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第6回 「投げ銭無用、投げ視線有用」


I ヨーロッパ

アムステルダム駅前

10年ほど前に西ヨーロッパ諸国(オランダ、フランス、イギリス)を回ったことがあった。
オランダ、アムステルダムの王宮を見たときの衝撃は大きかった。
車がびゅんびゅん走る大通りの横に、ガスやら何やらですっかりすすけた建物がぽつんと一つ。古いことは古いのだろうが愛想も何もない。政府の建物だと言っても通るだろう。この国が本物のデモクラシーの国なのだということを思い知った。




セーヌ河岸からシテ島をのぞむ

パリのシャンゼリゼはさすがに凄かった。威厳でニューヨークに対抗できるヨーロッパの都市は、やはりここしかないなのだろう。だがぼったくりに会うわ、飯は高くてまずいわ、メトロでは乗り込んできた演奏家の芸の押し売りに会うわで人の印象は最悪だった。





ハイドパークその1 ハイドパークその2
ハイドパークその3 ハイドパークその4

結局旅行の大部分はイギリスにいた。フィッシュアンドチップスは(予想通り)まずいし、電車は遅れまくるし、リバプールの町は日本の地方都市よりしょぼいし、エディンバラにまで大量のホームレスがいた。景気の思わしくない時期だったから、国にいまひとつ元気がなかったような印象がある。
だがその中で印象深かったのは、ひとつはハイド・パークの見事な造園美。もうひとつはリバプールの二つの大聖堂。一方はイギリス国教会大聖堂で、これは20世紀初頭から建築が始まって1974年にようやく完成したという長年をかけた建築だ。ゴシックぽい擬古的な建築で、下の写真の町並みの向こうにガスでかすんで見えているのがそれだ。

国教会リバプール大聖堂をのぞむ 大聖堂

暗い空模様もあって、重々しい雰囲気に包まれていた。この日はこのようにイギリスでよくある曇り空だったが、翌日私はリバプールのもう一方の大聖堂、つまりカトリック大聖堂にも行った。この日はからりと晴れていた。そしてこのカトリック大聖堂は1960年代に短期間で作られた、超近代的建築だ。青空の光がガラス張りの聖堂の中に挿し込んで、晴れ晴れとした気分になった。

そしてもう一つイギリスで印象に残った風景は、電車の車窓から見えた。

ロンドンのキングス・クロス駅から北のエディンバラに向った長距離特急に乗った。途中で見えた車庫に停留していた列車にペイントされていた"NETWORKING"の文字を誰かがいたずらして、”E"を"O"に書きかえていた。山田君、座布団一枚やれ。いやいや、印象に残ったのはこんな風景ではない。
朝方に乗った電車は、徒中強風で架線が切れて(、、、切れるのか?そんなにカンタンに切れていいのか?)野原の真ん中で数時間立ち往生してしまった。おわびのサービスと称して乗務員がソフトドリンクなどを支給したが、お子様優先で私にはくれなかった。そこな娘よ、子供のくせに"Daily Mirror"(日本でいう東スポみたいな新聞)なんか読んでるんじゃないよ。いやいや、印象に残ったのはこんな風景でもない。

イングランドの北方、ニューカッスルの南にダラム Durham という小さくて歴史の古い町がある。いったいにしてイギリスの大都市というのはロンドンとエディンバラは別としてたいてい産業革命後に勃興した歴史の浅い町だ。ヨークやカンタベリのようなローマ時代や中世からあった歴史ある町は、ふつうこのダラムのように規模が小さい。
電車が散々に遅れてようやくこの辺にさしかかったのは夕方だった(3月だったので、もう日は十分に長い)。その時車窓の向こうに夕日に映えて − この日は珍しく快晴だった! − 一つの白い教会建築があかあかと立ち尽くしていたのが突然目に入った。そしてそれは周囲の田園的な風景と完璧なまでに調和していたのだ。写真を撮っただけで芸術作品となったであろう。いや、写真など今この目で見ている風景にかなうはずもない。それほどイギリスという国の美を語り尽くしてあまさない自然と人工の調和がそこにあった。後から調べると、あれは世界遺産にもなっているダラム大聖堂(Durham Cathedral)だったような気もするし、いやもっと無名の教会だったような気もする。

とにかく写真で表せないほどに、印象に残った。だからその時の私は写真に撮っていなかったのだろうか。手元に一枚も残っていない。

アルフィエリは思う。
「住むに値する国は、イタリアとイギリスだけ。なぜならイタリアでは自然が自らの権利を明らかにして、政府によってばらまかれた諸悪を圧倒しているからだ。そしてイギリスでは人間の技が自然を征服し、粗野でしょぼくれた土地を快適で豊かなパラダイスに作り変えているからだ。イギリスとはひとつの庭なのだ。灰色の空の下、土地は鋤かれ耕されて、結果として土地はまるで鋤(すき)で仕上げたのではなくて鉛筆で書き上げたかのような外観を呈する。町々を作る構造の堅固さは、長年に渡る世代の勤勉さを物語っている。何一つとしてそのままのものはないのだ、、、
(ラルフ・ウォルドー・エマソン Ralph Waldo Emerson 、『イギリスの特性』 "English traits" より)


