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第7回 死ぬ時の一枚

私は、実は死んだことがある。

といっても夢の中でのことだが。そうでなければ、今生きているはずもないしね。
銀行強盗か何かの現場にたまたま居合わせていた夢だった。客はフロアの一箇所に集められて、銃口を突きつけられていた。その絶望的な状況の中で、私は何を思ったか強盗犯と交渉しようと思って立ち上がって近づこうとしたのだ。結果は動き始めたとたんに即刻ズドン!とやられた。夢は自分の潜在的願望を表すというが、二年ほど前に見たこの夢は違って現実的な法則に従った結末だった。撃たれた瞬間目の前が真っ暗になった。夢だから痛みはなく、意識だけが残留していた。ああ、、撃たれたんだな、、、この後もうないんだな、、、、、、、、、、助けてくれ!、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、朝起きることができたからよかった。「助けてくれ!」と思った後の夢の記憶はない。全くの無明だ。恐ろしく寝汗をかいていた。

この鮮烈すぎる夢を見てから以降、死後の世界に対する私のイメージは半ば固まっている。無だ。仏教用語で言えば、五蘊は宇宙に飛散して何も残らない。来世はあるのかもしれないが、− だめだ。この私の意識を来世の世界まで持ち込み続けることはできないのだろう。それは「私」ではない。

《助けて、、、、、》
阿Qの叫びは口から出なかった。とっくに眼がくらみ、耳が鳴り、かれは全身こなごなにとび散るような気がしただけである。
− 魯迅『阿Q正伝』(竹内好訳)より

死にゆく瞬間は、この阿Qのようであるのが真実なのかもしれない。『赤と黒』のジュリアンのように自分の死に対してべらべらと英雄的な弁明をするのは、少なくとも私には嘘に見えてしまう。

「枕の前に弥陀と尊勝の二つの像を安置し、糸を仏像の手にかけて、じぶんの手を結びつけた。」というのを、臨終のひとつの様式とすれば、仏が来迎して浄土へ連れてゆく情景を描くのに、実際に仏像の手と、死に瀕したじぶんの手を、糸で結びつけて、補助する意味を持っている。さらに云えば、仏の来迎を心に描く代わりに、仏像の手と、じぶんの手とを、じっさいに糸で結びつけて、不安を和らげる死の様式とみてもよい。
− 吉本隆明『西行論』より

吉本が言っているのは、法然以前の「不安を和らげる死の様式」の追求にすぎない極楽往生思想のことである。じつに法然、親鸞によって「今、生きている自分」への阿弥陀の救いに着目する転換が行われるまでは、念仏も極楽往生も死ぬ自分を慰めるための不安解消法にすぎなかったのだ。

作曲家ならば、死を予感したときの響きというものはあるのだろうか?

私は、モーツァルトが『レクイエム』 Requiem を自分の葬送のための曲と思って作曲したとは、とても信じがたい。
この曲をモーツァルトは完成させることができず、大部分は声部と低音部の骨格だけしか残されなかった。オーケストレーションの大部分はモーツァルトの弟子のジュスマイヤーの手によるもので、モーツァルトが全て書き上げることができたのは第一曲「イントロトゥイトゥス」 Introtuitus だけだという。それでも一応ジュスマイヤーはモーツァルトから補筆のための指示を生前受けていたので、現在の姿はおそらく当たらずと言えども遠からずのものなのだろう。
そのような問題がある『レクイエム』だが、死を意識したと言うにはおどろおどろしい効果抜群で、最後のオペラ『魔笛』 Die Zauberflöte でも存分に見せたサービス精神の旺盛さがあふれ出ている。本人が全て完成させた唯一の「イントロトゥイトゥス」だけ見ても、クラリネット(正確にはバセットホルン)による悲しみの調べ、ホルンによる嘆きの咆哮、棺を担う者の足取りを思わせるティンパ二の重い拍動、そして独唱合唱交えたあくまでも「聴かせる」曲づくりがある。続く「キリエ」の切迫したフーガ、「ディエス・イレ」の審きの日の恐怖、「トゥーバ・ミルム」の神からの警告としてのトロンボーンの響き、、、「キリエ」以降のオーケストレーションはどこまでモーツァルト本人の意向なのかわからないにしても、はっきり言ってこの曲は生きている者へ反省を促す脅しにはなるが、死ぬ者へ慰めを与えることには結びつきそうにない。これが死を見つめた者の作った曲だとは、にわかに信じがたいのだ。モーツァルトは、本当は自分が死ぬなんて死ぬ直前まで思っていなかったのではないだろうか?

