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第5回 輝く世界


「この国には何でもあるけれど、ただひとつ希望だけがない」というのは、確か村上龍が『希望の国のエクソダス』の早熟な少年に語らせた言葉だったと記憶しているが、彼の小説に共通する若年者の荒ぶるパワーに全ての変革を期待するストーリーはもはやこれからの高齢化社会に説得力を失わざるをえないとしても、確かに日本は自然から文物まで「その気になれば」何でも自分たちに納得できるモノを発見できてしまうので、「これがない」という不足感に心を痛めずに済む良くも悪くもお手軽な国だ。すでに、兼好法師がこんなことを言っている。

唐の物は、薬の外は、なくとも事かくまじ。書(ふみ)どもは、この国に多く広まりぬれば、書きても写しても、もろこし舟のたやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所せく渡しもてくる、いとおろかなり。
遠き物を宝とせず、とも、また、得がたき貨を尊まず、とも、文にも侍るとかや。

(『徒然草』第百二十段)

すでに法師は「舶来ものなんて珍しくないから尊重することないですよ」と言ってしまっている。つまりそれだけ輸入していたわけで、まことにこの国の民のモノへの貪欲さは昔から変わらない。そしてその舶来品をいつのまにかそこそこの国産品に代替してしまう才能も。一方イギリスなどは、キリスト教にとってかんじんかなめのワインが国産できない。あるのはゲルマン由来の下品なビールとケルト由来のヘンテコな地酒ウイスキーだ。これはひどい不足感だと思うが?

その分、逆にひとつひとつの文物に対する思い入れの度合いがもうひとつ熱くない。富士山などは国をあげて名山だ名山だと褒め上げ、私も名山だと思うが、これまでの日本人がこの名山にどのぐらい思いの丈を努力して投入したかというと、大してやっていないのではないか。山辺赤人の例の和歌と、北斎の版画ぐらいじゃないか。これではあまりにも淋しすぎる。名山あって名人なしだ。

書いているうちに、太宰治の『富嶽百景』もあったことを思い出した。あまり好きな作品ではないが。

その日本の四季始終ざわめく風景に比べれば、ロシア平原の長くてつらい冬などは、文物密度があまりにも希薄すぎて本当に「何もない」世界なのだろう。

ロシアが赤色を好むのは、白が陰鬱で単調な冬の景色を連想させるからだと、どこかで聞いたことがある。ちなみにロシア語で「赤い」という形容詞は"красный"(クラスヌイ)で、「美しい」という形容詞"красивый"(クラシヴイ)に似ている。モスクワのクレムリン前が「赤の広場」красная площать(クラスナヤ・プローシャチ) と呼ばれるのは、何もロシア革命にちなんで名付けられたものではなく、ロシア語の「赤」にはもとから肯定的な意味合いがあるのだ。

例えば居間の中でイコンが掲げてある一番神聖な場所は「赤い隅」красный угол(クラスヌイ・ウーガル) と呼ばれ、チョウザメのような最高級の魚は「赤い魚」красная рыба (クラスナヤ・ルィバ)と呼ばれるらしい。

その陰鬱な冬が終わった後の春の喜びがいかに大きいものであるかは、レフ=トルストイの『復活』の冒頭に刻み付けられている。あるいはストラヴィンスキーの『春の祭典』を聞け。はなやかなイタリア人ヴィヴァルディの『春』や、かすむようにおだやかなイギリス人ディーリアスの『春、初めてのカッコウを聞いて』とは全然違う爆発的な喜びがある。その喜びが大きすぎるために、いけにえは喜び死ななければならないほどなのだ、、、そして夏が来る。『アンナ=カレーニナ』の終末でレーヴィンは雲、雷、銀河の移ろう天を眺めて自分の子のことを思いながら、宇宙的予感に包まれる。生きる喜びを宇宙的に感じるロシア人だからこそ、あんなにもロケット開発に執着できたのではないだろうか?