II 京都

「ところが布設したのが世界一なら、進歩しないことも世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日の如しと云うのは賞める時の言葉なんだがな」
(夏目漱石『虞美人草』より)

政府だけでなく国民全体によってばらまかれた諸悪によって日本の自然も都市もむざんな姿をさらしているが、京都も例外でない。

神社仏閣等の伝統建築は、西洋的デザインの建物たちに完全に取り囲まれているにも関わらずそれに背を向けている。おそらく京都は(というより日本の全ての伝統的都市は)進歩しないのではなくて、進歩を − コンビニや100円ショップを進歩というのならば、だが − "embrace" できていないのだ。動詞 "embrace" とは「受け入れて、自分のものとして背負い込む」という意味だ。だから建築を塀で囲って、その中に閉じこもろうとする。東福寺の三橋からの景色がどんなに見事であっても、その敷地の外はJR奈良線と京阪線が露骨に通過する灰色の世界ではないか。御所をどんなに綺麗に掃き清め、四季折々の花を咲かせたとしても、そこから見える比叡山の山頂にはヘンテコな物見の塔が据え付けられているではないか。

もともと日本には「借景」という建築技法があった。建物の敷地から見える外の景色もまた建築の美を構成する一要素とする発想だ。そこには自分で作った内部を越えた外界にも調和を期待する日本的な美学思想がある。だが戦後の街並みは借景の対象になどなり得ない。「清潔さ」「小綺麗さ」を求めてやまない日本人の衝動に媚びるだけで、「全体の調和は意図してもたらさなければならない」という元々日本人の心中に薄い努力目標を捨てて開き直っている。だからトータルで展望すると見るに耐えない。嵐山の無残な姿を見るがよい。その絶望的な状況の中、塀で囲って中だけ綺麗にする。それではだめだ。その美本来が目指していたものを失ってしまっている。


そういった中で、東山三条の知恩院三門(国宝)はちょっとしたものだと思う。すぐ前は参拝客用の施設や学校が西洋建築でしつらえられている(宗派の総本山なのだから、仕方がない)。それでもその面構えは周囲の雑音など気にせず豪壮であり、宗教建築とは本来このようなものなのだ、という模範を示してくれている。それもそのはず。これは徳川幕府の寄進で建立された、幕府の権威を京都の町衆に「見せつける」ための建築なのだ。他人の目に意図的にさらすつもりで作られた。高野山に聖域を張って、巡礼者が苔むした奥の院を神妙に歩く舞台を演出したのとは建築の意図がまるで違う。高野山は隠された秘境的な場所だが、 知恩院三門は個として一般衆生の前に立っている。だから近代的な街中でも十分に映えるのだ。ソウルの南大門と比べるべきであろうか。

上に引用した『虞美人草』で、藤尾が戯れに京都の好い風景を想像しようとして、三条の河原の店から柳に東山、それに「五重の塔」が見えなくてはならないと主張する。ここでの「五重の塔」とは言うまでもなく清水の八坂塔のことだ。そこで漱石は、

五重の塔がどうもする訳はない。刺身を眺めただけで台所で下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺身を食わなければ我慢の出来ぬ様に教育された実用主義の人間である。

と茶々を入れる。清水の八坂塔は、ドラマなんかで京都のイメージ図を出すときに鉦の音と共に必ずシルエットとして描かれる京都の「クリシェ」(紋切り型)だ。だから漱石の批評はどうやら正鵠(せいこく)を射ているようだ。しかし勝気な藤尾さんまでもがはなから無視した知恩院山門は、それほど伝統的日本の遠慮を良しとする美学観から浮いていたのだろうか(というか三条河原からは当時でも見えなかったのだろう)。それならばなおのこと、この作者不明の建築はすっかり崩れてしまった街並みの中でも立ち続けている。



≪ 今回のイチオシ ≫
知恩院三門



まずは、門前の看板の説明を引用しよう。

この門は三解脱門(空・無相・無作)の意味をもつ。元和七年(一六二一)徳川二代将軍秀忠公の寄進によって建立され、一階の桁行は二六・六メートル、礎石より二階棟瓦頂部まで二三・八メートルある。入母屋造、本瓦葺の五間三戸二階二重門で左右に山廊のある三門特有の形式をもっている。
上層の内部は極彩色を施し、須弥檀中央に釈迦牟尼佛、その左右に須達長者と善財童子、脇壇の左右に十六羅漢像を安置する。三門正面に掲げる「華頂山」の額は、霊元天皇の宸筆である。

