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第11回 仲秋の花見



  zフ    ヅツツ   ツ    ツぐぐ  ツツべヅツ   ツツツツヅ ツ   ツツ ヅ ヅツツヅ
        ヅツ  ツ ツ ヅツヅツ  ツ  ツツツヅ ゞ  ツツヅヅツ  ツ ツツ   ヅヅ ツ
         ツヅヅツツ ツヅツヅツツ    \\  ツツ  ツツツヅヅ    ツツ  ヅヅツツヅツ
        ツ  ツヅ    ツツツ  ヅツツツ  ヅツツヅヅ   ゞツ ヅ  ツヅ  ツ  ヅヅ
  '        ´´  ツ  ノノ    ヾ  ツヅ ヅ  ツツツヅ ヘ\ ツヅ    ツツヅヅ   ツ
'     ´   ´  '  ' ツツツ   ツヅヅ   ツ;|::i) ツ   ツヅ  ツヅヅヅヅヅ ヅヅヅ ツ
   ´   ' ´     ツツ ヅツ=ヅ   ツヅ  ツヅヅ ツ   ツツヅ ツ  ツツヅヅ  ヅヅツ
   '          /  ツツ  ツツヅ  ツツヅヅヅ ヅヅヅツ ヅツ,,,i\  ツツヅ    ヅ
      , ,    ツヅ   ツヅ    ツ ヅ /;;iハ. ;;;Y;;;ノヅ   ヅ ) ;;;;;iii) ツヅツヅヅツ ツ
 ,       ,           ツツ ノ ヅ∨;;i/  \ ;;i\ ヅ  / ;;;;;ツヅ  ツヅ  ツヅヅ
   , zフ                   ヅツヅヅ  \ ;;;iiツヅヅ  ツヅツ     ヅ   zフ
                       zフ   ツ   ヅハ;;;;ツツヅヅ ヅ    zフ   zフ
                          ' ' ツヅ    ヅ ;;;;ツ ヅ\ヅ ;;;iiiiヾ
        ,    zフ            '  ' zフ ツツヅヅヅ  \ ;;;ツツヅ ;;;;;;;;; zフ ⌒ zフ
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Zノ ,                    ' '      ツツzフ ツツ  zフ zフ   ;;;;;;;;;;;;;;;;;;iiiiiiiiiiiiii
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橋の上から見ると、川は亜鉛板のように、白く日を反射して、時々、通り過ぎる川蒸気がその上に眩しい横波の鍍金をかけている。そうして、その滑な水面を、陽気な太鼓の音、笛の音、三味線の音が虱のようにむず痒く刺している。サッポロビールの煉瓦壁のつきる所から、土手の上をずっと向こうまで、煤けた、うす白いものが、重そうにつづいているのは、丁度、今が盛りの桜である。言問の桟橋には、和船やボートが沢山ついているらしい。それがここから見ると、丁度大学の艇庫に日を遮られて、ただごみごみした黒い一色になって動いている。


、、、仲秋の名月の季節だというのに、桜の花かよ。しかもAA(アスキーアート)かよ。MSPゴシックで作っているから、マックの人はずれて見えているに違いない。スタイルシートで調整しているから行間隔は大丈夫だと思うが。専門用語ずらずら並べて、わからない人置いてけぼりかよ。

本当は秋だというので、ちょうど秋の夜の淀川を舞台にしている谷崎潤一郎の『蘆刈』をやろうかと思ったのだが、どうも筆が進まん。そこで、どうせ今のご時世時節柄なんかにこだわるのもしゃらくせえ、思い立った日が桜の花盛りよと開き直って、桜の季節を描いた物語を取り上げることにした。だからAAを貼った。写真では今撮ることができない桜をAAなら今作ることができるからだ。AAは文字を組み合わせただけのアートで、このデジカメが当たり前となって写真がありがたくもなんともなくなった時代にむしろ作り手の力を見せるにはよいメディアかもしれない。また機会を見て作ります。