一方、トルストイと並ぶ巨匠のドストエフスキーはひたすら狭い世界にこだわる。『悪霊』のステパン氏は醜悪の巷と化した物語の舞台である領地を脱出しようとして、果たせずに死ぬ。『カラマーゾフ』で父フョードルの家から逃げ出したドミートリーは、どこに行くかといえば女グル−シェンカのいるそう遠くない村へ出向いて行き、これでもかというぐらいに飲めや唄えやの大浪費をやらかして周囲を『まるでソドムだ!』とあきれさせる。ひょとしたら、茫漠としたロシアでは人間が人間として自我を抱えるためには、そして気を抜いて大地に溶けてしまわないためには、意図的に行動範囲を狭くしなければならなかったのかもしれない。ロシアの歴史はさほど深くない。ギリシャ人もローマ人もやって来ず、ルネサンスからも無視されたロシアにとって、素材としてあるのは古事記みたいな大仰な英雄物語と、素朴な民衆説話と、あとはひたすら聖書のみだ。そんな文物密度が低く、国境すら定かでないロシアでは、与謝蕪村のように京の都に和漢の歴史を投影させて心を慰めるような知の遊びをする術がない。極端に狭く世界を圧縮して、その圧搾熱で憑かれたように語るのがドストエフスキー流なのだろう。『悪霊』の登場人物でこの世界は何もかもがよいのだ、と言うキリーロフが実際には何もせずどこにも出かけない自殺思想者であるとは!だが、『悪霊』といい『カラマーゾフ』といい、狭い狭い世界の中で一分一秒が重大な事件となる「祭り」の空間が色濃く演出されている。『悪霊』や『カラマーゾフ』では、一日に何と多くのことが起こるのだろうか。ドストエフスキーはそうやって狭く濃厚な時空間を作り上げて、やはり宇宙を感じる瞬間を物語で作り出そうという戦略があったのではないか。

そして日本で人気のあるもう一人の作家、アントン・チェーホフ。彼は『陰鬱な話』(英訳名:A dreary story)など、ネガティヴな人生観を語った作家だとよく評価される。だが、彼はトルストイの信奉者だった。下で取り上げるようなペシミスティックな話の中には、世界の美しさ、素晴らしさを称える部分が必ず埋め込まれているのだ。世界そのものは素晴らしく輝いている。だが、人間のあやなす世界については何も解決できす、灰色である。これは矛盾じゃないか?なま半可な禅の者ならば、すぐに「多、即、一」などと言い出して、心が晴れ晴れとすれば全てがまるく美しく解決するのだ、などとのたまうだろう。だがチェーホフは宗教家ではないから解決などさせない。世界はきらきらと美しく輝き、かつ世界はくたくたになるまでほつれている。ロシア革命が成功しようが、ソ連が崩壊しようが、このチェーホフの登場人物の問いは、人間が人間である限り永遠にありつづける。

(オーリャ)「楽隊があんなにも楽しくゆかいに演奏してる。だからきっと、もう少ししたら、私たちがなんで生きているのか、なんでこんなにも苦しいのかがわかるときが、来るような気がするの。わかったらなあ!それさえわかったらなあ!」

(『三人姉妹』より)



≪ 今回のイチオシ ≫
チェーホフ『グーセフ』『故郷で』『犬を連れた奥さん』



このとき、頭上では太陽が沈んでいく方角に雲が集まり群がっていた。一つの雲はまるで凱旋門のようだった。別の雲はライオンのような形をしていた。また別の雲は一丁のはさみのようだった、、、雲の後ろからは幅広の緑の光線が突き出し、空のまんなかに向けて伸びていた。少し時間が経って、今度は紫色の光線が横に加わった。次に金色、そして薔薇色のものも、、、空はやわらかな赤紫色に変わった。この荘厳で、うっとりさせるような空を見上げる海は、はじめ荒れ模様だったが、すぐにこれもおだやかで、心地よく、かつ情熱的な色をたたえるようになった。これを人間の言葉でなんと名付ければよいのか、よくわからない。

上に掲げたのは、短編『グーセフ』(英訳名:Gusev)の末尾である。この話において、救いがあるのはこの末尾の美しい風景だけだ。後は絶望しかない。誰一人として救われない。ひょっとしたら死後に天国で救われるのかもしれないが、そんなことは人間にはわからない。

