一回ぐらいは絵について書いてみよう。だが、正直言って私は映画と絵については、いまひとつこだわりがない。観たときに「しあわせ感」が心の中に立ち昇る経験をしっかり持っている人は本物の観賞家で、こういう人が書いた批評は(どんなに辛辣でも)本物だろう。だが、私は音楽や文学に比べて、絵画に「しあわせ感」を経験する能力が乏しいようだ。漫画ならあるのだが。だが私は漫画については書く気がしない。
衝撃を感じたことはある。以前京都市美術館で見たムンク展には圧倒された。そのときにはエドヴァルド・ムンク Edvard Munk (1863 - 1944)の版画が数多く展示されていた。絵にはどす黒い鬱屈した心が表現されていた。女の絵は美しいというよりも、性そのものの生々しさがあった。そして絵の縁取りには精子たちに胎児、、、性的暗示の装飾、それに囲まれた女、、、まさに人間の奥底をさらけ出す芸術の凄みがそこにあった。これは衝撃だった。
感嘆することもある。月並みな批評だが、ピエール-オーギュスト・ルノアール Pierre - Auguste Renoir (1841 - 1919)の人物画は、一度見ただけで「うまい!」と感じるものだ。ただ対象を観察しただけでは決して描くことができない光のきらめきが、完璧に表現されている。積み上げられた西洋絵画の伝統的技術の上に、芸術家の鋭い観察眼が加わってこそできる高みが表れている。
私自身は、中学四年生のとき、はじめて"東京ずし"を食った。いきなりうまいとおもった。そのいきなりが、普遍性というものである。(司馬遼太郎『アメリカ素描』より)
東京ずしではないが、いきなり「うまい」と思わせるのがルノアールの人物画だった。

昔ヨーロッパに旅行したとき、アムステルダムの国立美術館に行った。ここには、かのレンブラント Rembrandt va Rijn(1609 - 69)の大作『夜警』がある。もっとも『夜警』という名は通称で、正式名は『フランス・バニング・コック隊長率いる民兵団の行軍』だということだ。だいたいこの絵は画家が光のスポットを特定の人物に当てるという効果を出しているから周囲が暗くなっているが、本来は昼の絵だ。とにかくも、これは大きな絵だった(363cm×437cm)。これを依頼したのは隊長(真ん中の黒服の人)及び17人の民兵団だったという。集団依頼だったわけで、まさしく市民のための絵画だ。一説には依頼者たちは暗く描かれているため出来栄えに不満だったというが、実際には彼らの不平を示す証拠はないらしい。モブ(群集)ではない個性のある市民たちの集団を描くというテーマが主題となった時代は、西洋絵画史でもそんなに長続きしなかった。レンブラントらのオランダ絵画は、やがて愛想もコイソもなくなるビジネス社会における一番優雅な時代の産物であったのかもしれない。
私はマヤ・ナスカの陶器や古代中国の青銅器などが大好きで、おどろおどろしいデザインに強く引かれる傾向がある。そのため西洋絵画は食い入って見るほどの趣味はない。時にちょっといいかな?と思う程度だ。それで今回のイチオシも、そんな軽い印象を受けたものである。
≪ 今回のイチオシ ≫
ドラン『アルルカンとピエロ』 |

昔「オランジュリー美術館展」というのが京都であって、そこでアンドレ・ドランの1920年代の絵が数点展示されていた。彼の伝統回帰時代の作品だった。その中で不思議に私の印象に残った絵があった。それが『アルルカンとピエロ』(1924)だった。青空の下でギターをかき鳴らしながら並んで歩く二人の道化師、アルルカン Herlequin とピエロ Pierrot。アルルカンとはイタリア喜劇由来の道化役で、まだらの服に頭巾を被る日本でもおなじみのスタイルだ。ピエロは白服、これは喜劇と共に一抹の哀しみを表す道化のスタイルだ。ただしこの絵では、両者は化粧をせずにあくまでも素の人間であることを表現している。アルルカンはやせののっぽでピエロはちびの太っちょ。アルルカンは口をつぐんで無表情(つまり阿吽の吽(うん)であり、能面でいえば戎見(べしみ)に当たる)。一方ピエロは歌を歌っている(つまり阿吽の阿(あ)であり、能面でいえば飛出(とびで)に当たる)。すべて伝統的な型通りの対比で描かれているのだが、空虚な青空の下で道を歩く二人の姿が人生の機微を示しているようで楽しい絵であった。この絵がパブリック・ドメインになっているのかどうかよくわからないので、実物写真は以下のサイトで見てください(英語)。 http://cgfa.sunsite.dk/derain/p-derain14.htm
アンドレ・ドラン André Derain (1880 - 1954)。1898年に技術者の教育を放棄して絵の道に入る。伝統的な色使いを否定して、強烈な色彩だけを使うフォーヴィズム Fauvisme の第一人者となる。1907年にモンマルトルに移り、ピカソやブラックと交流する。彼らはセザンヌやアフリカ彫刻に大いに関心を持った。第一次大戦前からすでに絵は売れ始めていた。詩人アポリネールやブルトンの作品にイラストを提供するなど、文壇とも交流があった。第一次大戦に従軍し、戦後には芸術界のスターとなって世界各地を歴訪する。この頃には以前のフォーヴィズムから遠ざかり、伝統的な絵画に回帰していく。第二次大戦でフランスはドイツの支配下におかれる。このときドランはうかつにもナチスの宣伝に乗ってドイツに協力的なフランス芸術家としてまつり上げられ、1941年にはドイツを公式訪問などしてしまう。そのためフランス解放後には対独協力者として白い目で見られ、名声は地に落ちてしまった。
このように生前から名声を得て、しかも政治がらみで生臭い経歴の持ち主だ。美術史の中でもう一つ大きく取り上げられないゆえんはこのへんにあるのだろう。

チャリングクロス橋(1906)
ドランのフォーヴィズム時代の絵も面白い。私はドランとほぼ同時代人のユトリロ Maurice Utrillo (1883 - 1955)の風景画を観たとき、その灰色基調の色使いにうんざりしまって共感できなかった。だがドランの風景画はヴァン・ゴッホの影響を強く受けながら、しかもヴァン・ゴッホと違って健康的である。その分深みがないと言うこともできるかもしれない。
ドランが第一次大戦後伝統的画法に回帰していったのは、音楽で新古典主義が広まっていったことと時代を同じくしている。『春の祭典』(1913)で音楽でのフォーヴィスムを達成したストラヴィンスキーもまた、第一次大戦後には西欧伝統的な作風に戻っていた。いわゆる「戦間期」は、ヨーロッパの夢の終わりの時期であったのだろう。フォーヴィズム以降のドランの作品は美術史でもあらかた軽視されているし、実際インパクトに薄いと私も思うが、ちょっとした印象の記録として今回は一つの絵を取り上げた。パリのオランジュリー美術館蔵。