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第14回 忘れた帝國


第二次大戦(アジア太平洋戦争)終了から六十年経った。この巨大な戦いによって、当時世界にあった二つの帝国、つまり大日本帝国とドイツ第三帝国は潰え去った。二つの帝国は当時における二つの先進国が形成した、経済・軍事・文化的にそれなりに完結した小宇宙であったが、それよりももっと大きな世界連合には勝てなかった。

大日本帝国は第一次大戦後の世界の「勝ち組」であった。わずか半世紀前には西洋列強の軍艦外交の前に国難だ危急存亡の秋(とき)だなどと言っていたのに、第一次大戦後のヴェルサイユ体制で英米仏伊と並ぶ世界五強の一角に入るまでに成り上がったのである。だがその大成功を味わったと同時に、日本は自国が世界から完全に浮いていることに気付かされることになった。日本はアジアへの配慮を振り切って帝国主義に突き進んだのだが、他方でしょせんアジア人だから西洋クラブからはお呼びでない。その事情を感じ取ったか、早くも戦後直後の時期に近衛文麿が『英米本位の平和主義を排す』という論文を発表した(1918年)。その主張そのものは帝国主義批判であって、持てる英米が主張する平和は現状維持の「事なかれ主義」にすぎない、持たざるもの ― つまり日本のことであるが ― は断然黄色人種解放の大義ために現状維持の秩序に挑戦する権利があり、かつ義務がある、というものである。日本中心の利己主義であると同時に黄色人種解放の大義を掲げる利他主義も加味している、後世の大東亜共栄圏思想がすでに萌芽している。だがその後の歴史の流れは、しょせん大日本帝国という存在が世界から孤立している東洋の島国であることを証明しただけであった。列強が自由主義と社会主義という民族を超えた教義を掲げるようになっていった中で、列強のひとつでありながら大和民族・国家神道では世界の力を糾合することは到底できなかった。大義が相手に通じなくても強大な力があれば勝てるかもしれない。しかし日本は英米に比べて国力が小さすぎた。ユニークすぎる文化を持ちながら成功し、しかもユニークさゆえに成功の及ぶ範囲が小さすぎたことが、日本の失敗であった。

かつて、ヨーロッパ大陸の真ん中に「中欧」 Mitteleuropa という地域概念があった。これはまさしくドイツ文化が卓越する地域のことを差していた。つまり神聖ローマ帝国から分かれた二つの巨頭であるドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国が包み込む地域がそうであった。ナチスドイツの第三帝国は、この「中欧」の文化圏の上にリアリティーを持っていた。そしてそれもまた大日本帝国と同様に、ほぼ完全に一掃されたのであった。

ドイツ語を母語とする人々には、東方に活路を見出そうとする本能的衝動がある(あった)といわれる。これをドイツ語で「ドランク・ナーハ・オステン」 Drang nach Osten という。ドイツ語を母語とする人々 ― つまり後世「ドイツ民族」として閉鎖的に定義される人々だが ― の感覚には、おそらくローマ文明に合流したいという願望と、ローマ文明の影響力から逃げたいという焦燥感とで分裂していたのではあるまいか。前者は西ヨーロッパ諸国との統合を望む力となる。そして後者は東欧から遠くロシアまで植民の地を求める、中世以来の人の流れを作った。ドストエフスキーの小説に出てくるロシア在住のドイツ人などはその一例だ。彼らはペテルブルクにやってきて、商店などを経営していた。スペイン人やイギリス人が大西洋の向こうにわっと押し出す大航海時代よりずっと前から、ドイツ人はバルト海沿岸の各地にコロニーを築いていった。