オレアンダに着いて二人は教会からそう遠くないベンチに腰掛け、海を見下ろし、黙っていた。ヤルタは朝もやでほとんど見えなかった。雲は山頂で静かに留まっていた。木の葉はそよりともせず、朝ぜみが鳴いていた。単調でうつろな海の音が下から聞こえてきた。海の音は、やがて私たちを待ちうける安息の、永遠の眠りの響きを聞かせていた。その響きはこの地上にヤルタやオレアンダなど存在しなかったときから絶え間なく鳴っていたに違いなく、今ここで鳴り、そして私たちが最早いなくなったときでも同じように単調に鳴り響き続けるだろう。この悠久さのなかにこそ、この私たちの生死など超越した完全な無関心のなかにこそ、たぶん私たちへの不滅の救いの約束が、絶え間なく続く地上でのなりわいの約束が、そして完全への無限の進歩の約束が、密かに込められているに違いない。曙の光に美しく映える若い女性のそばに座り、まわりの夢のような風景 −海、山、雲、そして広い空− に癒されて虜になって、グーロフは思うのだった。本当は何と世界のあらゆるものは美しいのだろうか。じっくり考えてみればわかることなのだ。私たちは人間の尊厳と存在のもっと大きな目的を忘れるとき、思ったりしたりすることが美しくなくなるのだ。

『犬を連れた奥さん』(同:The lady with the dog)で主人公グーロフが一種の覚醒を起こすシーンである。だがこの話もそうやって美しいものに目覚めたグーロフと人妻アンナに幸せは訪れない。世間の目に絡み取られ、かといって逃げ出すことも恐ろしくてこっそり密会するだけだ。そして結末は二人のこれからへのほのかな夢と前向きな決意だけで終わってしまう。

ステップが続く、続く、、、馬たちは駆け、太陽はどんどん高く昇る。ヴェーラは子供のころには6月のステップがこんなにも豊かで豪華だなんて思いもよらなかったと感じた。野の花は緑色、黄色、赤紫色、白色。心地よい香りがそれらの花としめった土から立ち昇った。道の横に沿ってふしぎな青い鳥たちがいた、、、ヴェーラは長いこと祈る習慣をなくしていたが、今は、襲い来る眠気と闘いながら、つぶやいたのであった。
「主よ、願わくはこの地で私が幸せでありますように。」

『故郷で』(同:At home)の初めのほうで、産まれ故郷のステップに帰るヴェーラの沸き立つ喜びの個所だ。だかやっぱりヴェーラはだんだん幸せでなくなっていく。あれほど輝いてみえた故郷のステップも、帰ってきたヴェーラを心から歓迎した単純なおばさんも、ヴェーラの心が世間の愚劣さによって曇ると共に色を失っていく。この話については、最後の最後に前向きな結末をつけているのだが。

人間の世界はそう簡単に解決されない。それこそが近代小説のネタなのだが、チェーホフはそこに美しく輝く世界を対比させて、人間に崇高なものへの予感と祈りの心を起こさせる。多くの作品では、登場人物の抱える問題は解決されないままに結末となる。読後には絶望感だけが残る。そうだ、世界は絶望なのだ。しかし、上の作品のように、チェーホフは美しい世界をまた描写してここではない、何かがあるのではないかとほのめかすのだ。そうだ、世界は輝いているのだ。ここにはロマン主義ほど安易でない絶望とあこがれがある。日本近代小説が真剣に取り組むことを回避した世界の本来的な矛盾だ。斜に構えて世界の美しさだけを見ようとするか、人間を調和させて世界の醜さを見てみぬふりをするか、あるいは露悪的に人間存在を書いて世界の美しさから背を向けるか。絶望もあこがれも徹底していないではないか。文物密度の高い日本だから、心を慰めるものがいくらでもある。だから、熱くも冷たくもないのだろうか?


最後に、私が訳したチェーホフの掌編一編を置いておきます(ただし英訳からの転訳)。
これは輝く世界はあまり書かれていないが、コント的なひねりがなされている作品です。もともとユーモア作家としてスタートしたチェーホフのもうひとつの一面がよく出ています。だが、この作品自体は、限りなく暗い。

墓場で In the graveyard


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