♪春のうららの隅田川、、、と歌われるぐらいだから、大正時代のこの川はさぞかし優雅だったのでしょうな。私が東京にいた時には北区の王子に住んでいたが、そのすぐ近くを流れる隅田川といい石神井川といい、とても風情とは程遠いドブ川に化していたが。まあ川なんかは人間がその気になればまたきれいにできるものだ。西の琵琶湖ともども行政と住民はがんばってほしい。

莵水澱水ニ合シ 交流一身ノ如シ
舟中願ハクハ寝ヲ同ニシ 長ク浪花ノ人ト為ラン

君は水上の梅のごとし花水に
浮て去こと急
妾は江頭の柳のごとし影水に
沈てしたがふことあたはず

『澱河歌』より

安永時代(1772 - 1781)に最晩年を送った与謝蕪村は、こうして漢詩の手法を使って淀川の情景を描写した(伏見の妓女が大坂に下る客を送る情景だと思われる)。たとえば上のくだりは、魏の曹植子建の詩(『七哀詩』)のフレーズからインスピレーションを得て構成されているという。だが曹植の詩は「君は清路の塵のごとし、妾は濁水の泥のごとし」であり、遠く旅立った夫を思う妻の厳しい別離の現実を描いたものであるが、蕪村はそんな大陸的悲壮とは全く無縁で、おだやかな春の淀川のほとりでの男女のほんのつかのまの交流に作り変えてしまう。「花水に浮て去こと急(すみやか)也/影水に沈てしたがふことあたはず」。たしかにこれは大陸の詩の世界にはない、水をよく知る日本人ならではのやわらかな描写だ。

蕪村の時代から百三十年余り経った時代の芥川龍之介が描く川の描写も、蕪村とは異なり近代的文物を交えた手法を使いながら、やはり水を知る日本人ならではの春の輝きをよく捉えている。明治人が苦労しながら西洋文学を輸入して日本化した努力が、ようやく大正の芥川の手で板についた風景描写となった。この『ひょっとこ』が発表されたとき、彼はまだ二十四歳だ(大正四年、1915)。これより前に発表された小説ははっきり言って下手な秀作であるが、この作品ですでに彼は完成した。その若さで完成させるほどに、大正期の文章はすでに西洋文学を消化し切っていた。

すると、そこへ橋をくぐって、また船が一艘出て来た。やはりさっきから何艘も通ったような、お花見の伝馬である。紅白の幕に同じ紅白の吹流しを立てて、赤く桜を染めぬいたお揃いの手拭で、鉢巻をした船頭が二三人櫓と棹で、代る代る漕いでいる。それでも船足は余り早くない。幕のかげからみえる頭数は五十人もいるかと思われる。橋をくぐる前までは、三梃三味線で、「梅にも春」か何かを弾いていたが、それがすむと、急に、ちゃんぎりを入れた馬鹿囃子が始まった。橋の上の見物がまた「わあっ」と哂(わら)い声を上げる。中には人ごみに押された子供の泣き声も聞える。「あらごらんよ、踊っているからさ」と云う甲走った女の声も聞える ― 船の上では、ひょっとこの面をかぶった背の低い男が、吹流しの下で、馬鹿踊りを踊っているのである。

まさしく「アジア的な」風景がまざまざと描かれている。歓喜して没入するにせよ嫌悪して通り過ぎるにせよ、我々の文化の底流にはこれがあることを知っておかないと、いつか足元を絡め取られるだろう。私は梅の花は大好きだ。桜の花については、五分咲き七分咲きはよろしくない。桜の蕾はぶくぶくと赤くて気持ち悪く、それが花の間からにょきにょき出ているのは美しいとはいえない。だが満開となり、そして夜桜が天に映える一瞬の時期だけは、私もその魔力に屈服するしかない。ほんの一週間も続かない。散った後はまた道路を汚してみっともない。散り果てた花びらすら美しい薔薇の気高さはない。確かに桜はよいのであるが、何かそれへの愛のために圧倒的に多くのものを捨てているような気がしてならない、、、