もう一人の大御所、ベートーヴェンが完全な全曲として仕上げた最後の曲、『弦楽四重奏曲第十六番』はどうだろう。1826年、彼の死の前年の作品だ。体調がますます悪化していく中で春から秋にかけて筆が進められた。そして、その冬に致命的な肺炎にかかって、翌年の3月にこの世を去った。

『弦楽四重奏曲第十三番』の最終楽章、大フーガ Grose Fuge でまたも弦楽四重奏曲の限界を踏み越える(難解な)仕事をした後、本格的にまとめ上げることができた最後の曲だ。オーソドックスな四楽章構成。

第一楽章。明朗で単純。だがあまり深みがない。ハイドンを模倣していた昔を思い出したみたいな曲だ。
第二楽章。ほとんど雑音の世界に入り込もうとしている。『第九交響曲』の第二楽章をデフォルメしたみたいな、けいれんしたリズムで作られている。
第三楽章。後期で特によく見られる動きの少ない緩徐(かんじょ)楽章。まるで和音の響きだけを楽しんでいるような音楽だ。この頃ベートーヴェンは完全に聴力を失っていたのだが。
第四楽章。ある会話のやりとりからひらめいたと思われる(真相は不明)、二種類のテーマのやりとりを絡めるアイディアをまとめたもの。荒っぽいが、さすがに一応は聴かせる。

この最後の弦楽四重奏曲を絶頂期の『ラズモフスキー第三番』などと比べると、、、構成力はもはや大きく解体している。思いついたものを書いているような印象だ。やはり死期が近づくと、「心の欲するところに従えども矩(のり)を踰(こ)えず」となるのだろうか。とにかく、この曲は「聴かせる」ということを意識した作品ではないような気がする。これが、死を予感したときに作曲家が自分じしんに聴かせる作品の一例なのかもしれない。

J.S.バッハは死ぬ直前に、特に楽器を指定しない『フーガの技法』 Die Kunst der Fuge を書いた。自分が生涯追及してきた対位法、フーガ、カノンを最後に透明な形で提出しようとしたのかもしれない。未完であったが。
リヒャルト・シュトラウスは死の前年(1948)に八十歳を越えて大規模なオーケストレーションの歌曲『四つの最後の歌』 Vier letzte Lieder を書き上げた。そこにはオーソドックスながら、自分の持てる技術を惜しまず使い込む作曲家の真摯な姿勢が聞こえてくる。シュトラウスは死んでいく自分と、滅んで砕けてしまったドイツを見て、今できることを全てやり切るしかなしうることはない、と考えていたのではないだろうか。それほど、この曲には手抜きがない。

死ぬときの調べは人によっていろいろだろう。だが、私じしんはもし死ぬ瞬間に何を聴きたいかと自問するならば、結局モーツァルトでもベートーヴェンでもなかった。下に書くように、私は結構お手軽な人間だ。



≪ 今回のイチオシ ≫
リード『エルサレム賛歌』
アルフレッド・リード指揮/大阪市音楽団

『星条旗よ永遠なれ〜マーチ名曲集』
レナード・バーンスタイン指揮





アメリカの作曲家、アルフレッド・リード Alfred Reed が他界した(2005年9月17日)。

亡き人には失礼な話だが、ほとんどこれまで私が注目していなかった人だった。だが、先週CDショップでリード追悼の小さなコーナーが組まれていて、流れていた音楽にふと気が止まったのであった。それが、今私の手元にある『リード!×3 vol3』(アルフレッド・リード指揮、大阪市音楽団)だ。その音楽は、『エルサレム賛歌 −アルメニアの復活祭賛美歌に基づく変奏曲 −』 Praise Jerusalem ! - Variations on an Armenian Easter Hymn - だった(初演、1987年4月19日)。今これを書きながら流している。この世を去った同じ週にこの曲を知った。これも一期一会だろう。