二十世紀初期にウィーンがヨーロッパ文化の最先端都市として、パリとは別に独自な地位を占めていたことは近年かなり知られるようになった。シーレ、クリムトなどの画家やウィトゲンシュタイン、フロイトなどの思想家だけがいたのではない。ここは経済学の都でもあった。後にアメリカ経済思想のイデオローグと目されるようになったJ. A. シュンペーターやF. von ハイエクがウィーンで研究を行なっていた。昨日(米国時間2005年11月11日)長い生涯を終えた経営学者P. F. ドラッカーは、1909年ウィーンに生まれてドイツ圏で学業を修めた。ついでに『お熱いのがお好き』 Some like it hot などの映画の監督であるビリー・ワイルダーもまた1906年のウィーン生まれである。ウィーンはオーストリア=ハンガリー帝国の首都であった。この国はもともと神聖ローマ帝国の東方辺境にある一大名であったが、さらに東にあるトルコを圧迫してバルカン半島に広大な領土を獲得した。結果、領内にいろいろな民族を抱え込んだ。ドイツ人、チェコ人、スロバキア人、ポーランド人、ユダヤ人、ハンガリー人、ルーマニア人、イタリア人、スロベニア人、クロアチア人、ボスニア人、ロマ人、、、ウィーンはそのような多様な民族の上に立つ国際的首都であった。

こういった文化の華やぎの成果は、結局二十世紀中葉以降に英米圏に全て吸い取られることとなった。シュンペーターはハーバード大学に、ハイエクはロンドン大学から後にシカゴ大学に移った。ウィトゲンシュタインは後半生ほぼケンブリッジで過ごした。ドイツ映画の人材は皆ハリウッドに去った。ナチスが崩壊した後のドイツ映画界には、何も残らなかった。

自然が、人間に与えられている一切の自然的素質を発展せしめるに用いるところの手段は、社会においてこれらの素質のあいだに生じる敵対関係にほかならない、しかしこの敵対関係が、ひっきょうは社会の合法的秩序を設定する原因となるのである。ここに言うところの敵対関係(Antagonismus)とは、人間の自然的素質としての非社交的社交性のことである。人間は、社会を形成しようとする心的傾向をもつが、しかしこの傾向はまた絶えず社会を分裂せしめるおそれのある抵抗と到る処で結びついているのである。このような素質が、もともと人間の本性に内在していることは明白である。

人々を強要して公民的組織を設定せしめたのとまったく同じ非社交性は、諸国家の場合にもまた原因となって、対外関係における公共体は、他の諸国家に対する一国家として、自己の自由をほしいままに濫用することになる、すると一の国家は、あたかもさきに個々の人間を圧迫して、合法的な公民的組織を設定せざるを得なくしたのとまったく同じ害悪を、他の国家から予期しないわけにはいかなくなる。そこで自然は、人間のあいだの不協和を ― それどころか、人間という被造物の形成する大規模な社会や国家のあいだの不協和をまたもや手段として、諸国家のあいだに発生せざるを得ない敵対関係のさなに、却って国家の平安と安全とを求めさせるのである。

(カント『世界公民的見地における一般史の構想』より。篠田英雄訳)

カントは、人間には仲間から離れて一切を自分の意のままにしようとする「非社交性」があることを認める。人間の「非社交性」は周囲の世界の抵抗に必ず出会い、そして自分でも他人に抵抗しようとする。しかしそれこそが人間を怠惰から克服させ、かれのほんらい具えている一切の力を覚醒させる要因となるという。これは人間が未開から文化へ向う第一歩である。結局人間は「非社交性」によって他人と対立し、互いに争うことを通じて高い文化の状態で新しい平衡状態を見出す。それが公民的組織である。カントは、その人間に通用する原理と同じものが世界の諸国民の歴史にもあてはまるだろうと論じた。そして諸国民の争いの向こうに国際連合を見る。

大日本帝国とドイツ第三帝国が挑戦したことによって、西洋列強はより普遍的な正義を掲げることを余儀なくされた。それは結局植民地帝国の解体につながった。ソ連の社会主義が挑戦したことによって、西側は福祉国家を掲げることを余儀なくされた。かくのごとく二十世紀の歴史に表れた諸国民の「非社交性」は、やがて、― まだまだこれからも世界の対立と苦難は続くだろうが、とにかくいつの日にかは ― 真の世界的公民秩序を成立させる結果となるのだろうか?大日本帝国とドイツ第三帝国は、「自然の隠微な計画」(カント)を実現させるための踏み台であったのか?しかし、それを考察したカントの住んでいたケーニヒスベルクの属するプロイセン地方は、第三帝国崩壊後にロシアとポーランドに分割処分されてしまった。そして中世末期以来その地に植民していたドイツ人は、そこから追放された。「非社交性」のもたらした歴史の破壊は、はなはだしいものであった。