≪ 今回のイチオシ ≫
芥川龍之介『ひょっとこ』





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汝と住むべくは下町の
水どろは青き溝づたひ
汝が洗湯の往き来には
昼もなきづる蚊を聞かん

汝と住むべくは下町の
昼は寂しき露路の奧
古簾垂れたる窓の上に
鉢の雁皮も花さかむ

『戯れに』

吉本隆明は、この芥川の「戯れに」作った詩が芥川の原点であったという。つまり、東京本所下町で育った芥川はそこから遊離して進歩的・知性的・遊戯的世界を構築する彼のスタイルとのギャップに結局耐えられなかったというわけだ。「この詩には、芥川のあらゆるチョッキを脱ぎすてた本音がある。芥川が、どんなにこの本卦がえりの願望をかくしていたか、を理解することができる。」(『芥川竜之介の死』より)

『ひょっとこ』は彼の最初期の作である。そして、物語と詩的描写を統一して書くことに成功した、彼の早々と到達した頂点の作である。芥川はこの後、この『ひょっとこ』のようなアジア的な世界の愚劣さをある種の共感を込めながら描くことから遠ざかっていき、知性的に東西の古典を換骨奪胎していく手法を主としていく。だが、吉本隆明が言うように、芥川はもし創作にいきづまって自殺などしなければ、円熟的な境地でこのアジア的世界を描く道があるいは開けていたのかもしれない。彼には下町世界の愚劣で悲哀なやるせなさを美しく描けるだけの共感力を、奥底に押し殺していたに違いないのだ。

『ひょっとこ』の登場人物、山村平吉。話す身の上話は嘘ばっかり、普段は小心で愛想のいい真面目者なのに酒が入ると馬鹿踊りをやらかす。そうして隅田川の花の下、ひょっとこの面をかぶって馬鹿踊りに踊り、酒の飲みすぎがたたったか、倒れて花の下に死んでいく。どうしようもない。「世間に配慮する」心にしか善を見出すことができない、典型的な日本人だ。自分がないのをいつも気にしている。だから酒が入ると自分ができたような気になって上機嫌になる。だがやることはせいぜいひょっとこの面をかぶった馬鹿踊り程度だ。後はバクチに女買い、その他もろもろのつまらないことをやるだけ。平吉のように、たいていの日本人もまた自分がないのを気にしている。だが自分がないのを気にするのは、実は自分がある証拠なのだ。その自分が善を自分の中に見つけられない、ただそれだけのことに違いないのだと思う。詳しくは、私のサイトの『孟子を読む』公孫丑章句あたりを見てください。現在、毎平日連載中です。

しかし面の下にあったのは平吉の顔はもう、ふだんの平吉の顔ではなくなっていた。小鼻が落ちて、唇の色が変って、白くなった額には、油汗が流れている。一眼見たのでは、誰でもこれが、あの愛嬌のある、ひょうきんな、話のうまい、平吉だと思うものはない。ただ変わらないのは、つんと口をとがらしながら、とぼけた顔を胴の間の赤毛布(げっと)のうえに仰向けて、静に平吉の顔を見上げている、さっきのひょっとこの面ばかりである。

ひょっとこの面は人を笑わせるためにある。平吉は「世間のための」義によって踊り、「世間のための」義によって死んだ。酒が入って自分を得た気になっても、彼の義は世間に向けたひょっとこの面にしかなかった。上に引用した小説の末尾で最後に残ったひょっとこの面が、実は平吉の心中求めていた自分であり、義であったのだ。それをどうして笑うことができよう?もとい、笑うべきだ。それが平吉的人間の生き様への供養なのかもしれない。



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