この曲は「交響吹奏楽」とも呼べる、管楽器と打楽器による演奏である。リードはこのジャンルで多数の作品を残した。『エルサレム賛歌』では、中世アルメニアの典礼聖歌のテーマを用いて荘厳な吹奏楽曲に仕上げている。弦楽器の持続的な響きがない代わりに管楽器と打楽器を直接に組み合わせた骨太の厳粛さと昂揚とが全曲を覆っている。

本当はバーンスタイン指揮のマーチをここに書くつもりなのだが、リードとの一期一会を記念して、まずは記しました。同じ吹奏楽曲のジャンルだし。ここから本題です。

上のCDは、レコード時代は『マーチ・スペクタクル!』という題で同じくソニー社から発売されていた。現行のものは元のアルバムの大部分を引き継いで、ヴェルディ、ワーグナー、エルガーらの有名曲をさらに数曲足している。だがどういうわけか、CD版にはあのイギリスフーリガンの聖歌で超愛国歌の『ルール・ブリタニア』 Rule Britania が削除されている。どうしてだ。『星条旗よ永遠なれ』 Stars and Stripes forever はそのまま入れているのに。露骨に帝国主義的な曲だからなのだろうか。だがやはり新旧ともども収録されている『ラ・マルセイエーズ』 La Marceillaise の方がよっぽど残虐な歌で問題がある気がするが。「進め!進め!きゃつらの腐った血を我らの畑にタタキ込め!」(Marchons ! Marchons ! Qu'un sang impur abreuve nos sillons ! )だもんね。

アメリカという国はお手軽さで日本に匹敵する国だ。ここに『ワシントン・ポスト』 Washington Post から『錨を揚げて』 Anchors Aweigh までずらり並んだアメリカン・マーチ(間に『双頭の鷲の下』や『ラデツキー行進曲』など、少数オーストリアン・マーチも入っているが)を聴いていると、しぜんと気分が躁状態になってくる。しまいにはオマハ・ビーチでドイツ軍に対して死亡率限りなく高い強行上陸をすることも、何かできそうな気になってくるから怖い。軍人さんには国のために死んでもらわなくてはならないが、アメリカには「国のために先兵となって死のうじゃないか」流の、情緒的な泣かせる祖国のイメージなんかない。そういうウェットな祖国感の欠如しているところに、気分を昂揚させて何やらなんでもできそうな気にさせるマーチを用意している。「よーし、死んでこい!」というわけだ。『ワシントン・ポスト』なんて一私企業のためのマーチだ。これが日本ならば『トヨタ・マーチ』に送られて死地に赴くようなものだ(えっ、マーチなら日産だろうって?こりゃまた失礼しました)。

もっともバーンスタインはテンポを思いきり速くしてメリハリを聴かせたオーケストラ・マーチに仕立てているので、吹奏楽部の演奏で聴くマーチとは少し感じが違うのだが。吹奏楽部が演奏するマーチは運動会の開会式用で、バーンスタイン指揮のマーチはトリの400メートルリレー用だ。「マーチのリズムが集中力を高めて勉強のBGMにいい」とTVで紹介されたそうだが、このCDに関しては聴いてもひたすらハイになるだけで、聴いた後には揺り返しで鬱状態がやってくる。だから勉強のBGMには合わんと思う。

とにかく、どうせ死んだ後のことを信じられないのならば、これでも聴いてハイな状態になって死んだほうがましなのではないか、などと私は思ってしまったのだ。何と底の浅い、お手軽な結論なのだろうか。もし世界の週末がやってきたとしたならば、私はたぶん最後の最後にはこのCDを聴いて覚悟を決めるつもりだ、、、、今回は私自身への「イチオシ」になってしまった。



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