≪ 今回のイチオシ ≫
オルフ『カルミナ・ブラーナ』
李香蘭(山口淑子)




私の手元に二枚のCDがある。一つは李香蘭(山口淑子)の歌曲集『李香蘭(山口淑子)/蘇州夜曲』(日本コロムビア)で、もう一枚はカール・オルフ作曲『カルミナ=ブラーナ』(サイモン・ラトル指揮、ベルリンフィルハーモニー)だ。

李香蘭こと山口淑子は満州(中国東北部)で生まれ、奉天(現在の瀋陽)でロシア人のオペラ歌手から声楽の訓練を受けた。やがて満映にスカウトされて「李香蘭」の名前で中国人女優としてデビューすることになる。以降の数奇な運命はミュージカルなどにもなっているから、知っている人も多いだろう。

上記のアルバムには『赤い睡蓮』『蘇州夜曲』『迎春花』『夜来香』など、彼女の名曲が網羅されている。中でも私が秀逸と思うのは『乙女の祈り』、『私の鶯』、それに中国語の『売糖歌』である。いずれも映画の主題歌として使われたものだ。李香蘭の歌を聴くと、日本の歌謡はすでに戦前で完成の域に達していたことを強く感じる。彼女は少女時代に西洋音楽の訓練を受けただけあって、戦後の演歌節などとは全く無縁な西洋式歌謡の流儀で歌われている。彼女の歌の作曲を手がけたのは、多くが古賀政男と服部良一である。すでに戦前において、日本語で歌われる歌謡もまた日本語小説と同じく西洋文化を十分に消化できていたことを李香蘭の歌は示している。だが戦後の演歌では、その高みが完全に失われてしまった。演歌は進歩性を失った日本歌謡である。それはそれで価値があるのだろうが、私の耳には快くない。

『カルミナ=ブラーナ』 Carmina Burana は、ナチス時代のドイツで発表された音楽で今でも盛んに演奏される唯一のものだろう(1937年初演)。映画はリーフェンシュタールがいるが、絵画・文学は全くダメ、音楽についてはこれだけ。だが、背景が背景だから、この曲は学校の音楽の授業なんかでも取り上げられることはないだろう。

『カルミナ=ブラーナ』とは、中世後期十三世紀ごろに南ドイツで編纂された詞華集のことだ。原語は中世ドイツ語かあるいはラテン語で書かれている。当時クレリキ・バガンティ clerici vaganti と呼ばれた放浪神学生たちがいた。彼らはヨーロッパ各地の大学で修学をしたものの聖職の口がなく、各地を放浪したいう。『カルミナ=ブラーナ』は、主に彼らの作になるといわれる詞華集である。その内容は、酒の快楽と恋と世俗的風刺といったとりとめもないものだ。十三世紀といえば、ちょうどフランチェスコ修道会などの托鉢修道会運動が盛り上がった時期である。ようやく経済に余裕が出てきて人の動きが活発になり始めて、多くの人が何かを求めて歩き回っていた時代だったのだろう。まじめな托鉢僧と放埓な放浪神学生では態度が違いすぎるが。

オルフは『カルミナ=ブラーナ』から二十四の詞を抜粋して曲を付けた。古拙な詞に現代風の音を重ねて、躍動的で官能的なオーケストラ付大歌曲にしている。曲は独唱と合唱が交互に入り混じる形式で、多種類の鳴り物を用いて複雑で多様なリズムを展開するが、メロディーはわかりやすいものだ。もし十二音技法など用いたら、たちまち当局から「退廃芸術」 Entartete Kunst の烙印を押されただろう。それでも発表当初この曲は「退廃芸術」呼ばわりされたという。すぐに国内で大人気となったのであるが。

Were diu werlt alle min
von deme mere unze an den Rin,
des wolt in mih darben,
daz diu chunegin von Engellant lege an minen armen, Hei !