浄土宗の総本山であり、徳川幕府の最初期から手厚い保護を受けた(江戸の芝増上寺は徳川家の菩提所だが、浄土宗大本山である)。知恩院はそのため「投げ銭無用」(賽銭など要りまへん!)と宣言し、威勢を誇った。この三門は将軍の寄進で建立され、扁額「華頂山」は天皇の宸筆、内部は仏国土のきらきらしい世界で彩られている。将軍・天皇・仏教の三大権威を集積した、嫌味なほど大層な門である。ここまで来ると、幕政時代を生きた人々は畏れ多くて目をそむけるしかない。十返舎一句の『東海道中膝栗毛』で作者は京見物編の冒頭に「京名所ことごとくしるすに際限なければ、只祇園清水知恩院、大仏さま御ろうじたかえ、金閣寺拝見あらば、よい伝(つて)があるぞえ、といったぐらいのことをしるす」と口上しておきながら、本編では弥次郎・喜多八はすぐ近くの祇園まで足を運びながらこの知恩院は話題にすら出そうとしない。洒落にならないから、バカ話には出せません。
(「大仏さま」とは方広寺大仏のこと。寛政10年(1798)に焼失。その後もう一度作られたが、1973年にまた焼失。)


冬化粧。

徳川時代の初期には、豪壮華麗な建築が多い。この知恩院三門。二条城(1603以降)。日光東照宮(1617以降)。かつての芝増上寺は現在よりもはるかに広大であった。そして、外様大名を締め上げて豊臣氏を追い詰めるために普請させた数多くの豪華な城。これらは何のためだったのか?答えは簡単だ。権威づくりのためだ。まだ儒教道徳が武士に行き渡らず、庶民も新しい秩序に慣れきっていない幕政開始時には、まずはモノを見せて人々の肝をひしぐ必要があった。私は以前そうやって作られた城の一つの明石城の城跡に行って、天守閣の跡地の面積のあまりの狭さに愕然としたことがあった。姫路城も天守閣の中は、かなり狭苦しい。こういった天守閣は、大名の居住用ではない。それどころか本当は防御用でもないのだ。全く権威を見せて人々の肝をひしぐことが目的だったのだ。初期の徳川幕府はそうやってモノで権威を見せる一方で、都市の改造に着手して街道を整備し、経済基盤を整えた。京都のかつての水運の要、高瀬川は幕命によって角倉了以が開削した(1614)。大坂も実際は徳川幕府が一から作り直した都市だ。道徳という温かい脂肪でまだくるまれない筋肉と骨だけの行政が、初期徳川幕府の姿勢だったのだ。人々が体制に順応し切って、脂肪もついてもはや繊細となった社会のひだを描こうという文運が元禄時代に栄え始めるときには、すでに幕政開始から百年近くが経っていた。

この知恩院と西の二条城が、徳川幕府の京都での力の見せどころであった。二条城は京都所司代の置かれた実務の中心で、徳川慶喜もここに入った。そしてこの知恩院は御所すらも見下ろす東山華頂山山麓にある権威の中心。もともと東山は京都の市域外で、朝廷の秩序に入りきらない「あやし」(妖し=怪し=賤し)の者どもが巣食った地である。白河法皇以下従来のしきたりをはみだした院政の権力者たちが、私寺として六勝寺(ろくしょうじ)を建立したのは現在の京都市立美術館付近だ。六波羅は、もともと平家の領地であったのを平家滅亡後源頼朝が接収した土地であった。ここに鎌倉幕府の京都出張所である六波羅探題が設置された。清水坂の近辺は、室町幕府時代には一揆・騒擾の一大拠点であった。この地に浄土宗があり(知恩院)、浄土真宗があり(東西両大谷)、禅宗があり(南禅寺、東福寺、建仁寺)、天台宗(青連院、聖護院)があるのは偶然ではない。仏教の教義で最先端を目指そうという「あやし」の者どもは、比叡山を降りてここに本拠を固めた。宋から戻った洋行帰りの禅の者たちもまた公家や将軍の寄進を受けてこの地に巨刹を次々と営んだ。山の上で俗世を捨てることも忍びなく、かと言って天下の中心に突っ込んで革命を起こすのは気が引ける。そういったやさしい宗教者どもの好んだ地が、この鴨川の向こうのちょっとした高地であったのだ。徳川幕府もしかり。実力では完全に優位に立ちながら、朝廷・公家を御所に祭り上げて(というか押し込めたのだが)自らは周囲に拠点を構えた。そしてそのやさしさが、最後に幕府を滅ぼした。


車が風景に入っても負けない。

明治維新で廃仏毀釈が宣言されるや否や、興福寺の僧たちが昨日まで拝んでいた仏像を叩き割って風呂の焚き付けにするような、粘り強い継続性に乏しい国民である。創建時の人がどんなに精魂を込めて作ったとしても、その魂はすぐに風化して忘れられ、やがて後世の者はそれを風呂の焚きつけとしても恥じない(これはモノだけではない。思想もそうだ)。京都や鎌倉の多くの古い神社仏閣は、周囲から無理やり骨董品として古いままに保存させられているようで痛々しい。周囲のポップでサザンな街並みと比べると、例えるならば若夫婦一家から離れの間を与えられて敬遠されている隠居じいさんのようだ。だがこの三門は例えるならば強面のおやじだ。日本人らしい遠慮のそぶりなど見せない。だから、若い衆に混じってもびくともしない。江戸初期の武骨な時代だったからこそ造りえた建築だ。だがこの場合武骨とはいっても後世のサムライのように清潔だけが取り得の小禄の者のそれではなくて、権威を豪壮に見せつける覇者のそれなのだ。





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