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第15回 何も言わない。これがラジカリズムだ


ジョン・サヴェージという人の書いた『イングランズ・ドリーミング』(シンコー・ミュージック、日本語訳:水上はるこ)には、パンクの草分けセックス・ピストルズ Sex Pistols の顛末記が詳細なルポルタージュとして書かれている。この本を読むと、正直言って私はパンクムーヴメントを起こした彼らのような若者に対して眉をひそめる階級意識に属している人間だと、今になって痛感してしまう。彼らの順法意識のなさ、サッカー会場での憂さ晴らし、日常生活の誇りは異様なファッションだけ、そしてカス札をいつかプラスに変えてやろうと望む動物的な衝動だけに向けられた向上心、、、これが、当時のイギリスのワーキングクラスのティーンなのだ。それに比べると、今の私の意識は完全なミドルクラスだ。ポール・マッカトニーは聴くけれど、ザ・フー The Who は「連中のアイドルだから」聴かない。サッカーももちろん見るけれど、クリケットも結構好きだったりする。そろそろレイバー(労働党)にはうんざりしてきているものの、八方ふさがりの状況を打ち破ろうとする保守党党首マーガレット・サッチャーの強烈な呼びかけには嫌悪感を感じながら対案を出せずに内心困っている。私はおそらくそんな感じだ、きっと。階級には階級意識が伴っていて、勝手な思い込みではなく本当に階級を越えて分かり合うことは、やはり難しいはずだ。たぶん日本もだんだんこれから階級分化していって、その実感が出てくるのだろう。

不景気、失業苦、肥大化した公共事業、テロ、、、1970年代半ばのイギリスは暗かった。その状況の中から、相対立する二つの運動が出てきた。ミドルクラスの大人たちに奮起を煽り立てるサッチャリズムと、ワーキングクラスの子供たちに破壊を煽り立てるパンクムーヴメント。階級の対立と共に年齢の対立であった。

「子供たちは苦痛と死を望んでいるのさ」と、ライドン(ジョン・ライドン。ピストルズのヴォーカル、ジョニー・ロットンのこと)はせせら笑う。「奴らはもの凄いノイズを求めてる、なぜかと言えば、そいつが奴らの無感動をふるい落としてくれるからさ」
(『イングランズ・ドリーミング』より)

ティーンの望んでいることというのは、いつの時代もこのようなものなのだ。それは人類という種に組み込まれたプログラムであるに違いない。私も16歳の頃は世の中の全てが腹立たしくて、ニーチェの『ツァラトゥストラ』などを読んで一人鬱屈していたものだ。例の神戸の「少年A」もまた14歳にしてニーチェを読んでいたという。今の日本がテロリズムから一応遠ざかっているのは、単に人口構成で十代の比率が小さくなっているからに過ぎないのではないか?要は社会が老い始めているのだ、国内の平和を一方的に誇るのは、ちょっと待ったほうがよい。

Fliehe, mein Freund, in deine Einsamkeit!
わが友よ、逃れるのだ、君の孤独の中へ!(『ツァラトゥストラ』より)

だがパンクというのはまたティーンたちの "Fun" (おもしれー。)を求めるムーヴメントであった。ピストルズがライヴで好んで演奏したストゥージーズの曲に "No Fun" がある。「ひとりでいるのはつまんねえ」、ただそれだけを歌った曲だ。ピストルズには人をバカにしたユーモア心がふんだんにあった。何か目立っておもしれーことをやってみたい、パンクはティーンのそんな単純な心にひっかかったことが大流行を生み出したのだろう。とあるパンクバンドのファンジンには、ギターのコード図と共にこんなことが書かれていた、「バンドで演奏するには、これが一から十だ。このコードがA,これがE、これがG.さあバンドを結成だ!」簡単じゃないか。俺だってできる。パンクムーヴメントとは、要は「俺にも歌わせろ」の運動だった。そして、やがてすぐにその運動も資本に捉えられてしまい、祭りは短い期間しか続かなかった。

一方その頃ずっと東の国の日本ではさほどの経済的落ち込みも見せず、円が急騰して経済規模が世界水準でにわかに大きくなった。インフレも学生運動も、もはや収束していた。そしていつものことだがパンクムーヴメントもまた日本にすかさず輸入されて、消費されていった。だが成功している日本で、撃つべきものなどどこにある?初めから輸入商品である日本のパンクロックに、「俺にも歌わせろ」の心があるか?まことに茶番でしかない。だが、全体としては茶番であっても、中には光るものもある。



