国に、韓信は兵を進めなければならない。
韓信は、自分に向けて語る調子で、つぶやいた。
「斉は、以前の侵略の遺恨がある以上、楚と結ぶ恐れはおそらくない。かといって、漢とも結ばない。それは、国主一族の田氏が、他国を見下しているからだ。放っておいても、害はない。もし漢が取りに行けば、田氏をかえって敵の楚に、走らせるばかりであろう、、、」
鄧陵子が、声を挟んだ。
「あなたは、それでも行かれるのか。」
韓信は、答えた。
「致し方、ない。私は、戦うより他になすべきことがないのだ。」
彼は、漢王の言葉を、思い出した。
―　お前は、軍人だ。戦う以外のことを、考えるな。
韓信は、思った。
（私は、いつしか自分のことを、考えていたのか。私の技は、確かにこの世に何ほどかの役に立っている。私は、だから軍人として、生きている。私は、それ以上のものは要らない。要らないにもかかわらず、私はいつか違う道を進んでいた、、、）
彼は、漢王に不意を突かれたことを、後悔した。
しかし、不意を突かれたのは、当然の結果であった。彼は、漢王に何も備えていなかった。
（愚かな、ことだった。）
韓信は、君主の貪欲と嫉妬心というものを、これまで知らずに過ごして来た。今、彼はそれらを思い知らされた。知らなかった自分が、悪いのである。
「致し方、ない、、、」
韓信は、両手で荷を固く結びながら、もう一度つぶやいた。
鄧陵子は、哀悼の目をして、肩をすぼめるばかりであった。
小楽は、悔しげに言った。
「一番上の奴だけが、嫉妬しても許される―　それが、政治なんだ！」
彼は、汚いことを聞きたくないという素振りで、両耳に手を当てて、震えるように首を振った。
韓信は、明日には修武を出なければならなかった。
これから北へ向かい、兵を募って、斉との境である平原津（へいげんしん）に向かう。
しばらく起居していた陣営の宿舎も、今日のうちに全て片付けた。
蒯通は、漢王が現れて以降、姿を見せなくなった。
（あいつにも、愛想を尽かされたか―）
韓信は、それも致し方のないことだと、思った。漢王を警戒すべしという彼の言葉は、正しかった。かといって、彼の薦めのとおりに、漢王から離反することなど、韓信にできることではなかった。だから、致し方のないことであった。
韓信は、夕陽の落ちる室内に、一人で佇んだ。
窓から挿す秋の陽は、長くて侘しかった。
落ちた葉を踏む音が、聞こえた。
音は、しかし窓の外からでは、なかった。
葉を踏んだと思った音は、床に散らばり重なる竹簡から鳴っていた。彼がこの室から発した下達の文書の、名残りであった。
韓信は、振り向いた。
「―　黒燕。」
現れた黒燕は、夕陽を受けて頬を赤く染めていた。
彼女の目は、頬の色とはまるで違って、暗く沈んでいた。

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