たとえ(北の)海からライン地方まで、全ての世界をくれると言おうとも
それでも私の心は求めてやまぬ
イングランドの女王様を、この手に抱きたいもんさ、Hei!
(第十曲、訳は英訳からの転訳。以下同様)


Via lata gradior
more iuventutis,
inplicor et vitiis
immemor virtuis,
voluptatis avidus
magis quam salutis,
mortuus in anima
curam gero cutis.

広い道を、俺は若造みたいにのし歩く
俺は邪悪に捕われてる、善行なんか気にもかけねえ
健康なんかより、楽しみが欲しい
俺の魂は死んじまった、もう自分の肌を気づかうだけ。
(第十一曲)


Siqua sine socio,
caret omni gaudio;
tenet noctis infima
sub intimo
cordis in custodia;
fit res amarissima.

恋人がいない女の子には、何の楽しみもない
彼女は夜寝る前のひとときを、ひとりで心にしまい込む
なんてつらい運命なの。
(第十五曲)


Si puer cum puellula
moraretur in cellula,
felix coniunctio.
Amore suscrescente,
pariter e medio
avulso procul tedio,

男の子と女の子が小さな部屋で泊まったら、
楽しいアレが待っている、
愛が、お互いの間から立ち昇れば、くさくさした気分なんかどっかにいっちまう。
(第一九曲)

万事こんな調子である。ストイシズムなどどこにもない。ナチズムというのはある意味で欲望の解放運動でもあった。ナチスが攻撃したのはインテリであって、一般大衆には旅行やスポーツや自家用車などの娯楽を積極的に与えようとする側面があった。第三帝国もまた大衆社会であり、当時の先進国と時代を共有していたのである。戦中も当局は極力国民の生活水準を切り下げないよう配慮したという。その政策が、占領した地域からのはなはだしい収奪に結びついた面もあったに違いない。

しかし、『カルミナ=ブラーナ』は喜び一辺倒ではない。第一曲と最終曲は同じ歌詞が使われている。

O Fortuna,
velut Luna
statu variabilis,
semper crescis
aut decrescis;

おお、運命の女神よ!
月のように姿を変える者よ、
おまえはつねに満ち欠けをやめることがない
(冒頭部)

そして、第二曲ではこのような歌詞が歌われる。

Fortune plango vulnera
stillantibus ocellis,
quod sua michi munera
subtraihit rebellis,
Verum est, quod legitur
fronte capillata,
sed pierumque sequitur
occasio calvata.

私は運命の女神が残した傷のために泣く、目に涙をたたえて。
彼女は私に贈ったものを、今度は敵であるかのように奪い取る。
まことに、書かれてあるではないか。
「今は豊かな髪の毛をたたえていても、
たいがい後で来るのは、冬枯れ、はげ山の季節」

In Fortune solio
sederam elatus,
prosperitatis vario
flore coronatus;
quicquid enim florui
felix et beatus,
nunc a summo corrui
gloria privatus.

かつては幸運の王座に
喜びにあふれて座ったものだ
欲しいものは何でも手に入り、
花の冠を被っていたものだ
だが、あんなに栄え、
幸せで称えられていたのに
今や私は高みから転落し、
栄光を奪われた

Fortune rota volvitur:
descendo minoratus;
alter in altum tollitur;
nimis exaltatus
rex sedat in vertice -
caveat ruinam !
nam sub axe legimus
Hecubam reginam.

運命の車輪は回る;
ある者は下向きの回転に乗って落ちていき、
また別の者は高みに運ばれていく;
今ぞ花よとちやほやされて、
王は高みに座っているが ―
彼に警告せよ、破滅に気をつけろ!
運命の車輪の下には書いてあるぞ、
「お前の妻はヘクバなり」!

* ヘクバ(Hecuba)は伝説のトロイの女王。彼女と夫の王の代にトロイは滅んだ。

明るさだけの世界は偽りの世界である。運命はどの人間をも翻弄する。この作品を作曲者オルフの第三帝国へのひそかな風刺として見るよりは、光も闇もある世界の正しい姿を第三帝国の中にいながらも変わらず見て取ろうとした、芸術家のまっとうな感覚として見たほうがよいのではないだろうか?



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