≪ 今回のイチオシ ≫
スターリン『虫』




曲は12曲。タイトルは順番に、『水銀』『365』『泥棒』『天プラ』『Fifteen(15才)』『ING,O!(夢遊病)』『Die In』『取り消し自由』『GO GO スターリン』『Nothing』『アザラシ』『虫』。

歌詞は引用する必要などほとんどない。タイトル以上のことを歌詞は事実上言っていないのだ。これは「内容がないので言っていないのも同様」という意味ではなくて、本当に歌詞がほとんどないのだ。そして、ほとんど何も言わないということが、このアルバムのメッセージなのである。
このバンドの一枚目のアルバムは、まことにつまらない。イギリスパンクの猿真似である。どうして今の時代の日本でパンクなのか、ちょっと前の時代のフォークではどうしてだめなのか、という根拠がない。明治の昔からえんえんと繰り返されてきた、「欧米ではやっているから形だけ借りました」の一バリエーションを全く越えない。あらゆる言葉が「皮相上すべり」。これならアニソンのほうがましだ。だから私の評価はゼロである。
だが、この二枚目は早くも日本の状況を天才的に捉えている。だからイチオシだ。そしてスターリンというバンドは事実上この二枚目で終わる。

どんなに反抗的で反体制的な言葉でもそれが目立ったものであるならば経済価値が出てくるのが、資本主義のシステムだ。イギリスのパンクムーヴメントもそうやって消費されて、短期間で収束した。だからムーヴメントが終わった後でも何かしら語ろうとするならば、プロテストの言葉自体がメッセージとして成功すれば即資本の体制に絡め取られることを覚悟で語らなければならない。それは大人の態度である。ガキどもの「俺にも歌わせろ」の運動として始まったパンクムーヴメントからは卒業しなければならない。ポストパンクのグループであるザ・ジャム The Jam のソングライター、ポール・ウェラー Paul Weller の歌詞などを読むと無類に面白い。彼はイギリス現代詩人の巨星として挙げるべきだ。コミュニティーの荒廃、失業問題、暴力行為などの厳しいテーマを正面から取り上げて、しかも泥臭くなく書き上げる力は大したものだ。

だから、しょせんパンクを流行の商品として輸入してしまった時点で、日本のパンクはスタートからインチキである。ファッションで状況にプロテストできると思うな。資本はそんなに甘くはない。

そこでスターリンのソングライター、遠藤みちろうは恐るべき手段に斬り込んだ。語ることをやめたのである。日本語のソングというものはただただ情緒に流れるのが言葉のわく組みとして与えられていて、英語のソングのように散文的に語る歌い方ができない。だからポール・ウェラーのようなソングが歌えない。そこで、日本語によるプロテストの手段として、ほとんど何も語らないという逆説的なことを行なった。『虫』はヘヴィーなサウンドに、遠藤みちろうの単純すぎる歌詞が乗って、ただそれだけ。それでもこれがプロテストソングであることがはっきりわかる。日本経済は成功している。その成功の要因は、ひたすら現状を出し抜くような新しいことの発掘に熱中する日本人のヴァイタリティーだ。その意味で知識人も左翼活動家も反抗的学生も、「新しいことをしている」という点だけで資本を大喜びさせるものだ。一切の運動を資本の運動にしてしまうブラックホールが戦後日本経済であった。そんな状況の中で、他人を撃ったところでまた同じ事の繰り返しだ。遠藤みちろうの単純すぎる歌詞は、だから自分の状況を撃つ。― もう何を言っても同じ、だからお手上げだ、お前に任せるよ、勝手にすればいいだろう、もう手も足も出ない、帰りたいよう!、、、、

資本が絡め取ることができないのは、何もしない自由だけだ。これだけはどうしようもない。結局アルバムの形になっているからこれも資本の運動に入っているのだが、散文的に言葉を語れない日本語の条件の中で、この真のパンクバンドはぎりぎりの体当たりをやっている。日本語でぐだぐだ生暖かい反抗もどきのたわごとを語る二流三流ロッカーどもよりも、よほどにどきりとさせる凄みがある。このアルバムは日本のロックが生み出したプロテストソングの一つの最高峰であると、私は信じている。そして八十年代以降の日本でまだロックが反体制的だと考えているような輩がもしいたならば、もう話にならない。



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